『お前』
「友達から聞いた話なんだけどね」
高校生の時の話だ。
当時よく使っていたSNSで、少々迷惑な人に遭遇したのだという。
端的に言えば、気味の悪い画像を送りつける嫌がらせをしている人だった。
布で作られた粗雑な人形が道路に転がっている写真と共に、『お前』という一言が送られてくるのだ。
フェルトか何かを縫い合わせた人形で、顔にはマジックペンで点で出来た目と笑顔の口が書かれている。
高校生や中学生に興味を持っている人間のようで、遡って確認すると、嫌がらせの対象はそうした年代と思わしきアカウントばかりだった。
その画像の人形にはごく一般的な制服が着せられていて、よく見ると、転がされた人形の頭部がある位置の地面は、絵の具か何かで赤く塗られていた。
友達が使っているのは仲間内に向けたアカウントで、誘われて作ったものの今はアプリゲームの報酬を得るくらいでしか用途がない。
非公開に設定してまで残したいものでもなく、煩わしく思った友達はアカウントを消してしまった。
だが、友達の友人であるIくんは少し違った。そのアカウントに対して幾つか煽るような返信をしたのだ。
『俺? 似てなさすぎ』と笑うような絵文字付きで。
それは単なる暇つぶしだったのだろう。妙な嫌がらせをしている人間に対し、逆に嫌がらせをしてやろうという想いもあったかもしれない。
ある夜。メッセージアプリのグループに、Iくんから連絡が入った。
グループではない個人とのチャット画面のスクリーンショットで、そこには一枚の画像と、『お前』と一言送られてきていた。
画像に写っているのは見覚えのある人形だった。手作り感にあふれた、マジックで書かれた顔を持つ粗雑な人形。
ただ、人形がいる場所は、普段の画像とはまるで異なるものだった。一軒家の表札の隣に、不格好な人形がガムテープで留められている。
表札にはIくんの名字が彫られていた。
『これ誰がやってんの?』とIくんはグループ内に尋ねる。
友達とIくんを含めて五人のグループだったが、全員が知らないと答えた。Iくんが信じることはなかった。
彼があのアカウントに返信をしていたと知っているのは親しい仲間だけであるし、いつも遊ぶグループの人間は彼の家を知っているからだ。
面白半分でこんなことをしたのだろう、とIくんが言うが、それはおかしな話だった。誰がわざわざIくんへの嫌がらせの為だけに、メッセージアプリのアカウントを追加で用意するだろうか。
『じゃあ誰なんだよ』
Iくんのメッセージに、答えを出せる人間はいなかった。本当に分からなかったのだから仕方が無い。
気味の悪い人形だったが、嫌々ながらも処分した後には何も起こらなかった。ただ、表札の隣にはいつまでも赤い染みが残っていた。どんな方法でも落ちなかったのだという。
通報が重なったのか、そのアカウントはいつの間にか消されてしまっていた。
Iくんにメッセージを送ってきた相手も、同じように消えてしまっていたそうだ。
それでね、と話し終えた筈の隣人は続けた。
「この話を聞くとね、その人のところにもメッセージが来るんだよ」
「……そうか」
「怖かった?」
「まあ、そうだな。怖いよ」
怖い話というのは他人事で聞けるから楽しめるものである。自分にも害があるとなれば、素直に恐怖は増すだろう。
『怪談』を話す約束をしてからというもの、俺は最も手軽に調べられるネット怪談に目を通すようになった。大抵の場合は誰かの体験談だが、恐ろしいと有名なものは大抵、媒体を通して読み手に干渉してきたりするものである。
実際にそんな目に遭うことはないと頭では理解していても、矛先が自分に向くとなれば恐怖を抱く。
ただ。問題は、聞いたら呪われる話を怪異がしているのならば、恐怖よりも先に「そうだろうな」が来るところである。大体にして、俺は幾度か、此処で聞いた怪談に近しい現象を味わってすらいる。
だから、そう言われたとしても、まあそのくらいは起こるだろうな、というのが正しい。
というか、知らぬ間にネットが絡んだ怪談も話すようになっている。こいつは一体何処から知識を得ているのだろう。
一つだけ、なんとなく心当たりがあるのだが、予想が確信に変わる方が恐ろしいので、思考は頭の隅へと追いやっておいた。
「来たら教えてね」
「ああ、来たらな」
来ない、という確信を持って答える。もしかしたら、来た上でも信じないかを試されるかもしれないが、その時はただ、『来たぞ』と教えてやれば良い。ただの世間話として。それだけだ。
満足したらしい隣人が部屋へと戻る。
それと同時に、ポケットの中のスマホが小さく震えた。
「………………」
今日はバイトの日ではない。職場からの連絡ということはないだろう。
連絡が来るとしたら神藤さんか、ハヤトである。我ながら交友関係の狭さには悲しくなってくるが、事実なので仕方がない。
もしも知らぬ誰かから画像が送られてきたら嫌だな、と思いながら取り出したスマホの画面を確かめた俺は、意外な名前に目を瞬かせた。
「弧見さん?」
画面には『弧見清司』と表示されていた。
前の職場の後輩――である。俺よりも二十歳近く年上なのだが、一年ほど後に入社したので、そう言いづらくとも後輩だ。
脳内で彼の顔と名前が蘇った瞬間、反射的に職場での思い出が幾つか付随して浮かび、俺は眉を寄せ目を閉じていた。思い出すだけで嫌な汗と頭痛がしてくる。
奨学金の使い込みが判明し、大学も辞めることになって困っていた俺は、当時のバイト先の先輩にもっと稼げる職があると紹介されて、とある会社に入った。
そこは簡単に言えば健康食品を売るような会社で、今になって考えればあまり真っ当な会社だとは言えなかったのだが、研修を終えた頃にはとても辞められる空気ではなくなっていた。
辞めたところで他に行くところなどないだろうと言われたし、それは実際そうだった。
入って一年、仕事とはこういうものなのだろう、と諦めがつき始めた頃に、弧見さんが入社してきた。
弧見清司は、オブラートに包んだ言い方をするなら『変わった人』だった。俺よりも身長は高いが酷い猫背で、色の白い顔を隠すように癖のある髪を鎖骨の辺りまで伸ばしている。何かの際に、美容院に行くのが怖いのだと言っていた。
入社時の紹介によると、弧見さんはこれまで一度も働いた経験がなかった。他の社員が言っていたが、確か社長の年の離れた弟か何かだった筈だ。
役職は何もなく、社員としてもほとんど置物と化していて、入って一年の俺が対応することになった時点で、彼の扱いについてはそれとなく察した。
弧見さんは俺と違いどうしても働かなければならないような理由はなくて、単に家の人が弧見さんを恥だと思っている――と、弧見さんが愚痴をこぼしていた――ので、仕方なく、両親に言われるままに働き始めたそうだ。
断っておくと、彼は悪い人ではない。ただ、労働を何よりも苦痛に思っていて、何を教えられようと微塵も覚える気のないタイプの人ではあった。それから、よく泣いていた。
四十近いおじさんが子供みたいに泣いているのは、絶妙な気まずさと恐ろしさがある。俺は度々、弧見さんが泣くのを見たくないという理由だけで、クレーム対応や他社員の嫌味から庇っていた。
俺の記憶が正しければ、確か弧見さんからはブロックされていたような気がする。解除されたのだろうか。ちなみに、上司については俺からブロックした。
最後のメッセージを見ると『僕を見捨てるんですね』という、なんとも弧見さんらしい文言が記されていた。
その下にある新着のメッセージは、全くもって予想しないものだった。
『君のお父さんの知り合いだと名乗るひとが会社に来ました。みんな教えてあげないので僕は連絡します。僕ももう怒っていません。一度会いたいです』
「……は?」
画面を見つめる俺の口からは、意識するよりも先に戸惑いの声が漏れた。
母親の知り合い、というのであればまだ分かる。あの人は生活の手段として、俺の居場所は常に知りたがっていた。
父親の知り合い――となると、あまりにも未知の存在である。
そもそも、俺は父親について何一つ覚えていないし、何も知らない。俺の戸籍の父親欄は空白であるし、あの人は自分を捨てた男の話については、時折、極めて悲劇的に自分の不幸を語るだけだった。具体的な情報はほとんどない。
退職した会社にまで来るとなると、余程の用事だろう。大学時代のバイト先から辿り着いたのだろうか。いや、それにしたって、相当の手間をかけなければ、二十年も前から縁を切ったも同然の子供に辿り着くようなことはないと思うが。
弧見さんの話に興味はあったが、それ以上に、弧見さんと顔を合わせないとならないのか、という思いがあった。
別に、悪い人ではないのだが、彼との会話は独特の疲労感が生じるのである。何だったら、既にこの文言だけでもある種の疲弊を覚えている。
「……まあ、突然退職したのは俺が悪いけども」
『僕ももう怒っていません』の一文が、どうにもすぐに返事をする気持ちを挫いてくる。
断っておくと、これは弧見さんにとってはれっきとした気遣いであり、紛れもなく俺を思いやって付け足された一文である。
しばらく迷ってから、俺は返信を送った。
『お久しぶりです。連絡ありがとうございます。詳しい話を聞きたいのですが、弧見さんはいつ頃が都合良いですか?』
『四月七日が休みです。五時にお店に来てください』
『職場の近くの喫茶店ですか?』
『そうです』
『もう少し離れた場所がいいので、池袋で待ち合わせでもいいですか?』
まさか上司と遭遇することはないだろうが、流石に職場近くの店を使うのは遠慮したい。万が一にも顔を合わせたなら何を言われるかは想像がついているし、その想像だけでももう十分過ぎる程なので、もはや連想もしたくなかった。
場所の移動を面倒だと思っているのか、弧見さんは少し間を空けた後に、彼の家の最寄り駅を指定した。
了承の返事を送り、少し時間の調整をしてやりとりが終わる。トーク画面を閉じて予定をカレンダーに追加してから、俺は静かに頭を押さえた。
もしかすると、人形の画像が送られてきた方が幾分マシかもしれなかった。