完璧令嬢の願いごと
国の一つ一つに神がおわすとある世界に、人々を幸福にする国と言われる小国があった。
かの国の神は民の願いを聞き届け、叶えてくださるのだという。
そんな国で「神より遣わされた淑女」とうたわれる公爵令嬢がいた。
王太子の婚約者である彼女はいついかなる時も冷静で聡明、誰に対しても慈悲深く、助けを求められれば些細なことでも手を差し伸べてくれる。
礼をさせてほしいと言えば彼女は決まって「これも国のためです」と言って微笑む。
このような女性が国母となるならこの国は安泰だと、助けられた人々は一様に感激し、彼女とこの国の神に感謝の祈りを捧げた。
そんな素晴らしい彼女が今、窮地に立たされていた。
「ウォルタリリィ·ディザイア! 貴様との婚約を破棄する!」
王宮の大広間に響き渡る声で、クロッシング王国の王太子フィンガーは叫んだ。
今日は王国主催の舞踏会で、本来ならば次期国王と王妃となる二人の正式な披露目をする場であった。
が、王太子は隣に伴うべきはずのウォルタリリィの顔面に向けて指を突きつけ、傍らには王太子の瞳の色のドレスを着た女を侍らせている。周りは静まり返りヒソヒソと囁き交わしているが、おおむねが嘲笑的な視線でありウォルタリリィに向けられていた。
そんな光景を軽く確認してから、ウォルタリリィは表情一つ変えずに口を開いた。
「殿下。お戯れならお止めなさいませ。もう学園は卒業しましたのよ。未婚の侯爵令嬢まで巻き込むなど、ブレイク侯爵家になんと説明するのです」
「お前はいつもそれだ! そのぴくりともせぬ人形のような顔で俺の言うこと為すことにいちいち口を挟み、なのに俺が話しかけても笑いもしない! あれをしろこれをしろと要求ばかりは多いのに、俺の命令には逆らう! 可愛げの欠片もない!」
声高に叫んだ王太子は、傍らの女の腰を抱き寄せた。
「貴様は俺にふさわしくない! ゆえに婚約破棄とし、新たにこのレーグル·ブレイク侯爵令嬢と婚約する!」
王太子の言葉に、レーグルは嬉しそうに、そして得意げに微笑んで彼の体を密着させる。その様子からして、彼女が彼とそうするのが初めてでないのは明らかだった。
普通の令嬢なら屈辱や恥辱で倒れているところだ。だが、誰もが認める完璧な令嬢である彼女は違った。
「私が殿下の妻となり次代の国母となることは幼き日より決まっておりました。なれば国のため、淑女として感情を表に出さないのは当然のこと。たとえ婚約者が爵位の低い令嬢に無理矢理迫っていようと、お客様の前で他国への悪言をばらまいていようと、その行いの補填をすることが私に課せられた務めであると考えております。反面、まだ婚約者の身でしかない私が殿下と寝所を共にするのを務めとは思いません。ですからお断りしました。国のためになりません」
フィンガーは貴族の頂点たる王家にふさわしい美貌の持ち主であったが、それ以外のなにもかもが足りていなかった。
貞操観念もなければ、想像力や危機感もない。
彼がなにかするたびに、ウォルタリリィは彼の尻拭いを完璧にやってのけた。
その度に彼の妻になるウォルタリリィの評価が上がっていたのだが、彼はそれが気に食わなかったらしい。
「国のため! 国のため! 貴様には意思がないのか!?」
「国のために働くことが、私の意思でございます」
王族とも思えない感情的な言葉にすら一切の震えのない口振りで返され、王太子はヒクリと痙攣するように笑った。
「そうか。俺にすがって詫びるような可愛げもあればまだ許してやったのだが、そういうことなら考えがある」
王太子が手を叩く。
すると、舞踏会場にガチャガチャと無粋な金属音が響いた。
音のもとは王家直属の騎士団であり、彼らは身なりのいい人間を引きずってきていた。
それを見て、とうとうウォルタリリィが引きつった声を漏らした。
「――殿下。どういうおつもりです」
引きずられてきたのは、ディザイア公爵家一家だった。
「ディザイア公爵家は国に仕える貴族でありながら、国に納めるべき税で長年私腹を肥やしていたのだ。そればかりか、領地から逃げてきた民を助けると言って領内に誘い込み隣国に売り払っていた」
落ち着き払った表情を貫いていた彼女の顔がわずかに強張った。
「――ありえません」
「証拠は出揃っている! 言い訳は無用だ!」
「なにかの間違いです! もう一度調査をお願いします!」
「馬鹿め! この調査は国王陛下も認められた正式なものだ!」
初めて大きな声を上げたウォルタリリィに、フィンガー王太子は喜悦の眼差しと共に羊皮紙を叩きつける。
普段の彼女らしくもなく震えた手で拾われた書類が開かれ、彼女の目は滑るように書かれた文言を正確に読み取っていく。
最後に国王のサインまで確認し、そして、彼女は理解した。
王家と貴族達が愚かな王太子の策略に便乗し、自分達が行っていた悪事を王家に匹敵するほど力の強いディザイア公爵家に被せたのだと。
その目の前で、王太子は高らかに宣言した。
「ディザイア公爵家は取り潰しだ! 一族は全員処刑。ウォルタリリィも本来であれば処刑とするところであるが、レーグルと婚約の決まっためでたい日だ。恩赦として我が側妃に迎えてやろう」
「そく……ひ……?」
「国のため、国のためと言って高飛車に振る舞ってきたのだ! ならばそれを続けるがいい。名無しの側妃であっても仕事はできよう! 後ろ盾が必要なものはブレイク侯爵家の名を借りれば済む話だ!」
これまで通り仕事はさせる。ただしその功績はレーグル嬢のものとすると言ったも同然だった。
あまりに非道な仕打ちだが、それを咎める者はこの場にはいない。
ディザイア公爵家がなくなることで得をする者しかいないのである。
王家ですら高い能力と実績を持つ女を立てるより、王家に匹敵しそうな力を持った家を潰して、自分達に都合のいい家を後釜に据えることを選んだのだ。
既に陰謀の準備は完了していると見るべきだった。
呆然と立ち尽くすウォルタリリィに、じりじりと騎士が近づいてくる。
抵抗した瞬間捕らえる心積もりであるらしい。
「さあ、どうするウォルタリリィ」
王家や他の貴族はともかく、王太子は彼女がどちらを選んでもいいと思っていた。
日頃から「国のため」と口うるさい女が側妃となれば、もはや二度と自分に口答えなどさせないことができる。「国のために働かせてやる」と言われた彼女が拒否をすれば、強情な女が自分の芯を折ったことになる。どちらでも痛快だった。
返事を促されたウォルタリリィはゆっくりとうつむき、そのまま口を開いた。
「……せん」
「なんだ。聞こえぬぞ。いつもの偉そうな声はどうした!」
「――なれません、と申し上げました」
その言葉に、王太子は侮蔑の言葉を投げかけようとする。
だが、ウォルタリリィが言葉を続けるほうが早かった。
「この国は滅びます。ですからこの国の王の側妃にはもうなれません」
「――は」
王太子の口から吐息のような音が出るのと同時に、ぐらりと地面が揺れた。
その揺れは収まるどころか激しくなる一方で、逃げようとした人々は皆その場に倒れ、あるものは燭台が落ちてきて火だるまになり、あるものは運悪く折り重なって倒れた何人分もの重さを体に受けて潰れて死んだ。
やがて、揺れが収まる。
それでも阿鼻叫喚は終わらず、まだ走れる人々は安全な場所に逃げようと恥も外聞も捨てて駆け出していく。
その場に残ったのは怪我をしたり死んだりした者と、腰を抜かして動けなくなった者だけだった。
その中には、王太子もいた。レーグル嬢は未来の夫を置いて一人で逃げてしまったらしい。
そんな彼は、震えるのも忘れて眼前に浮かぶウォルタリリィを見ていた。
騒ぎの中にありながら傷もなく、乱れもない完璧な姿のままの令嬢は、どこか憂いを帯びた表情で、汚れた床を踏むこともなく浮遊していた。
「な、なんなのだ貴様――なにをした!」
異様な存在に対して、彼は思わず叫ぶ。
するとウォルタリリィは、憂いを帯びた顔のまま、普段と変わりない態度で答えた。
「私はなにもしておりません」
「ならば、ならばなぜこのようなことになったのだ!」
「この国の神が死ぬからですわ。殿下」
「は……?」
あまりに想定外でスケールの大きな話に、フィンガーは言葉に詰まる。
それを知ってか知らずか、ウォルタリリィは続けた。
「この国を守る神――“星を与える“プレイヤ神は、願いを叶える神です。ですが、彼は人の願いを叶えるだけでは存在できない。叶えた人間からの、感謝の祈りが必要なのです」
神にも強さがあり、人から差し出されるものにまるで興味を示さない神々もいれば、人から返礼にあたるものをもらわなければ存在が危うい神すらいる。
彼らに共通するのは、存在が消えれば庇護下にある国は存続が難しくなるという点のみだ。この世界では神の庇護がない場所に、人が居着くことはできない。
「ですがここ百年程で、この国の民は祈りを忘れてしまいました。特に高貴な生まれの者達は、願いばかりで祈りなど一度も口にしたことのない者さえいる。彼は願いを叶えるだけの神。自分が滅んでしまうと分かっていても、強く願われれば叶えてしまうのです。たとえ自身が滅びると分かっていても」
「な――な――」
王太子は息を呑んだ。
神がいることは知っていた。儀式を経て、神が願いを聞き届けてくれることも知っていた。だが、そんな瀬戸際の状況に神が追い詰められているなど知りもしなかった。誰も教えてくれさえしなかった。
蔑ろにし続けた結果、初歩的なことすら王太子に伝わらない国となっていたのだ。
「なぜ――宣託でも下せば皆聞いたはず――」
「五十年前までは、十年に一度くらいはしていたそうです。けれど、結局こうなってしまって、彼は諦めてしまいました」
そこまで聞いて、フィンガーはふと気づいた。
ウォルタリリィの物言いは、まるでプレイヤ神から直接話を聞いたようではないか、と。
「貴様――貴様は、いったいなんだ?」
外からは阿鼻叫喚が聞こえ、室内でも痛みに呻く声や肉の焼ける嫌な臭いが漂っている。その中にあっても震えもしない声で彼女は言った。
「プレイヤ神を救いたかった者ですわ。殿下。私は、滅ぶことを是としたあの方に嘆願したのです。私が国をたてなおして貴方が滅ばぬようにするから、どうか諦めないで、と」
「たてなおし……」
「貴族達が祈りを忘れていようと、愚かな王太子がいようと、それを支えることができる完璧な妃とその生家があって、その妃となる女が模範を示せば、自然と皆従うようになると思ったのです。だから、私はディザイア公爵家を作りました」
「作った?」
愚かと面と向かって言われても、もはや彼には言葉を繰り返すことしかできない。
「はい」
ウォルタリリィはすらすらと自分の行いについて述べた。
「王家の直轄地から公爵家の領地を抜き出して、ディザイア公爵家という一族を作って、彼らに模範的な行動をするように指示を出して、私は貴方の婚約者になれるように生まれました。もちろん、記録に不備がないようにはしていますけれど」
「そんな、そんなもの、まるで――」
――神の所業ではないか。
そんな言葉に、彼女はこくりと頷く。
「私は“滅びの指持つ“ウォルタリリィ。この国の人々からは滅びの神としか呼ばれない、隣国の女神です」
「隣国の神がなぜここにいる!」
「ですから、この国のためですわ、殿下。ですが、それももう終わりなのです」
滅びを受け入れていた神は、ウォルタリリィの願いを聞き届け、ほんの少しだけ滅びに抗うことを決めた。ウォルタリリィのおかげで人々が願い事をしないのに感謝するようになった時は、彼が彼女に感謝を述べた。
けれど、自分達の損得勘定でウォルタリリィの行いを踏みにじった彼らを見て、プレイヤ神は結局諦めた。
「もうプレイヤ様は抗うことをやめてしまわれました。彼の身はもはや一日と保ちません。この地より神の守りは消え失せます」
この世界は魔物や瘴気などの危険に満ちている。
神の守りがなくなれば、国として存続することすらできないだろう。
「そんな――助けてくれ! お前は国のためにずっと尽くしてきたのだろう!? 神だというなら、この国に庇護を与えることもできるだろう!?」
神であるといいながら、今までと変わりない態度と鬼気迫る表情で這い寄るフィンガーを、彼女は今までと変わらない淑女らしい顔で見下ろした。
「殿下。私がこの国のために尽くしてきたのは、プレイヤ様がこの国と共にあったからです。プレイヤ様が消えてしまう国には、なんの興味もありません。ごきげんよう」
女神は美しいカーテーシーをして、風に舞う灰のようにふわりと消えた。
※※※※※
クロッシング王国の王城の奥に、プレイヤ神を奉る神殿がある。
あちこちが崩れ、祭司の一人も残っていない建物に、ウォルタリリィは迷いなく入っていく。
その最奥の祭壇の横に、白い一枚布でできた古めかしい礼服の男が座り込んでいた。
「プレイヤ様」
「……あぁ、ウォルタリリィか」
かすれてはいるが、暖かい日差しのような優しい声だ。
うずくまるような姿勢からゆっくりと顔を上げた顔色の悪い青年は、彼女を見て微笑んだ。
「やっぱり、だめだっただろう?」
「まだ挽回できたはずです。レーグル嬢が妃となっても、貴方への感謝を人々に伝えることはできたはずです」
「それよりも、彼らの願いに僕が押しつぶされる方がきっと早かっただろう。皮肉だな。彼らが珍しく自分で願いを叶えようとした結果が、僕を滅ぼすなんて」
漏れ出す笑い声はかすかすで、病気の老人のように張りがない。
そのままふらりと横に倒れそうになったプレイヤを、ウォルタリリィはとっさに抱きとめた。
「プレイヤ様」
「ああ、君は変わったな。最初は、自分が触れたら滅びるかもしれないなんて言って、手も握らなかったのに」
「人に混ざって生きていれば他のものに触れることなど幾度もあります。それに、他者を厭うていた私に最初に触れてくださったのはプレイヤ様です」
プレイヤを抱きしめる腕に力が籠もり、ウォルタリリィの瞳から涙があふれ出す。顔がくしゃりと歪み、化粧が崩れて流れた黒が白い礼服と美しいドレスを汚す。
ぐったりと垂れていた手がゆっくり持ち上がり、止まらない涙をそっとぬぐった。
「どうか泣かないでウォルタリリィ」
「それな、ら、し、死なないでっ、プレイヤ様っ」
子どものようにしゃくりあげながら吐き出された願いに、しかし男神は首を横に振った。
「それだけは叶えてあげられないよ」
「どうして、どうしてですか」
「どんな神のどんな奇跡も滅びる神を直接救うことはできない」
滅びていくのは自身だというのに、その声はひどく穏やかで、それがことさらウォルタリリィの心を揺さぶった。
「貴方は人々を幸せにしてきたのに! 私を幸せにしてくださったのに! どうして死ななくてはならないのですか!」
「僕が“願いを叶える神”として生まれた時からの宿命だ。――人々の営みには「神に願いを叶えてもらえる」という仕組みは、毒でしかなかったのかもしれないね」
ウォルタリリィはもはや泣くことしかできなかった。
人間に対して大規模なごまかしはできても、彼女の権能は”滅び“である。
敵なら滅ぼせる。病でも滅ぼせる。
だが、愛する人を蝕む元凶は、滅ぼして済む相手ではなかった。
精一杯の工夫も無意味になった。
神でも絶望するのだと彼女は思い知った。
「――君が人間だったなら、僕は死ななかったかもしれないね」
小さな声に、ウォルタリリィは顔を上げた。
回した腕が透けて見えるほどに薄れたプレイヤが、微笑んで彼女を見つめていた。
「プレイヤ様?」
「君の祈りは、願いは、愛は、それほどに僕を満たしてくれた。それが力にならないとしても、君の言葉に、想いに、僕はどれだけ救われただろう」
ほとんど力など残っていなかったはずの体が、ゆっくり起き上がる。
まるで王子に救われた姫君のような姿勢で、彼は彼女の唇に口付けた。
「ぁ――」
「僕は消えてしまうけれど、僕がウォルタリリィに救われたことを覚えていてほしい。互いに愛し合っていたことを覚えていてほしい。君が忘れるその日まで、僕は夜空から君を見守っているよ」
その言葉が終わると同時に、ウォルタリリィの腕から一切の重さが消え、次の瞬間に彼女の腕は空を掻いた。
星の瞬きのような光が散り、プレイヤという神は世界から消え失せた。
光のあった場所を焼きつけるように見つめてから、ウォルタリリィは涙混じりの声を、小さな笑みを浮かべた唇に乗せた。
「ひどいわ、忘れていいようなことをおっしゃるなんて。私、忘れられるはずがありませんのに」
彼女の真心を受け止めた上で忘れる罪悪感すら残さないように消えてしまった男を想って、滅びの女神はもう一度声を上げて泣いたのだった。
国の一つ一つに神がおわすとある世界に、滅びの女神を奉じる小国があった。
あらゆる外敵を退ける他に恩恵のない静かな国で、ある日大変な変化が起きた。
女神を奉る神殿の屋根がなくなり、祭壇から水が溢れ出して水浸しになったのだ。
慌てる人々を止めたのは、かの女神直々の言葉だった。
「私は空を覆うものを望みません。ゆえに天蓋の一切を滅ぼします」
「私は渇きを望みません。故に水を遮る一切を滅ぼします」
「以後、神殿はこのように在るように」
その日から、小国にはひと目でわかる神の奇跡が常にあるようになった。
清らかな泉のようになった神殿の上の空は、いついかなる時も晴れるようになったのだ。
それが雲であれ、風であれ、鳥であれ、遮るものは即座に消滅させられた。
あれこそ神の御業であると、人々は殊更神を敬い畏れて生活するようになった。
なので、鏡のようになった泉に、夜になると美しい花が咲く理由も、その場所が星の動きとともに移動する理由も、誰も知らないままだった。
リハビリになろう界隈のテンプレの一つである婚約破棄を自分テイストで書きました(これでいいんだろうか