表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/39

九〇二号室②


「それで、用事ってなんですか。忘れ物でも?」


 開いた扉の先に立っていたのは、少なくとも俺の目から見れば確かに弧見さんだった。最後に顔を合わせた時と比べても、あまり様子は変わっていない。

 髭を剃ってないせいか、やや怪しさは増した風貌になっているが、伸ばしっぱなしの長髪の時点で、そんなのは今更である。


「部屋から出ていないって聞いたんで、大丈夫かと思って……様子だけ見に来たんですよ」


 以前に戸枝店長から聞いた話だが、この部屋に住んだ人間は傍から見ても異常だと分かる程の変化が起こる場合があるらしい。二十歳くらいの人間が老人のようになってしまったり、体重の過度な増減が起こったり、といった調子だ。

 体調に関わる変化があればすぐにでも報告しないとならないと考えていたのだが、どうやら、そこまで悪い事にはなっていないみたいだった。


「大丈夫だと思いますか」

「いや、俺に聞かれても……」


 弧見さん自身の体調や気分を聞いているのだから、自分で判断してもらわないことには。俺は医者でも霊能者でもないのだし。

 などと思いはしたのだが、医者でも霊能者でもないただの来客であっても、ひとつ、気づける変化があった。


 ベランダへの掃き出し窓が開いている。今日は風があるので、寄せられたカーテンが一定のリズムで揺れていた。

 ちょうど、隣人の話を聞いた直後に俺の訪問があって、閉めるよりも先に出てくれたのだろうか。いや。弧見さんにとって、俺の存在はそこまで優先するべきものではない気がする。

 ということは。


「……弧見さん、もしかして窓を開けて過ごしてるんですか」

「高良くんは閉めていたんですか?」


 妙に嫌な予感がして尋ねた俺の言葉に返ってきたのは、心底不思議そうな声色の、軽い響きの問いだった。何故そんなことを聞くのか、と言わんばかりの反応である。

 そりゃあ、普通は閉めて過ごすものでしょう。別に、隣に化け物が住んでいなくとも。

 浮かんだそれを口に出来ずに、開きかけた唇を閉じてしまった俺に、弧見さんは朗らかな声で続けた。


「開けている方が、仲良くなれるんですよ。友達って良いものですね」


 弧見さんの顔色はとても良い。表情だって穏やかで、至って普通に見える。下手したら、前の職場で恫喝されていた時よりも余程、マシな顔をしている。

 もしかしたら本当に、弧見さんはこの仕事には向いているのかもしれない。これは彼にとっても好転の場所になるのかもしれない。『部屋から出てこなくなった』という一点を無視すれば。


「弧見さん、」


 食事はどうしているんですか、と尋ねかけて、俺は言葉にするのをやめた。自分で浮かべた問いに、自分で答えが出せそうだと気づいてしまったからだ。

 脳裏に浮かんだのは、昨年のクリスマスの一件だ。隣人はプレゼントと称して、俺が吊るした靴下に餅を置いていった。伊乃平さんが、食べても問題はないと保証してくれた品である。

 隣人に材料を渡した記憶はないので、あいつは何処かしらから、どういう理屈か餅の用意が出来る。ならば、食べるに困らない状況は成立する筈だ。成立していいかについては、かなり問題だと思うが。


 そして、仮にこの自答が正答であった場合、弧見さんが()()()かどうかは非常に怪しくなってくる。

 何を食べているんですか、と聞くべきか、否か。

 もし本当に弧見さんが隣人から提供された食物を口にしているのであれば、それを他人が自覚させるような真似が彼にとって良いかは分からない。


 これはどう報告するべき問題だろうか。言葉に困った俺が軽く頭を掻くのを見てどう捉えたのか、弧見さんは玄関からすぐのキッチンを振り返ると、ふと思いついたように口にした。


「とりあえず、お茶でも飲んでいきますか」

「えっ? あ、はい」


 まさか、弧見さんにもてなしをされる日が来るとは思っていなかったので、やや間の抜けた声で返事をしてしまった。

 共に働いていた間の記憶でしかないが、俺は弧見さんが誰かに茶を出すなどという場面を一度も見た覚えがなかった。下手な怪奇現象よりも、余程動揺を誘う事態である。


 これは本当に、ちゃんと話を聞いた方がいいかもしれない。

 そう思いながら靴を脱いだところで、俺の目には以前と異なる点がもう一つ映った。


 ベランダに居た筈の少年が、窓の()()に座っている。

 開かれて重なった窓に背を預けるようにして、やはり膝を抱えて蹲った形で座っている。その手には、枯れて萎びたカーネーションが握られていた。

 母の日に動いたきり、元の位置に戻ってしまっていた筈だ。だが、弧見さんが来たことで、彼にも何やら心境の変化があったのかもしれない。

 ローテーブルの前に腰を下ろした俺の対面に、カップを二つ持った弧見さんが座る。どうも、と礼を口にして置かれたカップを手に取ってからすぐに、俺は無言で中身を見下ろす羽目になった。


 何も入っていない。

 お茶どころか、水の一滴もだ。


「………………」


 白くて丸い底を眺めていた視線を、対面のカップにそろりと移す。位置的に見えるか微妙な角度だったが、多分、弧見さんのカップにも何も入ってはいなかった。

 持ち上げたカップを、そのまま下ろす。音を立てないように、やたらと気を遣ってしまった。

 ……話は、玄関先で聞くべきだったかもしれない。


「弧見さん、あの」

「此処は本当にいい職場ですね。訳の分からないことを言う人が一人も居ない」

「……そう、ですかね」

「本当にいいところです」


 切り出し方が分からずにただ曖昧な相槌を打った俺に、弧見さんはいつになく穏やかな笑顔のまま語った。


 隣人と話すのは楽しい、この部屋から出たくない、と。

 理由は極めて単純だった。隣人は、弧見さんがそう望むのなら、彼を無垢な少年のように、庇護されるべき子供として扱ってくれるからだ。

 此処でなら、この部屋の中でなら、彼はずっと子どもでいても構わないのだ。


 それは弧見さんが強く望み続けていながら、現実では決して叶わない願いだった。当たり前の話だ。人は誰しも子供のままでは居られない。成長は不可逆で、足を止めていたところで時が止まることはない。

 この部屋に居たところで〝外〟の時が止まる訳ではないのだけれど、弧見さんにとっては、自分に年齢相応の対応を求める人間がいない――というのは限りなく心地が良い状況のようだった。


 それは確かに、『部屋を出ない』動機としては十分すぎるものだった。

 仮に、弧見さんが普通に生活を続けた上でそうしているのならば、問題にもならないような理由だ。住み続けるのが仕事なのだから、部屋に居たいというのはむしろ住人として適した資格があるとさえ言える。


「それに、友達が二人も出来ました」


 弧見さんは笑顔で少年を振り返った。随分と晴れやかな笑みである。

 少年は一度、そろりと顔を上げかけたが、そのまま膝に顔を埋め直した。


 此処でようやく、俺は自分が抱いていた違和感を言葉にすることが出来た。

 弧見さんはこの部屋や隣人に適応しているというより、恐怖心というものが微塵も残っていない――ように見える。


 もちろん、此処に住んだ全ての人間が必ず隣人(やその他の怪異)を恐れるとは限らないだろう。実際に恐怖心を抱かない人間だって、いてもおかしくはない。

 だが、少なくとも弧見さんは先程は、扉の向こうの俺が本当に俺なのかを警戒するだけの素振りは見せていた。恐怖を感じる部分が、どうも歪んでいる気がしてならない。

 弧見さんの用意したカップには、何も入っていなかった。そしてきっと、弧見さんはそれをおかしいとも思っていない。


 外側だけはいつも通りの弧見さんに見える。だが、内側は既に変貌を始めているのではないだろうか。

 そして、それは放っておいていい変化ではない。多分。きっと。


「管理人さんが弧見さんの心配をしているんです。その、この部屋で暮らすのが大変なら、もう終わりにしてもいいと思うんですが」

「何も大変なことはないです。むしろ、とても楽しい。いい仕事です」


 弧見さんの言葉に偽りがないことは、聞いているだけで理解できた。彼はこの言葉を、心の底から本心として口にしている。

 だが、言葉に反して、彼の有り様はあまり、()()ものとは言えない。飲まず食わずで生きていく、という状態が続いたところで、行き着く先が平穏無事なものであるとは、俺にはどうしても思えなかった。


 弧見さんから見れば限りなく〝上手く行っている〟のだから、俺が口を出したくらいで部屋を出るつもりにはならないだろう。

 自分が妙な状態に陥っていると自覚させたとして、それでも、離れる気はないに違いない。これは俺自身にも言える話だが、現時点では、元の職場よりは余程良い環境なのだから。


 俺は少し、この部屋に住むという仕事を甘く見ていたのかもしれない。自分には何も変化がないから――変化がないと思っているから、正常なままに感情の対処が起こるだろう、と思っていたのではないだろうか。


「……普通の生活が出来ないのなら、それはあまり、弧見さんにとってもよくないと思うんですが」

「何がよくないんですか?」

「食事も取らず外にも出ずに過ごしていたら、健康に害が出たりだとか……もっと、危ない、死ぬような目に遭うかもしれないじゃないですか」

「死ぬような目に遭うとよくないんですか?」


 不思議そうに目を瞬かせる弧見さんの声は、あくまでも穏やかなものだった。

 純粋な疑問として吐き出したのだろう。やはり、恐怖心というものの一切が取り払われている、気がする。おかしなことを言っているのに、それに気づいてもいない。

 〝よくない〟というのが分からなくなっている時点で、既に相当に()()()()。だが、どう言えば伝わるのだろう。


「……よくないですよ。弧見さんだって、死んでも構わないなんて思ってないでしょう?」


 構わない、と言われたらどうしようかと思いながら口にした言葉には、想定よりもあっさりとした答えが返ってきた。


「死にたくなんかないですよ。僕は高良くんとは違います」

「……だったら、此処を出た方が」

「産まれてきたくなかったんです」

「………………」


 俺の知る限り、弧見さんは自分の辛さを語る時にはかなり大袈裟な物言いをする。より強く自分の苦しみを分かってもらおうと、しつこく繰り返したり、此方を責めるような言い回しをしたり、感情を抑えることなく示したりする。共に働いていた間、俺は幾度も弧見さんのそういう部分を見てきた。

 だからこそ、だろうか。単なる独り言のように呟かれた、何の温度もないそれが、何よりも重たく澱んだものに聞こえたのは。


「でも、母は僕を大事に思っていますから。僕が産まれてこないと悲しんでしまいますよね。離れようとしただけでも暴れる程でしたから。だから、いっそのこと、戻れたらいいのにな、と思うんですよ」


「あ」


 弧見さんの呟きに続いて聞こえた、呆けたような響きの単音は、俺が発したものではなかった。

 窓を背にして座る弧見さん越しに見えるベランダに、開けっ放しの窓を覗き込むようにして、見慣れた管状のシルエットが伸びている。


「あー……」


 長い舌を、常より持て余すかのように揺らした隣人は、向かい合って座る俺達の姿を見ると、んん、と何かに悩むような、あるいはただ間を埋めるだけのような、妙な声音で喉を鳴らした。


「コミが言うんだ」


 独り言、である。多分。響き的には。気のせいか、少しだけ困っているようにも聞こえた。

 何やら、全く聞かせるつもりのない呟きを落とした隣人は、開かれたままの窓の向こうから、伸ばした腕の先で緩く指を曲げて此方を指した。


「タカヒロ、鍵」

「鍵?」

「閉めたほうがいいよ」


 何の用事で覗きに来たのかと思ったら、戸締まりの話だったようだ。

 どうやら隣人から見ても、窓の鍵は閉めた方が良いらしい。わざわざ言いに来るくらいなら、最初から弧見さんに教えてやってもいいと思うのだが。


 そんなことを考えながら腰を上げかけたところで、俺は自分の予想が思い違いであることに気づいた。切っ掛けは単純だ。扉の開く音がした。後方から。

 反射的に振り返った俺の目には、今まさに、ドアノブが下げられた扉が外へと引かれていく様が映っていた。


「は?」


 おかしな話だ。俺は先程、間違いなくドアガードをかけて、鍵も閉めた。無意識にかけ忘れた、ということはあるかもしれないが、もしそうなら扉の向こうをやたらと気にしていた弧見さんが指摘するだろう。

 だからこそ、俺は戸締まりの指摘を窓の話だと思ったのだ。


 勝手に部屋の鍵を開けられる、なんて怪奇現象は今までに遭遇したことがない。インターフォンの不調についてはサイトでも幾度か言及があるが、鍵が開いていたという話を見た覚えもない。それくらいに、鍵をかける、という行為そのものがそういうものを退けるのには適しているのだと思っていたのだが。

 だが、今まさに、実際に起こってしまっている。つまり、隣人の言葉を正しく汲み取るのなら、『閉め直した方が良いよ』が正解だった。言うのが五秒は遅い。


「もっと早く言っ――うわっ」


 鍵をかけ直すことさえ出来たなら、それの侵入は防げたのだろう。でなければ、怪談を話す訳でもないのにわざわざ隣人がやってきた意味がない。

 だから、あと少しでも早く言われていれば、俺は開いた扉の隙間から入り込んでくる()()と相対せずに済んだ筈だった。

 意味のない仮定の話だ。扉を開いたそれは、その肉の塊は、隙間から柔らかい身体を捩じ込ませながら、室内に侵入を果たしていた。


 肉だ。端的に言うなら、巨大な肉の塊だった。ドアガードの隙間分だけ開いた扉の隙間から入り込んだそれは、既に扉の上から下までを埋め尽くしながら室内の壁と床に這い出している。

 皮を削がれた生の肉を、無理に集めて固め直してひとつにしたような、そんな歪な存在の体表に、大きさの異なる目玉が複数浮き出している。

 緩く波打つ不定形の身体を持った、謎の肉の塊だ。肉塊は、どうやら、ドアガードを外す手間は惜しんだらしい。あるいは、ぐにゃぐにゃの不定形の身体にとっては、頭を捩じ込ませるだけの隙間があれば十分ということかもしれない。


 このマンションで過ごして一年近くが経とうとしているが、今までにこんな存在を見た覚えはない。この階にあんなものが居るとも聞かされていない。澄江由奈のように、知ったから存在が見えるようになった、ということも有り得るが、切っ掛けとなる情報が何も浮かばない。浮かべようにも思考の余裕もない。

 そもそも、この場合に気にするべきはあれが何処から来たかでも、いつから居たかでもない。

 何をしに来たのか、だ。


 骨格が存在しないらしい肉塊は、隙間から捩じ込ませた身体で、床と壁を舐めるように這っている。溶けかけた肉が折り重なって一塊になっているようなそれは、体表に浮かぶ瞳の全てを、一点に向けていた。


 間違いがない。

 狙いは弧見さんだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「戻れたらいいのにな」それは母の中に、と言う事か。気持ち悪い。とするとその肉塊はそう言うモノなのかね。
新しいハチャメチャが押し寄せて来た… 肉塊は狐見ママさん絡みか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ