ティルナ・ファーライル
かなり時間が空きましたが、次章ということでようやく再開します。いきなり新キャラですが、そろそろ登場人物紹介とかまとめた方が良いかも。むしろ自分のために。
「ティルさん、おつかれ。はい」
ミニペットボトルのアイスティーがデスクの上に置かれる。
「ありがとう」と微笑みながら受け取ったのは、亜麻色のショートヘアにメガネをかけた白衣姿の女性──ティルナ・ファーライル。
ティルというのは彼女の愛称だ。
「先週のマウス実験のレポートか。結果は……良好みたいだね」
「ええ、浅田先輩。効果は期待通りでしたし、経過も順調です」
浅田と呼ばれた男性は、ティルナの肩越しにモニターを覗き込み、表示されたワークシートやグラフを眺める。
「WBCやPLTに異常なし。生化学検査もすべて基準内と」
「はい。経過観察は続けますけど、今回もいまのところ問題はなさそうです」
「まあ無理はしないでね。実験の内容が内容だけに、まだまだ時間はかかるからさ」
そう言って自分の席に向かう浅田の姿を見届けると、ティルナはイスの背もたれに身を預け、大きく伸びをした。
彼女は十二年前に日本に転移させられた異世界からの「転移者」だった。
最初の転移者が発見されてから三年後、政府はその存在を公表した。だが、ティルナの登場は関係者に新たな衝撃を与えた。
理由は、彼女は「神官」というジョブであり、なにより「ヒール」という魔法を使えたことだ。
──治癒魔法。
このファンタジー世界ではポピュラーな魔法が、現代日本では大きな問題となった。
他者の身体に直接作用して怪我を治す行為は、医療行為に該当する。日本では、医師免許を持たない者がそれをおこなえば、有償・無償を問わず違法となるのだ。
場合によっては、傷害罪に問われる可能性すらあるという。
このためティルナは、ヒールの使用を厳禁された。
そのうえで国立大学の医療研究施設において極秘に、治癒魔法へのさまざまな科学的検証が進められた。
ヒールによって、小さなキズ程度なら明らかに異様な速度で回復させること。
つまり、上皮細胞の増殖や毛細血管の新生、そしてコラーゲンによる皮膚組織の再構築にいたるまで、あらゆる再生プロセスを劇的に促進することが確認された。
研究チームによる仮説は「人体の自己再生能力を高速化し、増幅・抑制までする未知の技術」ということに落ち着いた。
(この原理が解明されれば再生医療は一気に進歩する)
実験への参加者たちは、だれもがそう確信し、政府にティルナへの特例措置を要望した。
この技術、つまり治癒魔法を積極的に研究解明すべきだ、と。
こうして、改正されたばかりの高度外国人材制度によって義務付けられた1年間の教育期間を終えたティルナに新たな進路が提示される。
それは医師免許取得という進路だった。
教育期間を延長し、あらためて高等教育を受けたのちに医大を受験。卒業して初期研修も終えれば、治癒魔法を使用するうえで最低限の資格が得られる。
生活面では、定期的に研究所に通うことで再生医療研究への協力という名目で給金を支給。医大合格後は、特待生として学費免除のうえ奨学金ももらえるという。さらに住居についても国が面倒を見るというのだ。
奨学金については給付と貸与の二本立てだが、国立の研究機関に就職した場合は貸与分も返済免除という条件に政府の思惑が見て取れる。住居斡旋も本音では監視目当てだろう。
見知らぬ世界に放り出され、不安しかなかった彼女にとって、この提案を断る理由はなかった。この日本において医大進学が、どれほど高いハードルかということも聞かされたが、覚悟を決めるほかなかった。
「……つらかったなあ。けど、うん。楽しかった」
海外からの国費留学生という建前で通った高校や大学でのキャンパスライフは、とても刺激的な毎日だった。部活やサークル活動まで参加する余裕はなかったけれど、学園祭や修学旅行といったイベントは経験できたし、友人もたくさんできた。
なにより、学ぶことは「つらい」ばかりでなく、新しい知識や経験を得ることへの喜びにみちていた。
そして12年後。ティルナはぶじに医師免許を獲得し、国立大学に附属する再生医療の研究所に就職した。
あるいは、この国に生まれ育った人々から見ても、彼女の歩みは羨ましく映るだろう。
(……異世界人なのに)
ときどき向けられる、そんな目に気づかなかったわけではない。
見知らぬ世界にむりやり転移させられた身としては、ほかに選択肢などなかった。
だからこそ、人並み以上の努力をしてきた。
日本での生活や文化は水準が高いけど、それでも帰りたいと思う気持ちだってあった。
むしろ、そうした感情に負けないために、ここまでがんばれたのかもしれない。
「さて、実験レポートをまとめないと」
壁の時計がもう3時をまわっていることを確認すると、背筋を伸ばしてキーボードに手を伸ばす。そのときにデスクの内線が鳴った。
「ティルナさん、朝霞さんという方がお見えです」
朝霞郁人。ティルの身元保証人になってくれている人材派遣会社の代表だ。
「すぐいきます」と電話を切ると、急いで1Fロビーに向かう。
受付前のベンチに座っていた来訪者は、エレベーターから降りてきたティルの姿を見つけるとすぐ立ち上がり、ニコニコと人懐こい笑顔で会釈してくる。
ティルナは、ロビーのカフェテラスに朝霞を案内した。
「朝霞さん、おひさしぶりです」
「忙しいのに、すまないね」
「いえ、ちょうど3時の休憩タイムでしたので。えっと、コーヒーで良いですか?」
「いやいや、お気遣いなく」
「気にしないでください。ここは研究スタッフなら無料ですから」
慣れた様子でウェイターにコーヒーを2つ注文するティル。
「それで、今日はなんのご用事で?」
「ティルナさんが採用されて半年だからね。研究所長の木崎さんに勤務状況とかの確認に来たんだよ。これも内規で決まっているのでね。で、その帰りに顔でも見ておこうかなと」
わざわざ代表自ら確認に来る必要があるのか疑問だが、所長からの評価というのも少し気になる。
「そうですか。所長はなにか言ってました?」
「心配しなくても、すごく好評だったよ。まあ内容を細かくは説明できない決まりだけど。むしろ、申し訳なさそうだったよ」
「え?どういうことでしょう」
「いやいや、ティルナさんの大学での成績や初期研修の評価を見ると、このまま専門医の道に進めばもっと高待遇で迎える病院が多かっただろうとね。もちろん所長としては手放す気はまったくないそうだけど」
再生医療の分野では日本トップクラスといわれる所長に、そこまで評価されているのは彼女にとって心底嬉しいことだった。
「学生時代から協力者として通っていた研究所ですし、治癒魔法をきちんと理解できる環境ですから助かっています。神官という天職を授かった身としても、なにかを学ぶことの方がふさわしい気がしますし」
「そうか。われわれからすると職を授かるということ自体が不思議な感覚だけど、ティルナさんが充実しているなら、それがいちばんだ」
朝霞は「うんうん」と頷きながらコーヒーカップに口をつける。
その後も、職場環境や雇用契約についても質問されるが、ティルナはどれも「問題ありません」と回答する。
「そういえば、研究も順調らしいね」
「ええ。このまま結果が良好ならば、遠からず委員会に臨床計画を提供することも考えたいらしいです。でも……」
「でも?」
「計画が許可されるかどうか、将来的に標準治療として認定されるかについては、やはり難しいみたいですね。治癒魔法の根底にある魔力というものがまだ科学的に曖昧なので」
魔力。それはいま物理学会でも大きなテーマとなっている。
重力、電磁気力、強い力、弱い力という既存のエネルギーに加わる第5の力として注目し、ダークエネルギーやダークマターの謎を解明する力として期待する学者は多い。
とはいえ、魔法を行使できる転移者が日本にしか居ないため国際的には研究が進まず、学問テーマとしての魔力研究は停滞しているらしい。
そんな未知の力を、医療という人命に直接関わる分野で利用するとなれば、どれほど世論が紛糾するか容易に想像できる。
魔力という存在について物理的な特性解明がなされないかぎり、治療方法としての地位を確立することは難しいだろう。
「たしかに臨床試験なんて話がでてくると、いままで公然の秘密扱いだった治癒魔法の研究も明るみにでるだろうしね」
「ええ。所長も、最後は政治判断だとおっしゃってました」
「そうか。先はまだ長そうだけど、再生医療というのは難病治療などでも大きな希望だから研究頑張ってね。でも無理はしないように」
「はい。ありがとうございます」
昔からいつも自然体で笑顔を絶やさない朝霞の態度は、ティルナにとって心地よい。その物腰や適度にくだけた口調のせいか、転移してきたばかりでいつも緊張していた時分から、彼とは打ち解けることができていた。
「そういえば、ご家族はみなさんお元気ですか」
「ああ、元気だよ。とはいえ、妻の燁子はいまドイツに単身赴任中でね。長女の遥香は東京の大学に合格したので、春からあっちでひとり暮らしさ。だから、いま家には息子の遥人と二人きりなんだよ」
「それは、寂しそうですね。家事はどうしてるんですか」
「週に三回ほどホームヘルパーさんに来てもらってるよ。まあ息子も、もう高校生だしね。自分で身の回りの世話をすることは、いずれ独立するための良い練習になるさ。……というのは建前で、たんなる放任だけどね」
燁子と遥人。二人と最後に会ったのは2年ほど前だろうか。
医大の卒業記念ということで、朝霞家の家族4人がパーティをひらいてくれた。
それまでにも、ことあるごとに朝霞は家族とのイベントにティルナを招待してくれていた。とつぜんの異世界転生という境遇だけでなく、治癒魔法のせいでなにかと異例な扱いをされがちなティルナへの配慮だったのだろう。
物心つくまえに両親を事故で亡くしたティルナにとって、そんな朝霞家との交流は家族というものを実感させた。目には見えなくてもたしかな絆。それが少し羨ましく、それ以上にあたたかな憧れのようなものを感じさせていた。
とくに逸人と遥香。姉弟の関係はいつも微笑ましかった。年長者らしく振る舞おうとあれこれ指示する姉と、口ではめんどくさそうに文句を言いつつ素直に従う弟。
そんな二人の関係は、転移前、教会の孤児院でいっしょに暮らしていた子どもたちを思い出させた。
貧しくてもみんなで助けあっていたあの子たちとの記憶が、「ティルさん」「ティル姉」と呼びながら左右の手をひいてくる姉弟の元気な姿と重なっていた。
「じゃあ、そろそろおいとまするよ」
そう言って席を立った朝霞をエントランスまで見送ったあとも、ティルナは楽しかった思い出を心のなかで反芻する。
「そういえば、最近は研究ばかりであまり外出もしてないなあ」
無愛想な白衣の上からでもわかる、均整の取れたプロポーション。その腰に手を当てて、深呼吸するように背筋を反らす。
朝霞との会話が呼び起こした、遠出や旅行の記憶。
それは、忙しい日々の中で忘れかけていた「ゆとり」という感覚だった。
「今度の休日には、久しぶりに街にでも出かけてみようかな」
そう心に決めて、ティルナは少し楽しげに自分のデスクへと戻っていった。
ご意見・ご感想いただけると励みになります。