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母の日



 弧見さんの一時入居は、転居の都合で五月中旬に決まった。

 契約上は俺の同居人として登録する形になったが、七〇二号室は単身者用の作りをしている。弧見さんが入居するなら俺は別の住まいを探す必要がある訳で、ちょうどいい部屋が空くのがその辺りだった。


 まあ、仮に七〇二号室がファミリー向けの間取りであったとしても、弧見さんが来るなら俺は部屋を出ただろう。

 弧見さんとの共同生活、などというものは、もはや字面を浮かべるだけでも一定の疲労が生じる。謹んでお断りしたい。


 移動先の部屋は、大家さんが都合をつけてくれた。

 グ▇▇ハイツでは四階以下を短期入居者向けに貸している。ちょうど五月初旬に契約が終わって次の入居者も決まっていない部屋があり、そこを使わせてもらえるらしい。

 清掃費も家賃も支払いは不要だそうだ。別に大家さんの都合で移動する訳ではないので必要分は払うつもりだったのだが、結局、再確認のためにかけた電話でも断られてしまった。

『構いませんよ、どうせすぐに高良さんが戻るんですから!』

 最後に告げられた大家さんの言葉ののち、俺の間で生じた二十秒間の沈黙をどう捉えたものか迷ったが、結局どちらも触れることなく、鍵の話をして終わった。


 そういう訳で、四月末の今、俺は簡単な片付けをしている。

 七〇二号室にある家具家電は、ほとんどが前住人が残したものだ。部屋を出るのに必要なのは俺が気になる私物の持ち出し程度で、ほとんど荷造りとも呼べない。

 俺が買い足したのは寝具や調理器具、衣類くらいのものだ。あとは電気ケトルか。

 寝具も調理器具も、ちゃんと洗ってもらえる――だろうか、という疑問は一旦排除して――のなら使ってもらって構わないし、運び出したいものなんて、リュックに収まる程度だった。

 そもそも、逃げるように前の部屋を出た時にも、回収が必要なほど大事なものなどほとんどなかった。


 片付けは一日あれば終わってしまった。リュックと紙袋が一つ。どうせ戻るのなら、持ち出す荷物はあまり多くはしたくはない。


 大家さんも言っていたが、グ▇▇ハイツに関わる人間は、弧見さんが長く部屋に留まるとは考えていなかった。無論、俺も含めて。

 大家さんの方はこれまでの入居者と隣人の顛末を見ての予測だが、俺の方はもっと単純で、俗な判断である。


 怪異が住み着いているマンションか否かに関係なく、弧見さんは一人暮らしを続けられるタイプではない――というだけの話だ。

 食事はコンビニや外食で済ませるとしても、その他の家事は自分でするしかない。

 『掃除と洗濯をする弧見さん』などという存在を、俺はちっとも想像できないでいるし、きっとこの想像は間違いではないだろう。


 家事代行を呼ぶという手もなくはないが、七階に契約もしていない人間を入れるのは大家さんが許さない筈だ。何より、七〇二号室に呼ばれる家事代行の人があまりにも可哀想過ぎる。


 掃除だって洗濯だって、別に最悪、しなくとも生きてはいける。これは実体験からしても間違いではない。

 だが、弧見さんが普段身につけている綺麗に整えられた背広や靴を見るに、彼は粗雑な暮らしに耐性がある訳ではないだろう。

 昼食だって毎回、彩りも栄養バランスも整った綺麗な弁当を持参していたくらいだし。一度分けてもらったことがあるが、冷めても美味しいように作られているのがよく分かる弁当だった。


 職場の誰も、それを彼自身が用意しているとは思っていなかったし、それは俺もそうだ。純然たる事実として、彼は今も、母親にとても大事にされている。生まれてからずっと。


「うーん……ゴミ出しとか大丈夫か……?」


 整えた室内を見回し、玄関近くに置いてある分別用のゴミ袋を見下ろす。

 捨て方が分からないせいで帰ってきたらゴミ屋敷だった、とかは流石に勘弁願いたいので、ある程度の準備はしておくつもりだった。


 ゴミ出しも含めてマンションのルールは守ってほしいと思っているのだが、コピー機の使い方を間違える人を相手に、どう言えば伝わるものだろうか。

 以前、弧見さんでも分かりやすいマニュアルを用意しよう、と思って作っていたらとんでもないことになった記憶が蘇る。彼に気にかけて欲しいポイントを並べると、瞬く間に枚数が増えていくのだ。

 俺より余程頭がいい筈なのに、何故そうなってしまうのか。本当に不思議でならなかった。

 結局、前職場では最後まで特に解決はしなかったのだが、今回は解決はともかく、対処は出来ないと不味いような気がする。


 入居後に、弧見さんの度々様子を見に来れば良いかもしれない。

 幸か不幸か、いや、間違いなく不幸だが、職場で弧見さんの世話をするのには慣れている。

 今回のこれは俺のミスが招いた事態なので、一時的にでも住むと決まった以上は、ある程度の対応は俺がするべきだ。

 それは別に義務だとか親切だとか反省だとか、そういうものではなくて、単に、精神衛生上の問題である。


 四月七日に顔を合わせた日。

 弧見さんに今の仕事の話をした時、俺の中には確かに、元職場の人間に対して『今はそれなりに落ち着いた仕事をしていますよ』と伝えたい気持ちがあった。


 少なくとも前職場よりは待遇のいい仕事についているのだと、孤見さん経由で伝わらないかと、多少思った。

 元上司などはどうせ今も他の誰かを恫喝するのに忙しくて、俺のことなど覚えてもいないので、伝わったところで何を思われるでもないと分かっているが。


 虐げられて当然の存在だし、何処かで野垂れ死ぬだろう――と、自ら思うのと、誰かに思われるのは、ちょっと、いやかなり違う。

 そうした自己満足と自尊心の問題で、あまり話す必要もないことを不用意に伝えてしまった。言葉こそ少なかったが、態度にはそうしたニュアンスが出ていただろう。だから、孤見さんにとっても良いものに聞こえた訳で、その結果がこれだ。

 誰にも指摘されなかったが、自分だけは自覚のある感情である。自覚のある感情は、ないものよりも少し重たくて、ちょっとばかし優先される。


 こうなった以上、俺はこの、余計なこと喋っちゃったな、の居心地の悪さが、孤見さんが無事に退去するまで消えないことを知っている訳だ。

 十分後。俺は管理人さんに貰ったゴミの掲示物を玄関扉に貼りながら、ただ平穏を祈った。


      ***



 諸々の準備を整えた、五月の第二日曜日。

 昼過ぎに目を覚ました俺が寝起きのままにカーテンを開けると、窓際に少年が立っていた。


 離すつもりだった手に力が籠もり、布地に皺が寄る。

 緊張を解くように、意思をもってゆっくりと手を離すと、視界の端でひらりとカーテンが揺れた。


 そして、視界のど真ん中には、何も無い顔がある。

 本来あるべきパーツの上から無理に皮膚を貼り付けたような、不格好なのっぺらぼうだ。窓の外から俺を見上げる少年の顔には、感情を読み取れるような動きは見当たらない。

 だが、これまで何があってもベランダの端に蹲っていた彼がこうして窓際に寄ってきているのだ。何か、目的があるのは間違いがなかった。


 元々、換気のために窓を開けようとしていたところだ。

 俺は少年の顔を見つめたまま、ゆっくりと鍵を開け、窓をスライドした。


「……えーと、おはよう」


 棒立ちの彼に挨拶をしてみる。特に反応はない。

 俺が邪魔で通れないのかと思い、少し身体を避けてみたが、見上げる位置が変わっただけで、それ以上の変化はなかった。


 此処に連れてくる時にも、手を引かない限りは歩くこともしなかったのだから、さほどおかしな挙動ではない。

 俯いているか、見上げているかの差があるだけだ。まあ、視線で追いかけられるように首が動くだけで、十分に恐ろしいのだが。


「…………もしかして、出て行きたくなった、とかか?」


 身を屈めて訪ねてみるが、やはり返答はなかった。

 喋れない訳ではないのは知っている。喋る意思はない、というのが正しい様子に見えるが、そういえば、あの時は六階の異常のせいで口が裂けていたのだ。開いている時しか声を出せないのかもしれない。

 彼が此処を出たい、と考えるのはごく自然な欲求であるように思えた。何せ、隣には自分を『グミではないおやつ』だと捉えている奴が住んでいる。


「……何処か行きたい場所があるなら、連れて行くくらいは出来るんだが」


 どうして隣人に与えるならグミがいいのか、少し前に聞いてみたことがある。

 伊乃平さんからの答えは簡潔だった。『動物性タンパク質の中で一番、肉から食感と味が遠いもの』だからそうだ。

 その話を聞いた時、俺はあいつに生姜焼きを与えてしまったことを思い出した。手作りは避けろとの教えは守っていたので、特に咎められることはなかったが。

 継続的に与えるならグミが適している、というだけのようだ。


 さて。実体のある幽霊は、子供の皮を被せられた父親は、動物性タンパク質に含まれるだろうか。

 含まれないといいな、と思う。自己を食われるのは、もはや手作りがどうとかこうとか言う話ですらない。


「………………」


 屈んだことで、同じ高さで目線が合う。

 そのまましばらく待ってみたものの、リアクションを取ってくれる気配もなさそうだったので、申し訳ないが、逃げの一手を取ることにした。

 布団のアレにしろ、存在の主張がはっきりしている時に室内で二人きりだと、流石に居心地が悪い。


 そうして、部屋を出ようと靴を履いたところで、俺は後ろに立っている気配に気づいた。

 振り返る。

 少年がいた。


 一度、遠くに逃がした視線の先で、入り込んだ風のせいでカーテンが揺れている。

 視線を戻すと、彼はやはり、何かを訴えるように此方を見上げていた。


「あー……筆談だったら出来たり、しないか」


 会話が成り立つかも怪しい状況なので、尋ねるというよりは独り言のような響きになった。言ったはいいが、筆記用具はリュックの中だ。

 使えないだろうか、とポケットに突っ込んだスマホを差し出してみたが、特に興味を惹かれた様子もなかった。となると、やはり出ていきたいのかもしれない。窓を開けたように、扉も開けてほしいということだろうか。


 そう考え、扉を開けて待ってみた――が、少年は玄関先で止まったままだった。

 棒立ちのままで、俺が先に出ても動く気配はない。とうとう沈黙が居た堪れなくなったので、そっと扉を閉め、鍵をかける。

 少し様子を伺ってみたものの、特に物音はしなかった。鍵の回りが悪いが、これは単に最近、シリンダーの調子が悪いだけである。断言しているのは、そうでないと困るから、というだけの話だ。


「どうすっかな……」


 バイトのシフトも入っていない。彼と二人きりなのが気まずくて出てきただけなので、俺はあてもなく近場でぶらぶらと時間を潰し、あまり入ったことのない通りで見かけた飯屋で少し遅い昼食にして、夕方になって駅前を通ったところで気づいた。


 五月の第二日曜日は、母の日である。

 母への感謝の思いを描いたポップと共に、カーネーションがあちこちに並べられているのを見て、ようやく思い至った。


 世の母親というのは花を貰うと嬉しく思ってくれるものなのだろうか。あの人は小遣いという名の支給金で文房具を買った方が良い様子だったので、俺は最初の二度ほどで花を贈るのはやめた。

 高校生になってからは何度か、何処かの財布を買ったような気がする。金を入れるだけの機能しかないのにどうしてあんなに高いんだろうな、財布って。


 差してあるカーネーションを手に取ったところで、少年の顔――とも呼べない顔が頭に浮かぶ。

 彼の母親は――正確に言うなら妻は、子どもから花を贈られることを喜ぶタイプだったのだろうか。

 カーネーションの花束をひとつ買ってから、マンションへと戻った。


 特に異常もなくエレベーターを上がり、ついでに七〇五号室のポストにも一輪差してから自室に向かい、玄関を開けると、少年は俺が出たときと同じ位置に微動だにせずに立っていた。

 この場合、ただいまと言うべきか否か。「ただいま」と言っていたら室内に怪異が生じた話を聞いたことがあったが、最初から怪異が待っている場合はどうすればいいんだ。


「あー……目的のものでなかったら、捨ててくれていいから」


 挨拶の代わりにそれだけ告げて、彼の前にカーネーションを差し出す。

 此方を見上げていた彼は、そこで初めて身体の脇に垂らしていた腕を持ち上げると、俺の手から花束を受け取った。


 その後。俺が怪談を聞いている間に、気づいたら少年はベランダに戻っていた。

 その腕にはカーネーションが抱えられている。どうやら、俺の予想は間違ってはいなかったらしい。


 彼の母親──あるいは妻は、子供に母の日を祝われることを喜ぶ女性だったのだろう。

 ただ、少年はその花を渡すためにこの部屋から出ることはなかった。何処にいるかも分からないから、かもしれない。もしくは、渡す権利はないと思っているから、かもしれない。


 カーネーションは、翌朝にはひしゃげて黒ずんで、枯れてしまった。





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どうせ長くは居ない、がどういう意味になるかだよな。とっとと出ていくなのか物理的に居なくなるなのか⋯
事情を知ってる関係者各位の反応が御尤も過ぎて草生える。 だってねぇ、702号室ってよくもご友人が長く住んでいられたっていう魔境だし? 隣人のアイツを筆頭に、布団の中の人、最近やってきた顔無しの少年。…
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