九〇二号室①
「弧見さんが部屋から出てこなくなった?」
六月の半ば。とある用事を終えて夕方頃に帰宅した俺のスマホに、神藤さんから連絡が入った。
大家さんからの相談なんだけど、と前置きされた用件をまとめると、『弧見さんが部屋から出なくなったので、一度様子を見に行ってほしい』という話らしい。
神藤さんは基本的にマンションには近づかないように言われている。気づいたのは管理人さんで、管理人さんから大家さんに話が行って、そこから神藤さんに連絡が行って、俺に来たという訳だ。
管理人の濱部さんは、普段はエントランスで住人の相談を受けたり、簡単な清掃をしている。勤務時間は午前八時から午後六時まで。顔を合わせれば柔和な笑顔で明るく挨拶をしてくれる、非常に人当たりのいいおばさんである。
どうやら彼女の仕事には、七〇二号室の住人の様子を見るのも含まれているらしい。これまでの態度では微塵も感じなかったが、俺のことも見られていたのかもしれない。
それにしても、一時的に部屋を移っただけで帰るのはこのマンションなんだから、神藤さんを通さないで直接言ってくれた方が手間が少ないんじゃないだろうか。その手間自体が、何か必要なことだったりするのだろうか。
つい先程、ちょうど業務終了に被って出てきた濱部さんの、普段となんら変わりない朗らかな笑顔を思い出しつつ、俺は電話口の神藤さんに問う。
「……深夜に出ているとかはないんですか? 人によって生活時間なんて違いますし。弧見さんは一時的に向こうの仕事を休んでいるみたいなので、昼夜が逆転してもおかしくはないと思いますけど」
『その辺りは全部確認した上での連絡だろうね。大家さんは元々反対していたから、いつもより注意して様子を見るように言われていたみたいで……濱部さんにも迷惑をかけてしまったかな』
申し訳なさそうに呟く神藤さんの口振りから察するに、管理人さんは普段の業務に加えて、追加で七〇二号室の住人の様子を確認する仕事が振られていたようである。
大家さんとしては安全策の一種だったのだろう。あれを相手に、一体何をもって安全としたらいいのかは分からないが、何もしないよりはマシだと思っているのかもしれない。俺としては、何もしない方が逆に良い部分もあったりするので、なんとも言えなかった。
「じゃあ、本当に全く、出てない……と」
歯切れの悪い声で確かめた俺に、神藤さんも同じような響きで相槌を打つ。
部屋に引きこもって出前や通販で必需品を賄う、という生活スタイル自体はさほど珍しいものではない。だが、七〇二号室に住んでいる人間がそれをやっているとなると、少し話は別だった。
あの部屋に住んでいる人間は、基本的には部屋を離れたがるものだ。もちろん、極力部屋を空けないようにと説明を受けるし、それが業務内容なのだから従いはするが、二十四時間離れるなとまでは言われない。
大抵の住人は、隣人の話を聞いた後は外で時間を潰して、就寝のために戻っていたそうだ。
大家さんとしては、余計な問題が起きる前に一度様子を確認してきてほしいと思うのは当然だった。無論、確認するのは俺である。
神藤さんはあくまでも雇い主であり、入居者ではない。そもそも雇い主としても仮の役割であって、マンションに近づいたり詳細を把握する行為自体をあまりよしとされていない。
ならば本来の対応を任されている伊乃平さんならどうかといえば、次に戻ってくるのはお盆の頃だそうなので、それまで待ってもいられない。
契約上は現在も俺が部屋の主なのだから、様子を見に行くことになるのも自然な話ではあった。
「見に行くのは構いませんけど。その、人間って、何日食べないと……その、あれなんでしたっけ」
言葉を濁してしまったのは、流石に知り合いがそんな風になっている様を想像したくもなかったためだ。
声だけでも俺がどんな顔をしているのか分かったのか、電話口の神藤さんは、こちらを安心させるように殊更落ち着いた声音で答えた。
『水さえあれば三週間くらいだと言われているけども、そういう方向ではあまり心配しなくていい筈だよ。〝友人〟がいなくなると、此方にもある程度は分かるようになっているらしいんだ。だからそういう時は出来る限り早く次を探さないとならなくて、兄さんも大抵すぐに戻って来る』
「……なるほど?」
『全く力になれない僕が言うのは非常に申し訳ないけれど……高良くん、一度様子だけ見に行ってもらってもいいかい? もしもこれで、弧見さんがあの部屋を出たいというなら僕はすぐに手続きをするから』
「分かりました」
穏便に出てくれればそれでいい、と思って一度入居してもらった訳だが、これは穏便に含まれる状態だろうか。
迷いつつも了承した俺に、神藤さんは申し訳なさそうに礼を口にした。
スマートフォンの画面を見ると、時刻は六時半を過ぎた頃だった。まだ日の入り前で、外も明るい。行動するなら早いほうがいい、と玄関で脱いたばかりの靴を履き直し、扉を開ける。
エレベーターに乗り込み、久々に七階のボタンを押す。登っていく箱の中で各階の景色を眺めながら、俺は一応、弧見さんに電話をかけてみた。出ない。音声を聞くに、電源が切れている。すぐに諦めて、最後に会話をしたトーク画面を開く。
『扉がうるさいです。どうにかなりませんか』
神藤さんから連絡を貰ってからずっと、俺の頭の片隅にはこのメッセージがあった。俺はこれに、無視をするのが一番いい、と返した。実際、俺の持ちうる対応策の中で最も最適な案だったからだ。
あの部屋で暮らしていくのなら、ある程度の事象は見なかったことにするのが良い。あることを忘れてはならないけど、触れない方がいい。そういう対応をした方がいいものが沢山あって、弧見さんからの連絡もその内の一つだと思った。
少なくとも、俺が住んでいた間にはそういうものとしか遭遇していなかったからだ。
けれども、もしかしたらそれは俺の勘違いだったのかもしれない。弧見さんが言っていたのがどういう現象だったのか、もっと詳しく聞いておいた方がよかったのだろうか。いや、聞いたところで俺に出来ることなんて結局ほとんど何もないのだけれど。
弧見さんから住みたいと言って、それを了承したのだから、何が起きても彼の責任だとは思う。だが、対応できるかあやふやな人間に任せること自体に此方の責任が含まれている――ような気もする。俺にとっては最適な対処法が、彼にとっても最適かは微妙だろうし。
「………………」
妙な居心地の悪さを感じている間に、エレベーターが七階に到着する。開く扉をいつもより遅く感じているのは、俺の気が急いているからだろうか。
足を踏み出し、目的である七〇二号室へと目を向ける――前に、ふと、全く別の方向へと視線をやってしまった。
七〇五号室の扉は閉まっていた。
だが、うつ伏せのうさぎが、変わらず扉の前で這い回っている。
どうしてわざわざ視界に入れてしまったのか。
見たくないものを、在ると知ったまま無視しているのは、いざという時には困る羽目になるからだ。
なんとなく、誤魔化すように会釈だけして七〇二号室の前に立った。
鍵の交換はされていない。ドアガードさえかかっていなければすぐに入れるのだが、一応今は弧見さんの部屋であるので、まずはインターフォンを鳴らした。
スマホは充電を忘れてしまっただけで、意識はある筈だ――と、信じたかったのかもしれない。
二回ほど鳴らしたが、応答はなかった。仕方がないので、今度は扉を叩く。
「すみません、高良です。ちょっと用事があって来ました、開けてくれませんか」
この部屋にはモニターフォンがついていない。
来客が誰かを確かめるには受話器を取るか、もしくは直接玄関の覗き穴を見るしかない。
しばらくして、扉の向こうからは弧見さんの声がした。
「君が本当に高良くんだと証明できますか」
文言はともかく、思ったよりも元気そうな声だった。知らず、肩の力が抜ける。
扉越しのくぐもった声だが、確かに弧見さんの声である。弧見さんのふりをした何か、という可能性もなくはなかったが、そんな心配をしていたら切りがないので、とりあえず自分の耳を信じることにしておいた。
「証明って言われても……見て分からないですか」
「高良くんのふりをした何かかもしれないじゃないですか」
向こうも同じことを心配しているらしい。この部屋で過ごすなら必要な警戒心だったが、弧見さんはこんなに疑り深い人だっただろうか、と思ったところで、俺は気付いた。
七〇二号室の扉の鍵は、どう見ても奇妙に歪んでいた。なんだったら、ドアノブも若干捩じ曲がっている。
「…………」
俺が住んでいた時にはこんな傷はついていなかった筈だから、これは弧見さんが住み始めてからついたものの筈だ。
扉がうるさいです、という、先ほど見たばかりの画面のメッセージが頭に浮かぶ。弧見さんが出てこなくなったのには、扉の件が関わっているのだろうか。鍵の歪み具合と、ドアノブを見るに、何かが無理に押し入ろうとしているように思える。
「この扉、ひどいですね。何かあったんですか?」
「無視したので大丈夫です」
「……そうですか。えーと……管理人さんに頼まれて、弧見さんが無事かどうか確認しに来たんです。なので、弧見さんが大丈夫だって言うなら俺は戻りますよ」
扉の向こうから返ってきたのは沈黙だった。
弧見さんは、無理な時には無理と言う人である。ちなみに無理でない時にも無理と言って放棄する人でもある。だから、少しでも嫌なことや辛いことがあれば、すぐにでもそう言う。
言わない、ということは耐え難い程の状況ではないということだ。まあ、一つ前の問いと違って即答がないので、素直に安心して良い状況でもないのだろうが。
ただ、顔は見れなかったものの声ははっきりしている。それだけでも大家さんの不安は払拭できるかもしれない。
このままリアクションがなければ、一旦戻ってから後日来ようかと思ったところで、小さく鍵の開く音がした。




