日曜日の約束
見たことがあるような風景だった。
淡く染まった空は、まるで少女の赤いリボンを映しているかのように、ほんのりと赤く染まっていた。
小さな男の子が、泣きながら少女の手をぎゅっと握っていた。
初めて会ったはずなのに、どこか懐かしいその笑顔。
男の子は、自然とその少女に身を委ねていた。
少女はずっと微笑んでいたけれど――その笑顔は、どこか震えているようだった。
どうしてそんな表情を浮かべていたのだろう?
彼女は誰なのだろう?
問いかけたい言葉を飲み込みながら、男の子はその小さな背中を追いかけた。
しばらくして遠くに母親の姿が見えると、男の子は駆け出した。
――そしてふと、振り返ったその時。少女はもう、遠く離れた場所に立っていた。
「また明日!」
叫んだその声に、少女は突然涙をこぼしながらも、なんとか笑顔を作って答えた。
『きっと、また会えるよ』
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「起きなさい。いくら休みでも、クマだってそんなに寝ていないわ。」
彼女の声で目を覚ました。部屋はまだ冷たい空気が漂っていて、窓の外からは雪の結晶が静かに舞い落ちている。布団の中で体を動かすと、頭がズキズキして目もなかなか開かない。
「昼ご飯一緒に食べるって約束したよね?忘れちゃったの?」
彼女は笑いながら、私を見つめて問いかけた。温かく、心地よい雰囲気の彼女の顔を見て、私はほっと一息つき軽く微笑みを浮かべた。
「今、何時?」
「もう10時半。」
彼女は俺に携帯の画面を見せながら言った。
「まだ10時半?」
俺は再び厚い布団を顔まで引き寄せながら答えた。
「言っておくけど、「もう」10時半よ。これ以上寝てたら、今日一日を無駄にしちゃうわよ?」
彼女は冗談交じりに言いながら、もう一度布団を引っぺがした。俺は少しずつ体を起こし始めた。まだ疲れた体と頭。しかし彼女の言葉が俺を少しずつ現実に引き戻してくれた。
「でも、どうやって家に入ったの?」
シャワーを浴び、少しずつ目が覚めてきた俺は困惑した表情で彼女に尋ねた。
「どうやって入ったかって?」
彼女は呆れたように言った。
「LINEも見ないから電話したんだけど、中野先生が寒いから中に入っていなさいって言ってくれたのよ。」
「うちのお母さん、本当に…言ってくれればいいのに。」
俺は不満をこぼしながら、苦笑いを浮かべた。
「私が言わないように頼んだんでしょ?先生と私は、秘密の連合だから。」
彼女は冗談めかして、俺を見ながら言った。
「お母さんとそんなに仲良しなの?」
俺は腕を組んで言い返した。「秘密の連合」なんて…彼女が嬉しそうに自慢している表情を見て、俺は笑いをこらえるのが精一杯だった。
「それは違うけどね。」
彼女は肩をすくめて、明るく笑った。少し遊び心を感じさせる眼差しがきらりと光った。
「先生が誕生日だから、楽しんで来てって言ってたの。それで堂々と入ったわけ。完璧な誕生日プレゼントだと思わない?」
冗談は冗談として受け止めるべきだろう。俺は首を左右に振りながら、わざと探すふりをして言った。
「どこ?見当たらないけど?」
「…マジで死にたいの?」
彼女は冗談交じりに目を細め、唇をすぼめた。彼女の手が少しずつ上がると、俺は手をバタつかせながら必死で叫んだ。
「うわ!降参、降参!わかったから、やめて!」
彼女は嬉しそうに笑いながら、ドアの方に向かって歩き始めた。途中で振り返り、ニヤリと笑って言った。
「前で待ってるから、早く準備して出てきて。」
了解したように頷くと、ようやくドアを閉めて出て行った彼女。朝から散々な目にあった俺は、少し目を閉じてため息をついた。
‘…また叶奈のペースに巻き込まれたな。’
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「……新しいことに挑戦しようって言ってたのに、結局またここ?」
彼女に手を引かれて歩いていたら、気がつけば炭火がパチパチと音を立てるテーブルを挟んで向かい合っていた。週末の昼時でもそれほど混雑しない、会話するにはぴったりの俺たちがよく来る焼肉屋だった。彼女はにっこり笑いながらトングを握った。
「毎日が新鮮じゃない? 同じ場所でも、誰といるかで違って感じられるんだよ」
「……でも、毎回僕と来てるじゃん? もしかして他に男友達でもいるとか……」
彼女はため息をつきながら、俺の皿に肉を乗せて言った。
「はいはい、くだらないこと言ってないで、早く食べて」
「いや、その……毎回同じ場所だと、君も飽きるんじゃないかなって思ってさ」
すると彼女はくすっと笑って、口を開いた。
「なら問題ないね。私は純粋に、炭火焼きが好きなだけだから」
慣れた手つきで肉をひっくり返しながら彼女は続けた。
「それに見てよ、火の揺らぎも毎回違うし、焼き加減も違うし、私たちの会話だって毎回違うでしょ。だから、これも立派な新しい経験なんだよ」
「なら、よかったけど……」
「失礼しまーす、お肉の追加です。」
楽しそうに彼女が網の上に肉を乗せると、ジュウゥッと音を立てて焼ける音が広がった。いつ聞いても食欲をそそる魔性の音だ。思わず僕もトングを手に取っていた。
「いただきまーす。おおっ!!」
「どう? 結構うまく焼けてるでしょ?」
綺麗な桜色の肉に、まるで雪のように乗った脂の模様。口に入れるとシャキッとした歯応えのあとに、とろけるような食感が広がる。感動のあまり言葉を失っていると、彼女は得意げに肩をすくめた。
「ふふっ、言葉がなくても分かるよ」
「どんどん焼きの腕、上がってるよね? 昔は、何が何だか分からないほど真っ黒にしてたのに」
「それはあなたがトングを取り上げなければ、もっと上手く焼けてたかもしれないでしょ!」
腰に手を当ててぷくっと頬を膨らませる彼女に、俺はなだめるように一切れの肉を口元へ運んだ。
とろけるような味わいにうっとりする彼女と目が合い、ふたりでなんとなく笑い合う。
「……夕飯いらないかもってくらい、めちゃくちゃ食べちゃった……」
テーブルに身を預けるように倒れ込んだ彼女が、お腹を押さえて弱々しく言う。
そんな日に限って、彼女の提案で頼んだサイドメニューでテーブルはいっぱいだった。
「じゃあ、ちょっと歩こうか? 消化も兼ねて」
そう言って立ち上がろうとしたとき、彼女が僕の手をつかんで言った。
「待って、アイスまだ食べてない!」
「……さっき夕飯いらないって言ってなかった?」
「それは夕飯でしょ? 今のはデザートだもん」
首を傾げる彼女の言葉に、俺は吹き出しそうになるのを必死にこらえた。
アイスが運ばれてくると、さっきまでの疲れが嘘のように、彼女の顔に生気が戻った。一口食べて、恍惚とした表情でつぶやく。
「はぁ……もう死んでも悔いはない……」
スプーンで豪快にすくって頬張りながら、彼女は感動に打ち震えていた。
俺は茶化すように彼女を見ながら言った。
「もう昇天しそう? なんか身体がふわふわ浮いてきてる気がするけど」
スプーンを口にくわえたまま彼女は俺をにらみ、ゆっくり飲み込んでから、真剣な顔で言った。
「だから、邪魔しないで。今、めっちゃ大事な瞬間だから」
そう言って、彼女はスプーンを持つ手を止めることなく、目にもとまらぬ速さでアイスを平らげてしまった。気づけば、器の中には最後のひとかけらさえ残っていなかった。
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駅の構内は、いつの間にか柔らかな夕焼けの光に静かに染まっていた。 仕事帰りを急ぐ人々の足音、ざわめく会話、時折響く駅内の案内放送が、どこか懐かしくもあり、見慣れた風景を作り出していた。
彼女が「ちょっとお手洗いに行ってくるね」と言い残し、俺は彼女の荷物を預かってベンチに腰を下ろした。 ふと、遥か昔の記憶が彼の心に蘇った。
「今年も、あの子には会えなかったな……」
俺の心に浮かんだのは、幼い頃の短い春の日の記憶だった。 古びた町の角、夕焼けに赤く染まった公園で偶然出会った、小さな赤いリボンを結んだ少女。 澄んだ大きな瞳と無邪気な笑顔は、時が流れても彼の記憶に鮮明に残っていた。 まるで薄く溶けた夕焼けの色と似ていた、彼女の可愛らしい赤いリボン。 なぜかもう一度会えるのではないかという淡い期待を抱いて過ごしてきた年月だった。
「まあ、昔の話だしな。」
俺は苦笑いを浮かべ、淡い思い出をそっと心の奥にしまい込んだ。 今では薄れてしまった、まるで夢のようだったあの時代の風景。 二度と戻れない、美しかったあの頃。
その時、彼の背後から軽やかな足音が近づいてきた。 振り返ると、彼女が明るい笑顔で立っていた。
「お待たせー」
彼女の声は、夕焼けの中でさらに柔らかく響いていた。
俺たちは、いつものように並んでホームへと向かった。
その日も、特に変わらない午後の風景だったはずなのに、
いつからか、ふたりの間にはどこか妙な空気が流れていた。
ホームに到着すると、快速電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。
「まもなく、快速列車が参ります。」
俺は自然と彼女の方を向いて言った。
「そろそろ、お別れだな。」
彼女は少し間を置いてから、小さく頷いた。
「うん、そうだね。」
彼女はしばらく俺の目を見つめていたが、やがて唇を噛みしめて一言つぶやいた。
「じゃあ、先に行くね。着いたら連絡するから。」
その声はいつものように落ち着いていたが、
どこかにかすかな震えが混じっていた。
俺には、それがはっきりと伝わってきた。
だが、言葉にすることができず、代わりにぎこちなく笑って答えた。
「うん、わかった。」
快速列車がホームに滑り込むように到着した。
「○○、○○。ご乗車ありがとうございます。」
彼女は俺をもう一度ちらりと見てから、電車に乗り込んだ。
振り返って俺がまだそこに立っているのを確認し、
その視線が少し長く留まった瞬間――
彼女は顔をわずかに赤らめて、急いで視線を逸らした。
「じゃあね。」
ドアの前で、彼女は小さく手を振った。
「ドアが閉まります。ご注意ください。」
――その瞬間だった。
俺の視界に、信じられないものが映った。
彼女の手首に巻かれていた、
少し色褪せて古びた、でも俺にはあまりにも見覚えのある――
あの赤い紐だった。
『……うそだろ』
時間が止まったような感覚が、頭の中を駆け抜ける。
夕焼けの下、リボンを結んで笑っていた、あの日の少女の姿が
鮮明に、蘇った。
そんなはずはない。
けれど、なぜだろう――その瞬間、確信に似た感情が胸を貫いた。
気づけば、俺の体は勝手に動いていた。
「……え?」
我に返ったとき、俺はすでに電車に半分乗りかけていて、
気づけばその手を――赤い紐の巻かれたその手首を、しっかりと掴んでいた。
彼女は驚いたように目を見開いて俺を見た。
けれど、声を上げることも、手を振り払うこともなかった。
ドアは静かに閉まり、ホームがゆっくりと遠ざかっていく。
すぐ隣に立つ彼女の顔。
あまりにも近すぎて、息をするのも忘れそうになる。
俺の手には、まだ彼女の手首の感触が残っていた。
ごくりと唾を飲み込み、俺は彼女の顔をまっすぐ見つめた。
そして――その顔の奥に、
夕暮れの光の中、笑っていたあの少女が重なった。
頭が真っ白になった。
胸が高鳴った。
気づけば、口が勝手に動いていた。
「……やっと、見つけた。」
彼女は、一瞬だけ目を見開いた。
そして、そのまま何も言わずに俺を見つめ返した。
まるで世界の音がすべて消えたかのように、
電車の中にふたりきりの静寂が訪れた。
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ありがとうございました。初めての作品ということもあり、至らない点も多いかと思いますが、
この胸の高鳴りをそのまま届けたくて書きました。どうぞよろしくお願いいたします。