泥棒市へ
風情が未だ残る石畳と蔵造りの並びが観光名所となっているその街を、私はなんのアテもなくブラブラと歩いていた。この街を訪れる者は殆どが電車やバスなどで移動する為、何処へ行っても移動には窮屈さを感じて仕方がなかった。
人心地を取り戻そうと観光客でごった返す通りを一本外れ、寺の境内へ続く小道を進んで行く。その小道にも土産屋や和風雑貨屋が数軒並んでいて、店の中ではたくさんの若い女がひしめき合っていた。
アテもなくブラブラ歩く私が言えた義理ではないが、良くもまぁ平気でいられるものだと感心しながら境内へ足を進めると、そこでもやはりガラクタ市のようなものが催されていた。
店主らしき老婆が三人いて、それぞれの前に敷かれたブルーシートに出処不明の陶器や玩具、食器などが並べられている。
客らしき姿は私の他に誰もなく、境内の中だけはしんと鎮まりかえっていた。
人混みよりはずいぶんマシだと思い、ガラクタばかりの品々に目を落としていると、店主の老婆に声を掛けられた。
「今日はね、泥棒市だよ」
「見た感じで分かるね。なんでも売ってしまえってか」
「あんた、さてはここの泥棒市を知らないね」
「何か他と違うのかい?」
「並んでる商品のメインはそこのガラクタじゃないよ。あそこだよ、ご覧よ」
老婆が指差した先、講堂の前に何やらむさ苦しい男達が五人ばかり背を伸ばして横並びになっていた。その姿はどれもこれも頭が禿げ上がっていたり、だらしなく髭を伸ばしたままにしていたり、シャツが弛んでいたり、見窄らしい印象を受けた。
「婆さん。あの男達が何なんだい?」
「どれでも好きなの選んでいいよ。安くしとくよ」
老婆の声に男達が反応し、こちらへ向かって小さく会釈をした。気味が悪いと私は感じた。
「選んでいいって言ったって。婆さん、あの男達は一体何者なんだい?」
「何者も何もありゃしないよ。あいつらは見ての通り、全員泥棒だよ。うちの地区のみんなで待ち伏せてね、捕まえたばかりの上物さ。さぁ、ゆっくり見ていっておくれ」
「泥棒ねぇ……」
私は泥棒をやった人間と対峙したこともなければ、話しをする機会さえない人生を歩んで来た。これも一つの経験だと思い、無遠慮に彼らの風体に自分でも怪訝だと分かるほど不躾な視線をジロジロと這わせ、頭が禿げて歯の抜けた五十ほどの男に声を掛けてみた。
「あんたは、何を取ったんだい?」
「へぃ。自分は主に下着を専門にしておりまして。女学寮へ忍び込んだ所で、やられました」
「ふぅん。下着を盗んで、それでどうするの?」
「それは、まぁ……はい」
私の質問に、男は照れ臭そうに笑って俯いた。その途端、何故か分からないけれども、思わず手が出てしまった。
静かな境内に頬を打つ音が一つ響くと、老婆に背後から注意を受けた。
「品物に手ぇ出すなら買取だよ」
「……すまなかった。つい」
一応詫びを入れてみると、男は頬をさすりながら「大丈夫ですから」と何度も私に頷いてみせた。その姿に人間らしい、そして実に生き物らしい生々しさを感じた私は、老婆へ向かって声を放った。
「婆さん。これ、いくら?」
「そりゃ二千円。もっといいのあるよ」
「いや、これで良い。買った」
男は何度も深々と頭を下げ、私に礼を言った。婆さんに二千円を払い、改めて男をまじまじと眺めてみる。そして、その匂いに違和感を覚え、訊ねてみた。
「おい。風呂は?」
「へぇ……まぁ、ここ二週間ほどは入ってませんで」
「それでこの匂いか……。まずは風呂屋へ行こう」
「へぃ」
私は婆さんに一礼をし、境内を出て男と二人で並んで歩き始めた。街はやはり多くの人でごった返していたものの、草臥れた親父二人組に視線をわざわざ向けるモノ好きは一人もいなかった。
「どうだい。若い女だらけだから、下着の一つや二つ、欲しくなるんじゃないか?」
ほんの悪戯心で男に訊ねてみると、男は腕組をして歯抜けの割には真剣な表情になった。
「いや、そういうんじゃないっすよ。それは、違うっすよ。今は、下着欲しいって思わないっすね」
「ふぅん、そういうもんかね。不思議だね」
「不思議というか、自分としては、違うっすよ」
一体欲望というのは何処から溢れ、そして何処へ消えてしまうのだろう。同じ場所から生まれ、同じ場所へ落ちて行ってるようにも思えれば、得体の知れぬ場所から湧き出て、恐怖を掻き消した知らぬ場所へと消えて行くような感覚もある。
この男は、この男なりの哲学というものがあるのだろうか。そう思うと、二千円を出して買った価値くらいは有りそうだと気が付き、男にもっと沢山のことを訊ねてみようと心が奮った。
だが、いつの間にか隣を歩いていた男は消えていた。
人混みを掻き分けながらしばらくあちこち探してみたり、境内へ戻ってあの婆さんに聞いてみたりもしたが、男は見つからなかった。
安物買いの銭失いとはこの事か。そんな風に自らを反省し、店は混んでいる為に自動販売機でコーヒーでも買おうとポケットに手を伸ばしてから、私は気付いた。
財布が消えていたのだ。
ハッと思ったが、もう遅かった。私の隣を歩いていたのは、哲学者ではなく、ただの泥棒だったのである。
その晩。私は夜が深くなるまでとぼとぼと、ひとり家路を歩いていた。