コンビニエンスホテル7
地震の揺れは、長くて数分でおさまるけれど、ポルターガイストとなると、そうはいきません。
エネルギーが全部放出されるまで、続きます。
ようやくおさまってきたので、恐々と、シーツを被ったまま、辺りを見ると、亀裂の入っていた玄関の自動ドアのガラスは、綺麗に無くなっていた。
辺りは、薄明るくなっている。
どうやら、夜が明け始めたようだ。
余震は、まだ続いているが、こんなクソホテルから逃げるのは、今しかない。
そう思って、ガラスが無くなったドアから、颯爽と脱出しようとしたが、うまく足が立たない。
ようやく立っても、千鳥足だ。
後のことも考えて、もう少し飲むのを控えるべきだったか・・・
ガラスの破片が散乱しているので、匍匐前進は、無理。
何とか、転んで怪我をしないように、ヨチヨチと歩いて、よっこらしょ、と何度もフラフラと行ったり来たりしながら、ようやく、ガラスの無くなったドアから、外に出て、そこから、ヨロヨロヨロと、階段を転げ落ちるようにして、下まで歩いた。
ようやく、下に辿り着いたとたん、「このバカ」と誰かに、頭をゴツンと殴られた。
ウヘヘヘ、と笑う。
酔っているから、全然痛くもないし、腹も立たない。
『春子ちゃんは、嘘つき』と人形が、言った。
エレベーターの中で、『逆立ちウンコ』を強要したバカ人形だ。
「人形」と言って、人形を抱くと、ヘナヘナと腰がくだけて、地面に座ってしまった。
「ほら。
おぶされ」と隆さんが、背中を出した。
「恥ずかしいれすよー」
「そんなところに座っている方が、よっぽど恥ずかしい」
「そうれすかねー。
そんなことないれすよー」
と頭はハッキリしているつもりなのに、口調が私を裏切っている。
やだなあ、恥ずかしいなあ、と思いながら、隆さんの背中におぶさろうとしたら、身体が逆九十度に折れ曲がって、ブリッジの体勢になってしまった。
「ヘッド・ブリッジ」と私は、言った。
得意そうに言ったつもりだったが、悲しい口調になってしまった。
「バカ、何をこんな時に、ブリッジなんかやっている」と隆さんには、怒られる。
別に、やりたくてやっているわけではない。
酔って、身体の自由がきかないだけだ。
「ええい、もう、世話の焼けるヤツだ」とだっこされてしまった。
おんぶよりも、数倍恥ずかしい。
「恥ずかしがっている場合じゃないだろう」と勝手に考えを読まないでください、こんな時に。
「どれだけ飲んだ。
酒臭い」とまで言われてしまった。
「ほんのちょっとれすよー」
「お前の、ほんのちょっとは、一升か」
「まさか、そんなアホな」
アハハハハ、と笑ったけれど、トータルで一升以上いっているのは確実だ。
「本当に、ひどいホテルなんれすよー。
ほら、あのホテル・・・」
「どこに、ホテルなんかある」と隆さんが言った。
だっこされたまま、ホテルのあったと思える方角を見たが、一面の畑と田圃で、他には何も無かった。
割れたガラスのドアもなければ、ホテルそのものもない。
「あれー?
おかしいなあ」
「おかしいのは、お前だ。
今まで、一体、どこに迷い込んでいたんだ」
フアアア、と私は、あくびをした。
隆さんの腕の中で揺られていると、何だか眠くなってきた。
「寝ずに、朝まで飲み続けか」
「そんなわけれは、ふにゃあ、ないんれすが・・・」と眠ってしまった。
目が覚めると、ベッドの中だった。
ガバッと飛び起きる。
服を着たままだ。
辺りを見回す。
誰もいないので、ホッとする。
寝心地のいいベッドだったらしい。
熟睡してしまった。
しかし、ここはどこ?
起き出して、窓のカーテンを開ける。
まぶしい。
この光りは、昼の光り。
部屋中を歩いて回る。
どうやら、ホテルの部屋のようだ。
『まるとくホテル』とは、大変な違いだ。
壁紙が高価そうだ。
どこにも埃はない。
布団カバーも光るような白さ。
しかし、部屋の間取りは、あの303号室に似ている。
ベッドがあって、鏡があって、トイレとドアの位置も同じだ。
同じ場所に、冷蔵庫がある。
中を開けると、ビールとか酒・ジュース・お茶が、ギッシリ入っていた。
机の上に、メモがある。
この字は、息子の字だ。
『電車で、あちこち行ってきます』
冷たい息子だ。
母よりも、青春十八切符の消化の方が大事なのか。
コッコッコ、とドアにノックの音が聞こえた。
昨日の余波か、身体がビクッとする。
「明子さん?」という声が聞こえて、ホッとした。
ドアを開けると、白のスーツを、半袖Tシャツとパンツに着替えた範子さんが立っていた。
「範子さん」と思わず、抱きついてしまった。
私が心配で、あの連中の旅行に同行せずに、残っていてくれたのだ。
「私は、皆と一緒に行きたかったのに、兄が残ってやれて、言うのよ。
ひどいと思わない?」
ひどいのは、範子さん、あんたです。
「明子さんたら、どこかで一晩中、それも、朝まで飲んでたんですって?
皆で心配してたのに」
そう言われると、そういうことになってしまうかもしれない。
「でも、ここは、いいホテルね。
ジェット風呂は入り放題やし、食事も豪華やし、ディナーなんか、ワイン飲み放題やったのよ」とどこかで聞いたような話だ。
そのとたん、『まるとくホテル』と書かれた、ホテル案内を見つけて、ギョッとした。
「範子さん、ここは、『まるとくホテル』?」
「当たり前やない。
明子さんが、オーナーから、たくさんの無料宿泊券や、お食事券をもらってきたじゃない」
「ま、まさか、ここは、303号室?」
「そう。301、302、303、305、306と一人一部屋よ。
304は、ないのね。
4て、不吉な数てこと?」
ああ、また、頭が混乱してきた。
じゃあ、私が泊まっていた『まるとくホテル』の303号室、フロントの田鋤原さん、あの女の人、電気系統の故障・・・
あれは、全部、何やったの?
あの『超豪華』ディナーとサケワインは?
朝まで飲んだアルコールが、急に回ってきたような気がした。
「兄達は、朝から鳥羽まで行って、また戻って来て、今度は、和歌山の方に向かって、行けるところまで行って、戻って来るらしいわ」
兄達って、隆さんは、朝まで、私をあのホテルの外で待っていたんじゃあ・・・
「あの・・・隆さんは、寝ていないんじゃ」
「大丈夫、大丈夫。
兄は、寝なくても、平気な人だから。
その代わり、とんでもない時に、寝てしまったりするけど」
そ、それは、私も知っている。
そうか。
寝なくても、大丈夫な人だったのか。
そうだった。
化け物並みの体力の持ち主だったっけ。
「けど、二人で、朝帰りだなんて」ウフフフと、範子さんは、意味深な笑みをもらした。
「しかも、お兄さんに、抱いて帰ってもらうなんて」
カッと顔が熱くなった。
そうだった。
酔ってはいても、頭はハッキリしていた。
う、恥ずかしい。
おんぶしようとして、ブリッジしてしまい、元に戻らなくなって、抱いて帰ってもらった。
その上、そのまま寝てしまったのだ。
「明子さん、顔が赤い。
何があったか、白状したら?」
その瞬間、様々なことばが、頭の中を縦横無尽に駆け巡ったが、到底、説明しても信じてはもらえまい。
「ベロベロに酔ってしまって、隆さんに連れて帰ってもらって、ああ、恥ずかしい」
ま、嘘は、一つも言っていない。
「オーナーのことは、どうするつもり?」
「張り倒す」と私は、言った。
「え、オーナーに、何か変なことでもされた?」
「うーん」どう説明すればいいのか。
「孫ぐらいの歳の女の子に、プロポーズしたみたい」
「え!
いやがる女の子に?」
そう言われれば、あの女の人は、いやがっていなかった。
むしろ、喜んでいた。
「うーん。
いやがってないみたい」
「なーんだ。
それやったら、明子さんの嫉妬?」
私の嫉妬?
どこをどうつつけば、そんな考えが出る。
「だって、夫婦同然なんでしょ?」
「あのね、言うときますけど、私とオーナーは、仕事だけの付き合い。
春樹に変なこと、言わんといてね」
息子の名前が出ると、今度は、範子さんが、ポッと頬を染めた。
「私、春行、いえ、春樹さんと一緒に旅行できるなんて、夢みたいで、今日だって、本当に楽しみにしてたのに」
あ、そう。
悪かったですね、お邪魔虫で。
「だって、明子さんがいなくなったて、本当に、皆で心配したのよ。
あちこち探したりして。
それやのに、どこかで、朝まで飲んでるなんて」
そうか。
皆に、凄く心配かけたわけだ。
「父なんか、『春子ちゃん、春子ちゃん』て、ずっと泣いてたんやから」
お爺ちゃん、ごめんね。
「兄と春樹さんは、顔色を変えて、あちこち探したみたいよ。
何で、人形を持って行ったのかは、知らないけど。
ま、あの二人は、人形オタクやから」
そうか。
心配してくれたんだ。
ま、その心配以上に、怖い目には会ったけれど。
「ねえ、ねえ、一緒にジェット風呂に入りに行こう」と範子さん。
「まだ、食事には時間があるし」
そう言われて、昨日も一昨日も、入浴はおろかシャワーも浴びていないことを思い出した。
昨日の朝から、服も着替えていない。
「うん」と答えた。
入浴準備をして、やはりやはりの一階にエレベーターで降りる。
エレベーターの中には、『超豪華ジェット風呂 一階』というパネルが貼ってあった。
一階に着くと、真っ赤な矢印と『超豪華ジェット風呂』の表示が。
まさか、『ゆ』というのれんは、かかっていないだろうな、と思ったら、紺色ののれんに、『ゆ』と書いてある。
やっぱり、『まるとくホテル』なのだろうか。
眩しいぐらいに明るい脱衣所。
しかし、私は、油断なく辺りを見回した。
が、不審な気配は、何もない。
着ていたTシャツやパンツが臭い。
硫黄の匂いやら、埃や汗の匂いやらが染み着いている。
「来て、来て、明子さん」と言われて、ガラガラッと引き戸を開けると、中は、広大な浴場になっていた。
あの『まるとくホテル』の浴場は、見る機会がなかったので比べようもないが、とにかく広い。
浴槽につかって、おお!と思った。
へえ、これが、ジェット風呂か。
湯の中をジェット噴射のように、様々な流れが、錯綜している。
ある流れは、肩に当たり、ある流れは、腰に当たる。
「ここって、エッチな流れ」と範子さんが、嬉しそうに言った。
そう。
息子の登場、つまりは、初恋の人『春行』の生まれ替わりが登場して以来、少なくとも十才は若返り、非常に色っぽくなった範子さんだった。
母としては、それも、心配の種だ。
「範子さんて、スタイルいい」と私。
「何言ってんの。
明子さんこそ、ナイスボディ」と虚しく女同士で褒め合う。
「最近、週に三回は、フィットネスに通ってる」と範子さん。
毎日スーパーで扱き使われて、私の出っぱったおなかも、少しは引っ込んだけど、そうか、範子さんは、美しくなる努力をしてるんだ。
「ねえ、ねえ。
お兄さんとオーナーと、どっちが本命?
けど、オーナーが、若い女にポロポーズしたんなら、オーナーとは、前途多難やね」と範子さんの話題は、最近、色恋系ばかり。
「兄は、あの通りの変人やけど、昨日のあの心配のしようは、普通やないわよ」
ま、普通じゃない状況だったのは、多分、人形情報で知ってるだろうから。
「兄の肩を持つわけやないけど、私は、オーナーより、兄を勧めるなあ」
あんたが勧めても、それは、仕方のない世界。
私以外の誰だって、同じ状況に陥れば、隆さんは同じように心配したはず。
「それに、兄は・・・」と範子さんは、ことばを切った。
な、何なんですか、その思わせぶりな間は。
「明子さんが来て以来、『春子がこう言った』『春子がこうした』と言っては、よく笑うようになったの。
本当に、兄が、華さんと人形以外に興味を持つのは、珍しいのよ」
それと、『念』と『霊』ね、と私は、心の中で付け加えた。
「それに・・・兄は、明子さんが、自分に惚れてると思い込んでるみたいやし」
ガーン。
確かに、最初に会った時、その美貌に目を奪われてしまったことは、否定しません。
胸がドキドキしたことも、確か。
けど、それ以後、あの性格の悪さを知って以来、うーん、五十七にして、三十代にしか見えない、化け物並みの若さと体力と美貌は認めるけど・・・
「ま、オーナーのことだけじゃなく、兄のことも、時々考えてやってね」
そうか。
今まで知らなかったけど、範子さんは、お兄さん思いだったのだ。
てなことを話しているうちに、何だかのぼせてしまった。
「範子さん、私、のぼせたみたい」
「じゃ、あがって、お酒でも飲もうか」と飲み友達。
「よーし」と言ったけれど、この二日間の飲み過ぎで、かなり肝臓が弱っているのは、自分でも認める。
「ねえ、ねえ。このホテルって、外国のホテルと違って、寝まきでウロウロ歩いてもいいみたいよ」と外国のホテルを知らない私に、範子さんは言った。
「へえ」とホテルの寝まきに着替える範子さんと違って、私は、脱いだのと同じような、Tシャツにパンツ姿。
けど、ああ、サッパリした。
その時、私は、脱衣所の鏡の前に座っている、髪の長い女の人を発見して、思わず、心臓が止まりそうになった。
鏡を見ると、きちんと姿が写っていたので、ホッとするが、恐怖感は残る。
いや、いや、あれは、他の『まるとくホテル』の話。
この『まるとくホテル』とは、一切関係がない、と思おうとするが、のぼせたはずの身体が冷えるほど、何だか怖い。
「明子さん、何か、顔色が悪い」とカンの鈍いはずの範子さんにも言われてしまう。
「のぼせたからかなあ」と言うが、不安は、ドンドン強くなっていく。
「お酒でも飲んだら、治るって」
「そうかな」本当に、そうかな。
あ、来る、と思ったとたん、パシーン、という音がして、あの明るかった脱衣所の電気が、全部消えた。
またも真っ暗闇だ。
「キャア」と範子さんの悲鳴が聞こえる。
「範子さん、どこ?」とたずねる私の肩に、よく知っている手の感触が蘇る。
『忘れてないでしょうね、私との約束を』
むきだしの私の腕に、長い髪の触れる感触がする。
「約束は守るから、こんなことは、二度としないで。
他の人達まで巻き込まないで」
『あなたが、私と二人で大阪に行けば、こんなことにはならなかったのに』
「わかった」と私は、言った。
「二人で、大阪に行こう」
その瞬間、冷気が消え、パチパチパチと蛍光灯がついた。
「大丈夫ですか」
「怪我はありませんか」と言うホテルの人達の声が聞こえてきた。
『約束しましたよ』という声が、頭の中に響いた。
『ただし、明日。
私は、しなければならない仕事があるから』と通じるかどうかわからないけれど、頭の中で考えた。
「ああ、ビックリした」と範子さんが言った。
「けど、明子さん、誰と話していたの?」
「幽霊」と答えたけれど、「もう、明子さんたら」と冗談に取られてしまった。
「お兄さん達は、いつになるかわからないから、二人で先にディナーに行きましょう」
場所的には、例の『まるとくホテル』と同じ場所に、レストランがあったけれど、入口は引き戸ではなく、両開きのドアになっていて、中は、広いレストランだ。
「朝と同じ食べ放題なんだけど、夜は、ステーキやローストビーフもあるの」
「え、それで、七百円?」と私は、たずねた。
「何言ってんの。
お食事券のお蔭で無料やけど、実際に食べたら、一万二千円もするのよ」
ゲエ。
一万二千円のお食事が、タダ。
普段は食べられない、ステーキにローストビーフを皿に山盛りにして、食べたことの無いものを恐々と別皿に取る。
席に戻ると、蝶ネクタイをしたウエイターが、ワイングラスとワインを持って来た。