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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

呪い召しませ大罪人

作者: 陶花ゆうの



 ぴちょん、ぴちょん――



 ――そこは、万物が静止したかの如き静けさの中、水滴のみが滴り落ちる鍾乳洞だった。



 ぴちょん、ぴちょん――



 ――鍾乳洞の壁面を成す、凹凸激しい岩壁を伝う水滴。

 あるいは遥かに高い岩の天井から、無数の氷柱のように垂れ下がる、幾多の鍾乳石から伝い落ちる水滴。


 空気は静寂と冷気のみを湛え、一点の光も差さぬ闇の中、年月すらも夢幻の如くに思われた。


 ――いや、一点、淡く橙色の光の点っている場所があった。


 如何なる天然の悪戯か、台座の如くに平らに均された岩の上に、ころりと転がる光石。

 橙色の柔らかな輝きを強く放つその小さな八面体は、周囲の闇を淡く打ち払い、またそこに影を生じさせることで、鍾乳洞内が全くの無人ではないということを示していた。



 ぴちょん、ぴちょん――



 延々と続く、清冽な水滴の音に、そのとき異音が混じった。


「――はー、はー、はー……」


 荒らいだ息の音。

 そして、足を引き摺るかの如くに重々しい、足音。


「――はあ、はあ、……やっと!」


 その足音の主は、今しも険しい足場に苦心しつつも、鍾乳洞内に一点のみ灯る、橙色の光を見付けたところだった。

 ぜぇぜぇと荒い息を漏らすその人物は、まだ年若い少女。春の日差しのような金色の髪を一つに結い、翡翠色の目は親の仇を見るかのように険しく、その明かりを見据えていた。


「……やっと見つけた!」





□■□





 傍に人が立つ足音に、青年は目を開けた。


 鍾乳洞内の暗闇の中、光石の明かりに淡く照らされ、ちょうどよく平らな地面に大の字になって寝転んでいる彼は、起き上がるでもなく、ただ瞼を上げ、そして目を細めた。

 その目の色は濃紫。紫水晶を思わせる、透き通った曇りなき色合いだった。


「――ん?」


 訝しげに一音漏らし、青年はがばりと起き上がる。

 腹筋のみで跳ねるように上体を起こしたその動きで、彼の前髪がぱさりと目許に掛かった。この鍾乳洞内の暗闇の如き黒い髪。


 ふっ、と前髪を吹いて散らし、青年はまじまじと、目の前に立つ肩で息をする少女を見上げた。


 一つに結わえられながらも解れた金の髪。

 青年を睨み下ろす翡翠色の目。

 傷んだ旅装に、肩に担いだ麻袋。


「――なんだ、おまえ……?」


 青年は瞬きし、もう一度、上から下まで少女を眺めた。


「俺はここで、フレイって奴を待つように言われてんだけど……、おまえじゃねえよな?」


 こてん、と首を傾げられ、金髪の少女の額に青筋が浮いた。

 ぐっと拳を握ると、彼女は憤然とした仕草で顎を上げ、左耳の後ろから首筋をすっと撫でる。



 その指先が辿る位置に、闇に紛れて見難いものの、毒々しい深緑の刻印が見えた。

 刻印は渦を巻く火の玉の形を成し、その周囲の皮膚は爛れたように筋が浮いている。



 それを見て、青年は大きく目を見開く。

 体つきの割に大きく骨ばった手で口許を覆い、「こりゃあ……」と呟く彼を見下ろして、少女はすうっと息を吸い込むと、溜め込んでいたものを吐き出すかのように叫んだ。


「残念ながら、あたしがフレイよ! あなたがガイスね?

 なんで、――なんでこんな所にいるのよっ!」


 ますます大きく目を見開いて、青年は座り込んだまま両手を広げてみせた。


「なんでって……ここで待てって……」


「違うでしょ!」


 絶叫するフレイの声が鍾乳洞内に木霊し、どこかで蝙蝠が集団で滑空する気配がした。


「違うでしょ! 指示があったのはこの鍾乳洞の入り口での合流でしょ! なんでがっつり中に入ってんのよ――っ!」


 濃紫の目を見開いたまま、ガイスと呼ばれた青年はぽかんと口を開き、


「……あー……」


 気まずげに目を逸らしながら立ち上がった。そうすると彼は、フレイよりも頭一つ分上背があることが分かる。年の頃は十九か、二十歳か。

 こちらも旅装だが、異様に荷物は小さく、そして身に纏う外套が何より特徴的だった。

 膝下まで裾の届く、かっちりとした漆黒の外套。立てられた襟と袖口、そして裾に、銀糸の刺繍が施されていた。

 旅装束にしては上等に過ぎるように見える。


 がしがしと頭を掻き、ガイスは肩を竦めた。


「――悪かったよ、てっきり中での合流かと。手間かけたな。――に、しても、おまえ」


 腰を屈めてフレイの顔を覗き込み、ガイスはにやりと笑った。



「そんな歳で、おまえ、一体なにやって()()()なんかになったんだ?」






 ――この世界は、天上府(てんじょうふ)と呼ばれる機関の支配の下にある。


 天上府は天穹(てんきゅう)(がい)の更に上、中天に座し、この世の全て――生も死も、遍く治める絶対的な正義である。


 天上府が定めた法に背き、あるいは天上府に疑義を示し、あるいは不敬を働いた者は、須らく罪人として罰を受ける。


 罪を定めるのは天上府であり、罪に相応の罰を定めるのもまた天上府である。


 軽い罪には軽い罰を。重い罪には重い罰を。


 窃盗や私闘、未遂の罪には過料や投獄を。

 殺害や暴行には死罪を。



 ――そして、死でも贖えぬと判断された、最も重い罪に与えられる罰は、呪い――



 左耳の後ろから首筋に掛けて生じる刻印は呪いの証であり、翻せばその刻印を穿たれた者は、死罪でなお軽いと判断された凶悪な罪人である。



 大罪人、あるいは呪罪人じゅざいにんと呼び習わされる。




 齢十七ほどと見えるフレイもまた、己が呪罪人であるという証をガイスに見せたのである。




「――何だっていいでしょう。それに、お互い様じゃない。あなたも随分とお若く見えるけれど?」


 やや嫌味の色の濃い声でそう言って、フレイはガイスから一歩の距離を置いた。

 ガイスは歯を見せて笑って、地面から光石と小さな荷物を拾い上げる。


「ははっ、確かに俺は()()()ねぇ」


 荷物の中から小さなランタンを取り出して、ぱかりと蓋を開ける。

 その中に光石をころんと落として、ガイスはランタンを振って見せた。岩壁に影が踊る。


「んじゃ、さっさと行きますかぁ。呪罪人同士だ、別に遠慮も礼儀も要らねぇぜ。

 ――おまえは運がいいね。今回のお役目は、珍しく()()()だ」





□■□





 ――呪罪人は呪いを受ける。


 呪いは様々だ。

 ある者は触れるもの全てが腐り落ちる呪いを、ある者は他者の隠した心の声を延々と耳許で聞かされる呪いを受ける。


 同じ呪いは二つとないと言われるが、そもそも呪いを受けるほどの大罪人は滅多にない。


 呪罪人は呪いと共に生きることを強制され、更には天上府への絶対服従を誓わされる。

 刻印はその証でもあり、ゆえに――





「はい、どーも」


 ちゃりん、と戻された釣銭を受け取り、ガイスは笑顔で露店の主に会釈した。

 露店の主はあからさまに顔を顰め、しっしっ、と仕草で彼を追い払う。


 外套の襟を立てているとはいえ、彼の左耳の後ろから首筋に掛けてを覆う深緑の刻印は、完全に隠せるものではない。

 一目見れば、彼が呪罪人であるということは火を見るよりも明らか。

 ゆえに往来において彼に注がれる眼差しは、全てが度を越した冷ややかさに満ちていた。


 露店の主の態度も、更には周囲の人々の態度や眼差しも、一切意に介さず、ガイスは悠々と歩を進め、階段を登る。

 手には、今しがた露店で買い込んだ揚げパンの入った紙袋。


 がさがさと袋を探って揚げパンを取り出し、はむ、と齧りつきつつ、ガイスは袋を、後ろを歩くフレイに向けてぷらりと差し出した。


「おまえも食う?」


「……いただきます」


 慙愧に耐えぬ、という顔をしつつも、袋を受け取り揚げパンを取り出すフレイ。


 同じ呪罪人であっても、距離を縮めることに抵抗があるのか、彼女はこの町に至るまでの道中、一切口を利いていなかった。


 そんな彼女は、首の後ろで一つに結わえていた金髪を、今は顔の左側に流して緩く編んでいた。

 言うまでもなく、刻印を隠すためである。


 揚げパンを一口齧り、ほう、と息を吐いたフレイを横目でちらりと振り返り、ガイスは軽く指を鳴らした。


「――ははぁ、おまえ、素人だな?」


「…………」


 だから? と言わんばかりの眼差しで自分を見るフレイに、ガイスはにやりと笑い掛ける。


「まだ一回も()()()果たしたことねぇんだろ? ()()()路銀もあんまりなくて、この頃碌に食えてねぇな?」


 ぐ、と言葉に詰まるフレイ。

 その表情が雄弁に、図星であると語っていた。



 ――ここは山の麓に広がる町、ヘルオス。


 二人は鍾乳洞から出て、その最寄の町であるここに来ていた。


 ヘルオスの背後に広がる山は、光石などの資源石こそ産出しないものの採石場を有し、産出する石は煉瓦色がかった独特の色を示す。

 その石にて作られた、大地の傾斜のゆえに階段の多い町。

 町の中心を貫く大階段は、その両脇に露店が連なる賑やかな通りとなっている。

 大階段の頭上には、露店の後ろに立つ建物から組紐が渡され、交差し、その組紐には光石が結わえられ、夜であっても明るく照らし出されていた。



 現在は天穹蓋てんきゅうがい()()を過ぎた刻限。

 無数の光石が露店を照らし大階段を明るく包み込む、幻想的な時間である。



「なるほどなー。俺に、他の大罪人と協力して事に当たれなんて指令が来るから、どんな大事(おおごと)かと思ったら。お役目の内容を聞けば大したことねぇし、不思議に思ってたんだよ。

 なるほど、新人の教育の指令だったってわけか」


 濃紫の目で掠めるようにフレイを振り返り、ガイスはぼそりと呟く。


「……()()教育が必要ってわけか……」


 フレイは揚げパン片手に気まずげに顔を伏せていたが、すぐにばっと顔を上げた。


「素人じゃ悪いってわけ?」


「いーや」


 ガイスは正面に向き直りつつ、ちょいちょい、とフレイに向けて指を動かして合図。

 察したフレイが残りの揚げパンが入った袋を彼の手に戻す。


「――ま、いーんじゃね? 最近まではヒンコーホーセーに生きてきたわけだろ? いーんじゃないで、す、か、ねえ?」


 どことなく「品行方正」という言葉の響きに嫌味を交えつつそう言った、ガイスの肩が擦れ違う若い青年の肩にどすんと当たった。


「お、失敬失敬。ついついいつもの癖で……」


 がく、と体勢を崩しながらも謝罪するガイスに、ぶつかった青年が凄みを籠めた目を向ける。


「あ? てめ、誰にぶつかったと思って……」


 あからさまに柄の悪い会話の切り出し方に、ガイスの背後であわあわと手を動かすフレイ。


 が、ガイスは極めて愛想よくにこりとすると、(おもむろ)に外套の襟をぐっと寝かせ、左の首筋を強調するように首を傾げた。


 露わになる呪罪人の証。


 絶句する青年に、ガイスはにっこりと笑い掛けた。


「うん? 誰にぶつかったかって? ――気にするのはそっちだと思うけど?」


 さあっと、気の毒なまでに鮮やかに、青年の顔から血の気が引いた。


 まるでおぞましい伝染病を持っている者から遠ざかるが如くに足を引き、すぐさまぱっと走り出して姿を消す。

 道行く人を押し退けるその逃走ぶりに、なんだなんだと上がる声。


「おー、いい逃げっぷりだねえ」


 楽しげにそう言いつつ、ガイスは襟を整えた。

 そして、どことなく唖然としている風のフレイを振り返ると、肩を竦めて見せる。


「――こういう世の中の渡り方も、覚えといた方がいいよ、新人さん」






 ――呪罪人は呪いを受ける。


 呪いは様々だ。

 同じ呪いは二つとないと言われるが、そもそも呪いを受けるほどの大罪人は滅多にない。


 呪罪人は呪いと共に生きることを強制され、更には天上府への絶対服従を誓わされる。

 刻印はその証でもあり、ゆえに、呪罪人は侮蔑と共に()()と、()()()()()を受ける。


 彼らの役目は罪の撲滅。


 善良なる役人が赴くには危険であると判断された罪人の許へ赴き、彼らを捕縛することを命ぜられる。

 かつて罪を犯した者を以て、新たな罪人を捕らえようというわけである。

 呪罪人はこの役目の遂行を以て、最低限の衣食住を得るための報酬を天上府から得る。


 ――そして、保護。


 一つに、呪罪人を害することが出来るのは、天上府の定めた役人のみ。

 これに反することもまた罪であり、呪罪人は数多の民草の、義憤ゆえの暴力から守られる。

 また呪罪人が、役目を全うするためには最低限の衣食住を必要とすることが()()であるがゆえ、どんなに相手を疎もうが、差し出された対価に見合うだけのものを施さねばならない。


 露店の主が、ガイスから差し出された対価と引き換えに揚げパンを売らざるを得なかった、これがいい例である。


 そして、二つめは――






「――今度のお役目は単純明快」


 たん、と大階段の最上段を踏み、ガイスは振り返って眼下に広がるヘルオスの町並みを眺め遣った。

 


 天穹蓋てんきゅうがいが閉ざされ、中天から配給される光が断たれた時間――光石の明かりに照らされ、幻想的に夜陰に浮かぶ町並み。


 ガイスの背後にはヘルオスを監督するてんじょうの下部機関、ちょうしょうが聳え立つ。



 長い階段を登り切り、軽く息の上がったフレイが、大きく息を吐いて大階段の最上段に腰掛けた。

 そんな彼女をちらりと見下ろし、こちらは呼吸の乱れすらなく、ガイスは両手を広げて言った。


「このヘルオスに逃げ込んだ罪人がいる。他の町で殺人を三件犯した凶悪な奴。

 ――そいつを俺たちで捕まえること。――出来そ?」


 からかうような濃紫の目を向けられ、フレイは翡翠色の目に力を籠めてそれを睨み上げた。


「――やるしかないのよ、あたしはね」


 ふ、と微笑んで、ガイスはフレイの隣に腰を下ろした。

 吹く風に、はたりと彼の外套の襟が靡く。


「へえ。そりゃあ頼もしいねぇ」





□■□





 朝の訪れは即ち、てんきゅうがいが開くことである。


 この地上、そしてそこに生きる者の生死をも治める天上府。

 支配被支配の境目を明確にするが如くに、空高くに架けられた天穹蓋。


 鋼色の天蓋に見えるそれは、夜の訪れに閉じ、朝の訪れと共に開く。

 開くとはいえ、それは天穹蓋に無数の隙間が開くだけのことだが、天穹蓋が開くこと、それは光の配給を意味する。



 怒濤のように流れ込む光の奔流に、フレイは翡翠色の目を開けた。


「う……」


 呻いて前腕で目を覆う。


 何しろここは屋内ではない。

 天穹蓋の隙間から差し込む強烈な光が、容赦なく瞼の裏を焼く。


「おー、起きた? 途中で動かなくなったから、死んだかと思ったぜ」


 へら、とした声が耳に入り、フレイは思わずがばりと身を起こした。

 ひらりと靡く金の髪、それを苛立たしげに払って、フレイは叫んだ。


()()()()わよっ!

 ていうか、夜通しあちこち引っ張り回されてたら、そりゃあ体力の限界も来るわよ!」


「わりぃわりぃ」


 あっさりとそう言い放ったのはガイスである。


 フレイは呻きつつ周囲を見渡す。


 ここはヘルオス中腹の、同じ標高を結ぶ小道の端。

 そこに慎ましく植えられた街路樹の根元で、昨夜フレイは力尽きて眠りに落ちたのだった。


「やるしかないっ、とか言ってた割に根性ねぇなー、おまえ」


 傍に屈んだガイスに無遠慮に顔を覗き込まれ、フレイは思わず彼をどついた。

 短い睡眠が、彼女にあった距離を縮めまいとする遠慮を溶かした様子だった。あるいは単純に、へらへらしたガイスの態度が腹に据えかねたのかも知れない。


「うるさい。っていうか、ずっと気になってたんだけど、あなたのこの外套なんなの? もう春よ、分かってる?

 ――それはそうと、あたし、何時間寝てたの?」


 外套の襟に触れ、ガイスはきょとりと瞬きした。


「これ? これは――ってか、俺のことを詳しく聞いてるわけじゃねーのか」


 フレイは目を細めた。


「名前しか聞いてないのはお互い様じゃないの?」


 ふむ、と頷き、ガイスはフレイの翡翠色の目を見下ろした。


「――確かにな。俺、おまえの呪いも知らねぇわ」


 でしょう、と頷き返して、フレイは先程の問いを繰り返した。


「で、あたしは何時間くらい、この最悪の寝心地の場所で寝てたの?」


 ガイスは肩を竦めた。


「さあ? たぶん三時間くらい? 体力ねぇのなー、おまえ」


 額を押さえ、フレイは恨みがましげにガイスを見上げた。


「――あのねえ、あたしは昨日も、鍾乳洞の入り口で待ってるはずだったあなたを探して、朝からずーっとあの悪路を歩き回ってたんだからね?」


 ぽん、と手を打ち、ガイスは紫水晶の目を見開いた。


「あ、そういうこと。最初っから実はふらふらだったってわけね。――なんで言わなかったの?」


 うぐ、と黙ったフレイに、ガイスは鼻を鳴らした。


「根性見せようとして失敗してたんじゃあ世話ねぇな。――にしても、夜中にあんだけふらふら出歩いても姿を見せねぇ、か……」


 気を取り直したように立ち上がりつつ、フレイも言う。


「捕まえるの、通り魔でしょ? 歩いてたら出て来るに違いないって言ったのあなたでしょ」


 それを信用して、足が棒になるまで歩いたんだけど――と見上げてくるフレイの顔は見ず、ガイスは身体つきの割に大きな手で顎を撫でた。


「ああ。おまえも大筋は知らされてるんだろ?

 アルデン・フォニー、二つの町で三人殺した奴だけど、三人とも女性。自分より弱い奴を狙う、典型的な外道だな。――うーん、つまり」


 ぱちん、と指を鳴らしてフレイを見下ろし、ガイスはにっこり笑って自分を指差した。


「どーやら俺が邪魔らしい」








 斯くして。



「……本っ当に近くにいるんでしょうね……」


 そう呟きつつ、天穹蓋が閉じた時間帯、一人でヘルオスの町を徘徊するフレイがいた。


 手にはランタン。

 ランタンは使い古されて硝子が曇ってしまっているが、それでも中に入れた光石の明かりは十分に目の前を照らすに足りた。

 因みにこのランタンはフレイの持ち物である。


「俺は近くで見守ってるから。頑張ってっ!」


 と片目を瞑って言い渡してきたガイスを思い出しつつ、フレイは上へと続く細い階段に足を掛けた。


 生温い夜風が吹く。

 フレイは覚えず、ぞわ、と身震いして、ゆらゆらとランタンを揺らし、高く持ち上げて前方の出来る限り広い範囲を照らそうとして――


(――あんまり警戒してる雰囲気は出すなよ。出て来るもんも出て来なくなるからな)


 ガイスの言葉を思い出し、すごすごとランタンを下げるフレイ。


 天穹蓋が閉じてしまえば、普通は辺りは真の闇に落ちる。

 だがこのヘルオスは、大階段の頭上に灯される無数の光石の明かりが僅かに漏れて、大階段から離れてはいても、多少の明るさは確保されていた。


(……とはいえ、怖いものは怖いんだけど……)


 ごく、と唾を飲み、階段に足を掛ける。

 たったった、と数段を上がって、フレイは周囲にランタンを向けた。


 ――人の気配はなく、ただただ夜闇が広がるのみ。


(まあ、()()()()()()()()んだけどね……!)


 ふう、と息を吐き、己を鼓舞。


 そして、次なる段差にこつりと足を掛けた瞬間だった。


 がっ、と肩を掴まれ、フレイは目を見開いた。


 ランタンで相手を打ち払おうとするが如くに勢いをつけて振り返ると、「おわっ!」と声を上げて数段を下がる人影。


「だれっ!? 誰、なにっ!」


 上擦った声で叫んだフレイに、「いやいや落ち着いて!」と声を上げてくる。


 腰が引けつつもランタンを突き付け、フレイは相手を観察した。


 ――栗色の癖っ毛に、同じ色の瞳を明かりに細めている青年。

 年の頃は二十を幾つか過ぎたところか。

 いうなれば優男で、上背もない。フレイよりはさすがに背が高いが、ガイスほどの身長はなかった。


「――うわー、びっくりした。ごめんね、こっちも驚かせちゃって」


 穏やかな声でそう言われ、フレイはランタンをやや手前に引いた。


「あ……いえ、すみませんでした……大声出して」


「いいよいいよ、階段から落ちるかと思ったけどね」


 たはは、と笑って、青年はフレイの顔を覗き込んだ。

 ランタンの光に、栗色の目の奥で瞳孔が縮んだ。


「それより、こんな夜中に、一人?」


 ぎゅっとランタンの持ち手を握り、ぐっと固唾を呑んでから、フレイは小さく頷いた。


「あ、はい……一人です」


 びゅう、と、また生温い夜風が吹いた。

 思わず足で段差を探り、こそ、と一段上がって青年と距離を取ろうとするフレイ。


 そんな彼女に、青年は二段を駆け上がって距離を詰めてきた。


 咄嗟に、フレイはぱしりと左手で耳の下を押さえた。

 夜陰の中とはいえランタンの光がある。近付かれれば刻印に気付かれるだろうことを警戒したのだ。


 フレイのその挙動に、訝しげに栗色の目が細められる。


「……どうしたの?」


「いえ、なんでも……」


 首を振りつつ、フレイは更に後ろ向きのまま一段を上がった。青年は人懐こく笑って、


「そう? ねえ、今から帰るの?」


 フレイはこくりと頷いた。


「えと……はい」


「そうなんだあ」


 ますます笑みを深くして、青年はまたフレイとの距離を詰めた。


「送ってあげようか? 夜道に一人は危ないでしょ?」


「あー……」


 フレイは目を泳がせる。


(あ、怪しい……!)


 ランタンを握る手が僅かに震えた。


(怪しい! 普通、こんな道端で声を掛けただけの相手の家まで付いて行こうとする!? しないでしょ!)


 だが、とはいえ。


(怪しいなら怪しいなりに、この人が今回のお役目の目標であれば……それはそれで)


 ぎゅう、とランタンを握る手に力を籠め、フレイは笑顔を作った。


「えっと……じゃあ、お願いしていいですか?」


 にこ、と青年が笑った。


「喜んで」






 青年を自分の右に立て(言うまでもなく、刻印がある左側に立たれるのを避けたのだ)、存在しない我が家へと歩みを進めるフレイ。


 階段を上がり、平らな道を進み、角を曲がって、また階段を上がる。


 にこやかに青年と言葉を交わしつつ、その内心は大汗。


(えっ、どうしよう……これ、この人がただの善良な人だったら、どこかの家に入らない限り終わらない散歩になっちゃうんだけど!?)


 自然と歩みも遅くなる。しかし一方、


(でも待って……今のあたしの汚い格好見て、なんでこの町の人間だと思うの? 百発百中で旅人だと見抜かれてきた格好なんだけど、これ)


 曲がり角ももはや適当に選んで進んでいる。

 住宅街ではない方向へ自分が足を進めていないことを祈るばかりだ。何しろフレイには土地勘がない。


 今進んでいるのは、同じ標高を結ぶ小道の一つで、右手は斜面、左手には民家。

 民家の正面玄関は一つ向こうの小道に面しているらしく、見えるのは民家の背中側のみ。


(ボロを出すなら早く出してよ――っ!)


 内心で悲鳴を上げるフレイが、またも適当な曲がり角を選んで進もうとしたときだった。


「――ねえ」


 青年が、ぎゅっとフレイの腕を掴んだ。

 ランタンを持つ方の手を封じられた格好になり、足を止めてフレイは瞬き。


「はい……?」


 びゅう、と春の夜風が吹いた。思わず身震いするフレイ。


 もはや足が震え出す。

 何しろつい先日まで、フレイは平々凡々に生きていた。


 何なら夜道の一人歩きもしたことがなかった。


「この先に、民家はないと思うんだけど……自分の家までの道、間違えたの?」


 青年の言葉に、「ああーっ!」と叫んで膝を折りたいのを堪えつつ、フレイは何とか強張った愛想笑いを浮かべた。


 ランタンの光が腕で遮られ、青年の顔は完全に陰になっている。


「あ、……えと、あの……夜道、慣れてなくて……」


「へええ……」


 呟く青年の声色を捉えかねて、フレイは生唾を呑み込んだ。


「あ、あの……?」


「ねえ、まさかさあ」


 青年の声音がぐっと低くなり、フレイは迷わず青年の手を振り払おうとした。

 が、がっしりと押さえられた腕の救出はならず。冷や汗のみが蟀谷を伝う。


「まさか、僕のこと何か疑ってるの?」


 栗色の目に至近距離で睨みつけられ、フレイは唇を震わせた。


「は……い……?」


 疑われる心当たりがあるんですか、という言葉は、震える唇を越えずに喉の辺りで霧散した。


「それにきみ……ん?」


 訝しげな声が上がり、フレイは気絶しそうになった。


(やばい、見られた――まずい!)


「この印――」


 す、と、青年の指先が自分の左耳を掠めたのを感じた。フレイは大きく目を見開いた。



 ――ばっさあ、と、何かが頭にぶち当たり、それがそのまま視界を覆った。


 突然のことに青年の手が緩み、視界の確保よりも彼と距離を置くことを優先し、フレイは無我夢中で後ろへ飛び退った。

 がらん、と音がしてランタンが地面に転がる。


 着地によろめき数歩下がる、彼女の背中が民家にぶつかった。


 緊張に心拍数を上げつつ、フレイは毟るようにして自分の視界を覆った何かを剥ぎ取った。

 地面に転がったランタンに明かりに透かし見れば、それは、


(外套……!?)


 状況が全く分からない。

 黒い外套を両手に抱え、フレイは顔を強張らせて青年を見る。


 青年は忌々しげに首を振り、今しもこちらへつかつかと歩を進めようとしていた。

 途中でランタンを蹴り飛ばし、転がり遠ざかる光源に、影が大きく足許を踊る。


 青年の手が己の懐を探り、何かを取り出した。


「――――!」


 短刀だった。


 フレイは思わず外套を取り落とし、両手で口許を覆う。

 絶叫し損ねたせいである。


 するり、と短刀を鞘から抜き、ぽい、とその鞘を足許に捨てる青年。

 抜き身の刃がランタンの光を弾いて鈍く光る。


 フレイは後退ろうとして、自分が既に民家の壁に背中を押し付けている状況であることを思い出した。


「ま、ま、ま――」


 唇が戦慄く。声を絞り出す。


「――待って! 落ち着いて! 無駄だから!」


 ようやく喉を突破した声は震えたが、青年は「ふん」とばかりに顎を反らした。

 そのまま短刀を右手に、フレイの眼前まで歩を進めて左手を壁に突く。


「――へえ、無駄?」


 滑らかにそう言って、青年は壁から手を離し(どうせなら短刀から手を離してくれ、と、フレイとしては切実に思った)、フレイの左首筋をすっと撫でた。


「この刻印――きみ、呪罪人か」


 にっこりと微笑んで。


「ふうん……天上府は僕を、普通の警吏の手には負えないと判断したってわけか……。でも、それにしてもきみ――」


 だんっ、と再び壁に手を突き、青年は冷笑を浮かべた。


「――話に聞いてた呪罪人とは随分違うねえ? 呪罪人って、中央府の犬で、命令のためには何でもする、油断も隙も無い連中だって聞いてたけど――全然違うね!」


 フレイは息を吸い込んだ。


「……犬――じゃ、ないっ!」


 叫び、目の前の青年の胸板を思い切り両手で押す。


 体格差がありそれほどの衝撃にはならなかったようだが、それでも半歩、青年は後退った。

 直後、舌打ちと共に振り下ろされる迷いのない短刀――



 咄嗟に身を伏せたフレイは、自分が取り落とした外套が、ふわりと宙に浮き上がるのを見た。



 がんっ! と民家の壁の漆喰を噛んだ短刀の刃先が翻る。

 今度は真下へ、フレイの脳天目指して振り下ろされる。



 ――フレイはそのとき、浮き上がった外套が翻るのを見ていた。


 ふわ、と宙に長い裾を靡かせた外套は、さながら人が外套を纏うときの仕草を、外套のみの動きで見ているかの如く。

 

 そして、――()()()()()()()()()

 しゅるりと袖を潜った手が、気取った動きで外套の襟もとを整える。

 その襟の下には逞しい肩の輪郭が、そしてその下には当然のように、着衣の上からでも鍛えられていることが分かる胴体が続いている。



 そして、長い裾を打ち払うような動きで、脚が。



「――おらよっと!」


 思い切り蹴り飛ばされ、青年が真横に吹き飛んだ。


 ぐえ、と声を漏らし、敷石に強かに肩をぶつけて呻く。

 しかし、それでも短刀を手放していないのは驚嘆に値した。



 フレイは茫然と半口を開け、目の前に立った彼を見ていた。


 そんなフレイを見下ろして、堂々とそこに現れたガイスが片目を瞑る。



「――薄皮一枚で助かったな、おまえ?」








「――は、は、はあああああっ!?」


 夜陰に木霊する大声を張り上げ、フレイは飛び上がるように立ち上がった。


「どういうこと!? 何が起きたの!? っていうかあれ死んだ!?」


「きゃんきゃん騒ぐな、やかましい」


 切り捨てるようにそう言って、ガイスは外套のポケットに手を突っ込んで肩を揺らす。


「死んでねーよ。俺たちに下されたお役目は、あれの捕縛だからな」


 彼が紫水晶の眼差しを向けた先で、青年が起き上がろうとしていた。

 短刀を握り、膝に縋って立ち上がる。


「もう一人いたのか……!」


 恨み言のように口走る彼に、ガイスは愛想よくさえある声音で告げた。


「そういうことー。こいつはただの囮で、本命は俺だよ?

 ――ていうかさあ、こいつには優しくしてやってよー」


 にこ、と微笑むガイスの紫水晶の目が底光る。


「――なんせ、これが初のお役目。成り立てほやほやの大罪人なんだぜ?

 ――おまえがアルデン・フォニーだな? おまえの犯した罪は、こいつと俺に比べりゃまだまだ軽いっていうのが天上府の見立てだ。

 今ならまだ命も助かるだろうさ――()()()()()()()


「知らねえよ……!」


 短刀を振り、叫ぶアルデンに、ガイスはゆったりと歩み寄りつつなおも笑った。


「更に言えば、こいつのことも羨ましい限りだ。――アルデン・フォニー、おまえは分かりやすい悪人だな? こっちとしてもやりやすいよ、有難いことにね」


 迫るガイスに、アルデンはひくりと口角を引き攣らせる。

 何しろ相手は丸腰であり、自分の手元には刃物があるのだ。


「――死ねよ」


 短刀を構えて突進。

 その刃の軌道は迷うことなくガイスの心臓を目指しており、フレイは思わず叫び声を上げた。


 ――が。



「――そいつは出来ない相談だ」



 足を止め、ガイスが右手を中空に伸ばす。

 その指先にふわりと黒い靄が揺蕩う。



「なんせ俺は――」



 靄が集い、形を成し、鋭く光る。

 中空の靄から立ち現れる、ガイスの身の丈ほどもある巨大な鎌――



()()()()()()んでね」






 ――呪罪人は呪いを受ける。


 呪いは様々だ。

 同じ呪いは二つとないと言われるが、そもそも呪いを受けるほどの大罪人は滅多にない。


 呪罪人は呪いと共に生きることを強制され、更には天上府への絶対服従を誓わされる。

 刻印はその証でもあり、ゆえに、呪罪人は侮蔑と共に()()と、()()()()()を受ける。


 彼らの役目は罪の撲滅。


 善良なる役人が赴くには危険であると判断された罪人の許へ赴き、彼らを捕縛することを命ぜられる。

 呪罪人はこの役目の遂行を以て、最低限の衣食住を得るための報酬を天上府から得る。


 ――そして、保護。


 一つに、呪罪人を害することが出来るのは、天上府の定めた役人のみ。

 これに反することもまた罪であり、呪罪人は数多の民草の、義憤ゆえの暴力から守られる。

 また呪罪人が、役目を全うするためには最低限の衣食住を必要とすることが()()であるがゆえ、どんなに相手を疎もうが、差し出された対価に見合うだけのものを施さねばならない。


 そして、二つめの保護は、呪い。


 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()






 身の丈ほどもある巨大な鎌を中空より呼び出し構えるガイスに、アルデンが愕然とした顔を晒した。


 そのまま突進する足を止め、後退る彼にガイスは微笑む。


「呪罪人を見るのは初めてだろうな? おまえがまだ自由でここにいるってことは、そういうことだよな?

 ――あのな、呪いには様々ある」


 がんっ、と敷石を硬いものが穿つ音。ガイスが鎌の柄で、敷石を強く叩いた音。


「投獄されれば退屈な日々の幕開けだ。そのときに思い返して暇潰しでもするといい。

 ――俺に掛けられた呪いは、」


 す、と己の左耳の後ろから首筋に掛けて穿たれた刻印を撫で、ガイスはにやりと笑った。


「――『死神の呪い』。

 あるいは、『しょうの呪い』ともいう」


 かつん、とアルデンに向けて一歩踏み出し、ガイスは鎌を肩に担ぐ。


「字面の通りの呪いだ。

 俺は何十年も前に死んだ。殺された。

 それでもなお俺の罪を贖うには足りんとの天上府の裁断があってね……死ぬ前にこの呪いを掛けられた」


 ざっ、と、ガイスの靴の下で微細な砂利が鳴る。


「俺は死後の自由さえも奪われて、亡い命ですら罰に服せとの仰せに従ってここにいる。

 絶対に終わらない罰を、どうやらお偉方は俺に与えたかったらしいね」


 足を止め、アルデンに向けて空の左手を広げてみせる。


「だから、悪いね。俺は死んでやれない。おまえが俺に何をしようと、結果は変わらない。

 なぜなら、おまえは俺を終わらせられないからだ。

 追いかけっこでもするかい? それもいいだろう。疲れ果てたおまえを、俺が捕まえるだけのことだからな。

 どうしたって俺は、消耗することも出来ねぇんだから」


 かんっ、と鎌の柄で敷石を叩き、ガイスは顔が裂けんばかりに笑った。


「こいつは、死神の呪いが俺を守るためのもの。俺が死んでから過ごした年数を、俺の死後生を守るために顕わしたもの。――切れ味については自分で確かめてみるかい?」


 背後から見ていたフレイですら、背筋が凍るものを感じた。

 虚構にしては真実味があり過ぎ、冗談にしては凄みがあり過ぎた。



 そして、それを正面から捉えたアルデンは――



 ――夜陰を裂く絶叫を上げ、アルデンが走り出した。


 短刀を手にしたまま、がむしゃらに疾駆するアルデンの行動は、およそガイスの予想の範囲だった。


 彼は気が向いたときにこの怪談話を洒落込むが、大抵の者が恐怖に耐えかね逃げ出すものだ。



 何しろ目の前に、本物の死者がいるとあっては。



 が、今夜のガイスが見誤ったとすれば、それはアルデンが走り出した方向だった。


 ガイスを避けるように後退ったアルデンは、そのままガイスを回り込むようにして、彼の背後目掛けて走ったのである。


「――ありゃ?」


 先程の凄絶な迫力はどこへやら、ガイスは思わず首を傾げる。

 どうして真っ直ぐに逃げないのか、それを疑問に思ったためである。


 が、アルデンを追うようにその場で振り返り、彼は納得を籠めて頷いた。


「あー、なる」


 アルデンが迷わず飛び付いたもの――それは、フレイが取り落としていたランタンだった。


 ランタンを拾い上げ、震える手でそれをガイスの方向へ向け、アルデンが叫んだ。


「く――来るな!」


 絶叫だった。


 思わず大声で笑い転げ、ガイスは目許に滲む涙を拭う。


「はああ? おまえ、幽霊は光に弱いって、そう思ってんの? 傑作だわ……」


 こつ、と、またアルデンに向けて一歩を進む。


 がくがくと震えながら、アルデンは二歩を後退った。


「今まで三人殺しておいて、いざ自分が得体の知れないモノに出くわせば兎みたいに震えてやがる。おまえみたいなのには反吐が出るが、だがまあ、このお役目においては貴重な、胸糞の悪くならない仕事だ。せいぜい感謝しながら役人に引き渡してやるよ、このクズ――」


 言い差すガイスは、しかしその言葉を半ばで止めた。

 目の前の光景に、珍しくも呆気に取られて言葉を失ったのである。


「――は……?」


 腰を抜かしているとばかり思っていたフレイが、いつの間にか動いていた。


 動いて、全力でアルデンに向かって体当たりしていた。


 どう、ともんどりうって敷石の上に一纏めで転がる二人。

 どすん、と響いた痛そうな音に、ガイスは思わず顔を顰める。


 再び宙を飛んだランタンが、ガイスの足許まで転がり、彼はそれを爪先で止めた。


「――は? 何してんの、おまえ」


 やや冷ややかな声音でそう言えば、金髪を跳ね上げて起き上がったフレイはガイスをちらりとも見ずに叫んだ。


「……お役目を果たさないといけないの!」


 アルデンの上に馬乗りになり、フレイは裏返った声を張り上げる。


「お役目を――天上府からのお役目を果たさないと!」


「おまえ――はあ?」


 ガイスは鎌を担ぎ、思わず天穹蓋を仰いだ。


「呪いを貰っといてよくそんなことが言えるな! 相当軽い呪いか?

 ――くそ、つか、もういいよ。そいつ動きゃしないだろ。捕縛のためにおまえは十分一役買ったよ、ったく――」


 やれやれと肩を竦めつつ、二人に向けてガイスが一歩を踏み出した。その瞬間だった。


「――あ」


 声を出したのは誰だったか。



 ぐさり、と音がした気がした。


 ランタンの光の中で、一連の流れがガイスには細部に至るまで見て取れた。



 フレイの下でもがいたアルデンが、手にした短刀を深々と、フレイの腹部に突き刺していた。









「――やべ」


 さすがに焦り、ガイスがフレイの許へ走り出すと同時、フレイを地面に投げ出すようにして、アルデンがその下から脱出した。


 腹から刃物を引き抜かれ、フレイがその場にばたりと倒れる。


「ああ――あ――あああああああ!」


 抑えようのない絶叫が、フレイの喉を劈いた。


 彼女が掻き毟る石畳に、刻々と血だまりが広がっていく。


 ちらりとそれを見つつも、ガイスはフレイではなくアルデンへと焦点を定め直した。


「あの野郎の罪はおまえの命の分だけ重くなるから、恨むなよ。俺の今回のお役目はあいつの捕縛だからな。逃がすのはまずい――」


 アルデンは両手を使って立ち上がり、走り出そうとしている。


 振り返ったその顔は恐怖に満ち、ガイスのみを捉えていた。


 経験上か、彼は知っている――()()()()()()()()()であると。


 ばしゃん、と、ガイスがフレイの血だまりを蹴立てた瞬間――



 ――フレイが顔を上げた。



 血に塗れた顔を、血の気を失って真っ白になった顔を、さながら幽鬼の如くに持ち上げた。

 そして手を伸ばす。

 アルデンに向かって、届くはずのない手を、激痛に震える手を伸ばした。

 その指先も、彼女自身の血で真っ赤に染まり、血の滴が指先から滴り落ちようとしている――



 異様な執着心だ、と、ガイスは刹那に思った。

 だがもう息は続くまい――



 ――フレイの指先から落ちた一滴の血が、敷石を叩いた。



 その瞬間に、火の粉が散った。



 ――ぼうっ、と音を立て、フレイの周囲が火の海と化す。

 夜陰にごうごうと燃える炎の影が踊る。


 ガイスですら、一瞬事態を把握しかねて足を止め、一歩を下がった。



 炎は彼の脅威足り得ないが、だがこれは。



 一瞬にして自身の周囲を埋めた炎の中で、フレイが立ち上がった。


 その腹部で、最も激しく炎が燃えている。

 よろめき、だが踏み止まり、フレイは真っ直ぐに背筋を伸ばして立った。


「――逃がさない」


 呟いて、フレイが手を伸ばした。

 届くはずのないその距離において、しかし炎がぐるりとアルデンを取り囲みその足を止めさせた。


「……なんだよ、なんなんだよ、なんだっていうんだよ……」


 譫言のように呟くアルデンに向かって、熱波に金髪を巻き上げられながらも、熱をまるで感じていないかのように、フレイが宣告した。


「焼け死ぬか、投降するかよ。――選んで」


 力を籠め、刻々と血の気の戻る顔に、決然とした表情を載せて。


「今、あなたはあたしを殺した。呪罪人を殺すことが許されるのは、その権利のある役人だけ。――あなたがしたことは、間違いなく罪の上塗りなのよ。

 あなたを殺したとしても、あたしには申し開きのしようがある」


 茫然とするアルデンを炎の中に見据えて、フレイはなおも痛みに震える唇を曲げた。


「――あたしを刺そうとしたときに、ちゃんと無駄だって教えてあげたじゃない」


 ごうごうと燃える炎に、ガイスは眉を寄せた。


 ――この炎は、脈絡なく燃えているわけではない。

 間違いなく、()()()()()()()()()()()()()()燃え盛っている。



「あたしに掛けられた呪いは、『不死鳥の呪い』」



 吐き捨てるようにそう言って、フレイは軽く手を振った。――火勢が衰える。



「眠れども老いず、苦しめど死なぬ、生者の死の権利を奪う呪い――だそうよ」



 劫火が下火になっていく。



「天上府の沙汰によれば、あたしには死ぬ権利すらないらしい――」



 アルデンが座り込むのを炎越しに見据えて、フレイはぐっと拳を握った。

 ――炎が渦を巻き、消失していく。


「あたしが受けた損傷は炎に姿を変えてあたしを守る。――損傷が重ければ重いほど、強烈にね」


 フレイが微笑む――可笑しさの欠片もない、凍てついた笑顔だった。



「天上府の人たちの計らいで、この呪いの使い方はたくさん練習させてもらったの。――ねえ、投降するんでしょう?」



 三人の命を奪った罪に問われる罪人、アルデン・フォニーが、がくりと首項垂れて頷いた。


 炎の最後のひとひらが、捩れるように閃いて消え去り、火の粉も夜陰に溶け消えた。





□■□





「よー、おつかれ」


 声を掛けられ、大階段の最上段に腰掛けていたフレイは振り返った。

 金色の髪が泳ぎ、呪罪人の刻印が露わになる。



 天穹蓋は開き、燦々と光の配給が下界を照らし出している。



 翡翠色の目にガイスを映したフレイは、訝しげに眉を寄せた。


「……何してるの?」


「おまえこそ、何してんの?」


 反問され、フレイは視線を眼下の町並みに戻した。


「――次のお役目を待ってる」


 呟いたフレイが膝を抱え、膝に顎を乗せるようにするのを見て、ガイスは瞳をぐるりと回した。



 ――二人は、天穹蓋が開いてすぐ、ちょうしょうまでアルデンを連行し、然るべき役人に引き渡した。

 そこでささやかな報酬を受け取り、現在に至る。


 フレイは周囲の冷ややかな目に耐えかねて早々に町掌府を出たが、ガイスは少し残っているようだった。



「――あのさー、そんなに立て続けにお役目は来ねーよ?」


 ガイスの気まずげな声に、フレイは目を見開いて膝立ちになった。


「えっ!? そうなの!?」


「十日に一回くらい。まだお役目が終わってねぇときに追加が来ると地獄だけども」


 あっさりとそう言われ、愕然とした様子ながらも、フレイは再び膝を抱えて座った。


「そうだったの……」


「おまえさー」


 フレイの隣に足を投げ出して座り込み、ガイスは首を傾げて彼女を覗き込んだ。


「なんでそんなにお役目に拘るんだ?」


「…………」


 黙り込み、目を伏せるフレイに、ガイスはがりがりと頭を掻き、


「俺もそうだけどさ、――自分の生死に関わる呪いを貰うのは、呪罪人の中でも特に重い罪を犯したとされる連中だ。

 おまえがその歳で? たとえば天上府転覆を企むような革命家だったってんなら納得もするけど――いや、納得はしねぇな」


「…………」


 フレイの金色の睫毛が微かに震えるのを見つつ、ガイスは呟くように言った。



「天上府が呪罪人に仕立て上げるのは、()()()()()()()()()だろ。

 ならおまえが、天上府に心から忠誠を誓うなんて有り得ない。

 なんでそこまでお役目に執着できる?」



「……――」


 しばし黙り込んでいたものの、フレイはやがて、ぽつりと呟いた。


「――そんなの、あなたもでしょ。あなたも、何だかんだでお役目はこなすでしょう――それと同じよ」


「同じ、ねえ」


 激痛に震える手をアルデンに向かって伸ばしたあの必死さを思い返しつつ呟き、ガイスは溜息。


「おまえほんとに、その歳で何して大罪人になったんだよ?」


 ぎゅう、と、自らの膝を抱き締めて、フレイは落とし込むように呟いた。


「――身内の事情よ」


「身内、ねえ」


 掠めるようにフレイを見たガイスの紫水晶の目に、ほんの僅かに同情が灯った。


 がば、とフレイが顔を上げ、ガイスを見た。そして、不貞腐れたように声を大きくする。


「――ていうか、なに? 急に詰問してくれちゃって。あなたこそ、いつから死んでるの? あと、あれ! 急に出て来た、あれ、どういうことよ?」


 唐突に、振り切ったように元気になったフレイの声に、ガイスはひらひらと手を振った。


「いつから死んでるかなんて覚えてねーよ。殺されたときのことぁはっきり覚えてるけどな、そこから何年経ったかなんて、いちいち数えてねーっつの」


 むう、と顔を顰めたフレイに少し笑って、ガイスは外套の襟をちょい、と引っ張った。


「急に出て来たあれ――ってのは、こいつのお蔭だな。俺はずっとおまえの近くにいたんだけど」


「……どういうこと?」


 眉を寄せるフレイに、ガイスはぱちんと指を鳴らしてみせた。


「おまえさー、常識持とうぜ? 変に思わねーの?

 幽霊が! 普通にこうしておまえと話したり、物に触れたり、あまつさえ食事したりしてんだぜ?」


 あ、と口を開けて、フレイは指先で口を押さえた。


「確かに……」


「だろ? ――そこで、だ」


 ぱっと立ち上がり、ガイスは仰々しい仕草で外套を脱ぎ捨てた。


 ――途端に彼の姿が目の前から掻き消え、フレイは絶句して立ち上がる。


「え? え? え?」


 その足許に投げ出される外套。


 反射的にそれを拾い上げた彼女の手から、ふわ、と外套が浮き上がり、あのときと同じ動きで翻った。


 しゅる、と外套の袖を腕が潜り、立ち現れるのはしたり顔のガイス。


「――どういうこと?」


 ぽかん、と呟いたフレイに、ガイスは再び階段に座り込みつつ。


「察しが悪いな。――この外套は呪具だ」


「へええええ!」


 思わずといった様子でガイスの傍に膝を突き、外套に触れるフレイ。


「これが呪具――あのすっごくお高価(たか)い……初めて見たぁ……」


「そうそう、高級品だ。気安く触るな」


 ぐ、と身を捩ってフレイの手を離させると、ガイスは悠々と足を組んだ。


「この外套を着ている間だけ、俺は普通の人間と同じように、人の目に触れ、物に触れることが出来て、地に足を付けて歩けて、物を食える。

 外套を脱げば、誰にも見えない、声も聞こえない、物は素通り、浮きながら移動――これぞ幽霊」


 両手を広げてお道化てから、ガイスは外套の襟を立てた。


「衣服については、呪いにとってはこれごと俺認定らしい。透けるときはこれごと透ける。まあ多分、死んだときの服そのまんまだからだろうけど。この呪具は、脱いで手に持っている間は一緒に見えなくなるが、一度でも手から離せば具現化する。――便利だろ?」


「便利ねぇ……」


 頷いて同意するフレイを横目に見て、ガイスは首を傾げた。


「おまえは?」


「へっ?」


 きょとんと翡翠色の目を瞠るフレイに、ガイスは苛立たしげに脚を組み直した。


「おまえの、不死鳥の呪いは? あのとき喋ったことが全部かよ?」


「まあ……大体?」


 首を傾げてそう言って、フレイはじっと両手を見下ろす。


「怪我は炎になって治る。あと、一回だけだけど餓死の経験もあるわ――全身が燃えて新しくなって、空腹は綺麗さっぱりなくなった。それまでが苦しかったけどね。あと、そうね、あたしの呪いの場合も、衣服ごとあたし認定されてるみたい。服が燃え落ちたことはないわね」


「なぁるほどねぇ……」


 顎を撫でて呟き、ガイスは勢いを付けて立ち上がった。


 それを眩しげに見上げ、フレイが小さく手を振る。


「――ありがとう、初めてのお役目で、色々と助かったわ」


「――なに言ってんの?」


 真顔で問い返され、フレイも真顔で目を瞬く。


「なにって――お礼だけど」


「そんなのはもっと後に言えよ」


 そう言って階段を二段下り、ガイスはフレイを振り返った。


「ほら、行くぞ?」


「……はい?」


 額を押さえ、フレイは理解に苦しむといった声を出した。


「あの……協力して当たるようにというお役目は、さっき終わったけれど」


「だから?」


 首を傾げて、ガイスはフレイに手を伸べた。


「お役目も、呪罪人の現在地くらいは考慮して振られることになってるさ。それに、別に解散しろなんて命令は出てねーじゃん」


 フレイはぱちくりと金色の睫毛を瞬かせる。


「はあ……」


「なあ、おまえさあ」


 ガイスはフレイに向き直り、腕を組んだ。


 ガイスの影にすっぽりと収まったフレイは、なおも訝しげに瞬き。


「餓死の経験もあって? 路銀はさっき貰ったちょぴりだけで? 死にはしねーけど超絶苦しむ呪いだけが武器で?

 ――よく一人旅なんて発想に至るな」


「う……」


 思い当たる節が山程あったのか、冷や汗を浮かべて目を逸らすフレイ。


 はあ、と息を吐いて、ガイスは腰を折ってフレイの顔を覗き込んだ。


「別に珍しいことじゃねーよ。呪罪人は呪罪人しか頼れない。最初のうちは他の呪罪人と一緒にいて、どう振る舞うべきか学ぶんだ。――俺と来い」


 背筋を伸ばし、もう一度フレイに手を伸べて、ガイスが言い切った。


「少なくとも、罪人相手に足震わせてるようじゃ、おまえは一人でお役目なんてこなせねーよ。しばらくは教えてやるから」


「――なんっ……!」


 咄嗟に反駁しようとして、しかし反駁の言葉が見付からず、フレイはぐしゃ、と前髪を掴んだ。


 それから、おずおずとガイスの掌に向かって指を伸ばす。


「……はい、あの――お世話になります……」


 フレイの指先が、そっとガイスの掌に載せられた。


「素直で結構」


 ふふん、と胸を張ったガイスは、勢いを付けてフレイを引っ張り起こすと、曲がりくねりながら延々と下に向かって続く階段を一瞥して、


「てかさあ、おまえをここから突き落とせば、火達磨にはなるけど無事に下まで着くわけだ?」


 さっとガイスから距離を取り、フレイは自分の肩を抱いた。


「――痛いんだってば!」



 ガイスの大爆笑が、遥か上空の天穹蓋まで届かんばかりに響き渡った。











 ――これが、死後生の呪いの呪罪人と不死鳥の呪いの呪罪人の、邂逅の一幕である。















長編のつもりで書き始め、知人に読ませたところ「ギャグっぽいね」と言われ筆を折った作品。

勿体ないので載せてみました。



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