第1部 第8章 遡行する日々
静まり返った病室の中、機械の小さな電子音だけが、律動を刻んでいる。ベッドの上、悠真は天井を見つめたまま、何も考えられずにいた。
凛が、死んだ。つい昨日まで笑っていた彼女が、目の前で――。
気を抜けば泣き出しそうな喉を必死に押さえつけながら、ただ、虚ろな目で過ぎ去った時間を反芻する。
もしも……
願ってはいけないとわかっていても、心の底で何度も思ってしまう。
もう一度だけ……あのときに戻れたら……
その瞬間だった。病室の空気が微かに震え、視界の端に――淡く揺れる光が浮かんだ。
「……え?」
光は音もなく、ふわりと宙を舞い、まるで意思を持つかのように悠真に近づいてくる。
白く、やさしい光。それでいて、現実感のない――どこか異質な存在。
光が胸元に触れた、ほんの一瞬。
世界が反転した。時間が巻き戻るような強烈なめまいと、耳鳴り。
すべてが光に飲み込まれ、悠真の意識は、そこで途切れた。
「ほら、これ見てよ。めっちゃ可愛くない?」
明るい声が耳に届き、視界に差し出されたスマホの画面が映り込んだ。制服の袖。
窓の外には、秋の風。
ざわつく声と、教室の匂い――いつもの風景。
悠真は、呆然とその場に座っていた。
教室の自分の席。机の上には開きかけの弁当。
隣の席から笑いかけてくるのは、紛れもなく凛だった。
「は……?」
息が詰まる。心臓が、ひとつ跳ねる。たった今まで病院のベッドで、凛を失ったはずだった。あの絶望的な現実が、嘘みたいにかき消えている。
「どうしたの?さっきまで普通だったのに、急に黙るとか。」
凛が不思議そうにのぞき込んでくる。その顔は、まぎれもなく”あの日”の凛。”あの日”の昼。
悠真は、ただ目を見開いたまま、彼女を見つめた。
「……夢……?」
そう呟いた自分の声が、現実味を持って耳に届く。
手を見た。汗ばんでる。
頬をつねった。痛い。
これは夢じゃない。
「……なんで……戻ってる……?」
「え、なに?戻るって何が?寝てた?」
凛の問いかけに、悠真ははっとして顔を上げた。
「何が起こったんだ……?」
「もう、どうしたの?」
頭が混乱しているが、少しずつ冷静になってきた。
俺は……凛が死ぬ“あの日”に戻ってる――?