『おすすめ』
「友達から聞いた話なんだけどね」
中学生の頃の話だ。
通学路の途中にある歩道橋で、階段での転倒事故があった。落ちたのは別のクラスの生徒で、足首を骨折する怪我を負ったらしい。
普段から廊下で友達とじゃれているような男子生徒だったので、歩道橋でもふざけていて不注意で落ちたのだろう、と思われていた。
けれども、それから少しして、同じクラスのYさんもその歩道橋で怪我をした。
彼女は学級委員長を務める真面目な生徒で、流石にふざけて落ちるようなことはないだろう、と彼女を知る人は思った。
Yさんの骨折は少し大きな怪我だったようで、少しの間入院することになった。
短期間に連続で事故があったものだから、同じ学校に通う生徒は自然とその歩道橋を避けるようになったらしい。
友達が友人のBからその歩道橋に「行こうよ」と誘われたのは、松葉杖をついたYさんがクラスに戻ってからのことだった。
Bの話によると、どうやら例の歩道橋には幽霊が出るらしいのだ。橋の真ん中辺りに、黒いワンピースの女が立っているらしい。
最初に転落した男子生徒も、次に転落したYさんも、階段を上っている途中、一人で歩いているのに女の声を聞いたらしい。二人とも、その直後に足を滑らせてしまったのだという。
その声を聞きに行こう、というのがBの提案だった。
帰宅途中にある歩道橋に寄るだけなら大した手間でもない。Bとは仲間内で一番仲が良く、断って変な空気になるのも、ビビりだと思われるのも嫌だったので、友達はその日の帰りに歩道橋に立ち寄った。
二車線の道路を横断するための、大した高さのない歩道橋である。
先に階段を上るBを、友達は少し呆れながら追った。Bの家は反対方向なのに、よくやるものだ。そういえば、前にBは好きな女子がいると言っていたような気がする。
明言は避けていたが、にやつきながら小出しにしていた特徴がYさんに似ていたような、と思ったあたりで、友達はその声を聞いた。
「おすすめだよ」
五段先を行っていたBが、素早く振り返る。声を聞いたか確かめられているのだと思って、返事をしようとした友達は、突如として階段を駆け下りたBとぶつかり、態勢を崩してしまったそうだ。
二人揃ってもつれるように転び、妙な位置で手をついた友達は、結果として左手を捻挫する羽目になった。
利き手でなかったからまだ生活できたが、これが右手だった場合には、Bを許す気にはなれなかっただろう。
いや、もしかしたら、そうだとしても許していたかもしれなかったが。
振り返ったBの顔は、今までに見たことがない程に青ざめていた。思わず自分の怪我を置いて心配になるほどには。
友達には何がそこまで恐ろしいのか分からなかったが、後日、ようやく落ち着いたらしいBが、謝罪と共に次のような話をした。
あの日、階段を登りきる直前に声を聞いた時、Bは何をおすすめされたのか分かったのだという。
橋の真ん中で、頭の潰れた女がこちらを見て笑っていたそうだ。道路の下を指差して、「おすすめだよ」と。
Bの背ばかり見ていたせいだろうか。同じ声を聞いたはずだが、友達にはあまりぴんと来なかった。
けれども、同じように声を聞いたのだろう男子生徒とYさんが階段を落ちていることから考えるに、二人にも分かったのだろう。
「あれ聞いた時、確かに、なんかすごくいいものに思えてさ」
「何が?」
「飛び降りるのが」
だから、前の二人もBも、急いで階段を降りようとしたのだ。それをよいものだと思っていい筈がないのだから、そんなことを思わせてくるようなものからは離れなければならない。
恐怖のままに駆け下りようとして、慌てるあまりに落ちたのだろう。
その後の学校生活でもなんとなく目に留まるようになったのだが、歩道橋であれに遭遇した人間は、階段を登る時に何処か嫌な緊張をしているように見えた。
Bに至っては、使えるのならばエレベーターを使うようになった程だ。
ひとつ、気になることがある。
件の歩道橋では『飛び降り』どころか、付近での交通事故すら一度も起きていなかった。
「おすすめだよ」と笑うその女は、いったい何を由来にして現れたのだろうか。
友達は今でも、実家に帰った時にはその歩道橋にはあまり近づかないようにしているのだという。
「――怖かった?」
「……ああ、怖いな」
飛び降りをすすめてくるような存在なんて、最悪で恐ろしいに決まっている。
特に最悪なのは、すすめられた際の精神状態によっては、素直に受け入れてしまう人間がいるのでないか、と思わせてくるところだった。
「おすすめ」されて、それが不味いと思って逃げ出せたのは、きっと彼らが生きたいと強く思っていたからだろう。普段意識していなくたって、いや、意識しないで済むほど当然に生きたい人間にとって、死をおすすめしてくるような存在は恐怖の対象に決まっている。
だが、自ら死を望むような人間だったのならどうだろうか。
もうそうするしかないと思い込んでいるような人間が、死をよいものだと受け入れさせるような存在に「おすすめ」されたなら、きっと、衝動に従ってしまうのではないか。
「怖いし、すごく嫌だな」
それが一番素直な感想だった。
死をおすすめしてくるような相手が存在することも、もしかしたらそれを受け入れてしまうかもしれない自分も、そこに至るまでの状況も。全てが絶妙に気味悪く、居心地が悪かった。
さて。
感想は程ほどに、俺は隣に立つ弧見さんを見やった。
「――というような仕事なんですが」
五月半ば。予定にあった、弧見さんの入居日である。
いつもと変わらず現れた隣人に、とりあえず初日だから、と俺は弧見さんの隣についていた。怪談を聞くついでに、仕事内容の紹介を済ませるつもりで。
枯れた花を抱えたまま隅の方で蹲っている彼も数えると、狭いベランダに収まるにはやや定員過剰な気もしたが、『穏便に退去してもらう』ことを考えると致し方ない状況である。
呼ばれるままについてきた弧見さんは、隣人が姿を現した時には呆気に取られたように固まっていたが、その後は以前の職場と変わらぬ態度で、話が終わるまでじっと立っていた。
『自ら動くことがない』というのは、よく言えば『余計なことはしない』ということでもある。本当に、とてもよく言えば、と話だが。
「不思議な仕事ですね」
隣に立つ弧見さんは、俺が持つマグカップを注視しながら――つまりはマグカップ以外の全てを視界に入れないようにしながら呟いた。七〇一号室のベランダに、まだあいつがいるからだろう。
『友達』が二人いる状況を面白がっているのは本当なのか、隣人は目玉のついた管をふらふらと揺らしながら、何やら鼻歌じみたものを歌っていた。
「まあ……大分、不思議だと思います」
「これだけですか? 他にすることは何も?」
「俺は、特に何も聞いてないです」
「そうですか」
七〇二号室への入居の際、隣人については一応説明を受ける。
ただ、それは『隣に住んでいる友人と仲良くしてほしい』で済まされてしまう。
何故、顔も合わせていない内から『友人』だと定められているのか。入居時において最も奇妙な点であるが、条件がそうと決まっているので、それ以上の説明はない。
これは俺が聞かなかった訳ではなく、これまでの全員に対しそうだったという。神藤さんは必要な説明を怠るような人には見えないから、そういう決まりになっているのだろう。
よって、弧見さんにもこうして実物を前にするまでに詳細を語られることはなかった。
俺の時には、洗濯物を干している時に現れた――ような覚えが朧げにあるから、今回はかなり優しい遭遇方法ではないだろうか。
当時の精神状態は自覚がある部分でもひどいものだったし、ない部分においては更にひどかったに違いないので、入居当初の記憶が曖昧だった。
確か、「こんにちは」と言われたような。化け物でも礼儀は重んじるらしい。そうだな。挨拶は大事だよな。俺はきちんと挨拶を返したのだったか。やはり覚えていない。
なんにせよ大事なので、俺は隣人に「この後はしばらく部屋を出る」と挨拶をしておいた。またね、と、恐らくは俺にも弧見さんにも向けた返事があって、満足したらしいあいつは自室へと引っ込んだ。
「彼はなんなんですか?」
室内へと戻ったあと、弧見さんはなんだか夢でも見ているような顔で俺に尋ねた。
聞かれたところで俺も答えを持ち合わせている訳ではないので、曖昧な答えを返すしかなかった。
「さあ……なんなんでしょう」
「なんだか分からないものが隣に住んでるんですか?」
隣どころではなく三部屋隣にも、上階にも下階にも住んでいますよ、と言おうかと思ったが、いったんはやめておいた。
なんだか分からない友人が隣に住んでいて、それと仲良くやっていくことがここでの仕事である。それ以外にすることはない、と説明すると、弧見さんは三度確認をしてから、ゆっくりと頷いた。
ひとまず受け入れることにしたらしい。彼はあまり柔軟性のあるタイプではないと思っていたが、物事への許容範囲は広いのかもしれなかった。
もしかしたら、誰も予想しないような適性があるのかもしれない。神藤さんが健全な将来を望むように、俺がこの部屋を出て別の仕事に就く、という未来もあるのだろうか。
今のところは全く想像はつかなかったが、とりあえず、思ったより取り乱したりはなかったので、予定通りに俺は一時転居の部屋へと戻ることにした。
玄関で靴を履く俺を、荷解きを始めた弧見さんが見やる。
何か確認事項でもあっただろうか。目が合って、動きを止めた俺に、弧見さんは妙にしみじみとした響きで呟いた。
「そういえば、友達が出来るのは初めてです」
「……そうなんですか」
「母から必要がないと言われていたので。でも、仕事なら仕方がないですから、怒られたりしないと思います」
弧見さんは、極めて真面目な声で納得するように続けた。なんと返事をしたらよいものか、上手く浮かばないまま誤魔化すように挨拶を口にする。
開いた段ボールを眺める弧見さんには聞こえていないようだったが、特にそれ以上の会話は生じなかったので、そのまま部屋を出た。
エレベーターに乗り、四階を押す。七階以外のボタンを押すのは若干の違和感があった。続けていれば慣れるのかもしれない。続くようなことになるだろうか? 真っ暗な五階を通り抜けて、四階で扉が開く。
少し意外なことを聞いた、と思った。
いや、失礼な話だが、弧見さんに友達がいないことを意外に思っていた訳ではない。俺も交友関係は狭い方だが、彼は俺よりも更に人づきあいが上手くはない人間だろう。
意外だったのは、怒られる、という文言だ。漠然と、弧見さんの母親は、彼を怒るようなことはしない人だというイメージがあった。
本当に子を思うのならば叱るものだろうから、怒って当然ではあるのだが、現状の弧見さんを思うと、どうもそういうのとも違うような気がする。上手く言葉には出来ない感覚だった。
それにしても、初めての友達があいつなのはどうなんだろうか。
したところで仕方のないことだが、なんだか少し心配になってしまった。
『ここ、僕の部屋より狭いです。よく暮らせますね』
寝る前にぼやくような通知が来ていたが、俺は静かに見なかったふりをした。
とりあえず、上手くやってくれるように願っておくことにする。