コンビニエンスホテル5
「あんた、間違ったことで来てますよ」と言われてしまった。
「そうみたいですね」と言うしかない。
「じゃあ、私は、まだすることがありますんで、これで」と去って行かれてしまった。
まあ、いいか。
まだ、日はある。
おなかがすいていたので、超豪華ディナーをアッという間に食べ尽くし、昔、近所の食堂で見たような安っぽいガラスのコップに、サケワインを注いで飲んだ。
いくら飲み放題と言っても、一人で一升は飲めません。
「あのう」とレストラン(食堂?)の女の人に聞いてみた。
「他の人達は、もう食べました?」
「はい」という簡潔な返事。
やっぱり。
一升瓶に半分も、アッという間に、サケワインを飲めば、かなり出来上がっている。
まあ、息子が一緒なら、「お母さん、いい加減にしときや」ときつく言われるところだ。
鬼のいない間の命の洗濯。
まあ、有給休暇、有給休暇。
しかも、休暇分の七万プラス十万円も前払い。
ウッフッフッフ、と一人で不気味に笑っていると、「閉店です」と冷たく言われてしまった。
フロントで、せめて、あいつらの部屋を聞こうと思えば、フロントまで暗くなっていて、田鋤原さんも、あの別の男の人もいない。
何というホテルだ!
ま、部屋に戻って、手当たり次第に電話でもかけるか。
エレベーターで、1階下へ。
エレベーターの前が、303号室。
あれ?
部屋が無い。
私、酔っている?
うーん。
酔っているかもしれない。
しかし、おかしいな。
303号室は、一体どこに消えた?
まあ、こういう場合、大抵は、隣の部屋とかを続きで借りているはず。
ドンドンドンと302号室、301号室、305号室と思える辺りを叩いて回ったけれど、どの部屋からも応答なし。
何でや?
そうか。
皆で、二十四時間営業のジェット風呂に入ってるんや。
しかし、ジェット風呂って、一体、どこにある?
まあ、とにかく、もう一度エレベーターに乗った。
『超豪華ジェット風呂 一階』というセピア色になった紙が、エレベーターの壁に貼ってあった。
そうか。
一階か。
一階と言えば、私が入って来た場所。
四方を壁で囲まれた要塞みたいなエレベーターがあったきりだと思ったが。
もしかすると、露天風呂?
ゲ。
男女混浴?
エレベーターで一階に降りると、元は赤かったんだろうけど、今ではオレンジ色に脱色している矢印があった。
『超豪華ジェット風呂』と矢印の横に書いてある。
そうか。
壁型エレベーターと普通のエレベーターとは違うのだ。
フロントの前にある、普通のエレベーターがジェット風呂に通じている。
あのオーナーのホテルらしい、ややこしい造りになっているようだ。
たった一つ灯っている『非常口』の明かりを頼りに、矢印の方向に進んでいくと、『ゆ』と書かれた、脱色した紺色ののれんがかかっていた。
『ゆ』か。
おそるおそる引き戸をガラガラッと開けると、中は真っ暗。
節電か。
オーナーのホテルらしい。
手探りで、電気のスイッチを探していると、誰かに肩を触られたような気がして、ギョッとして、辺りを見たが、当然真っ暗。
常備灯ぐらい灯しておいてよ、オーナー。
または、田鋤原さん。
壁を手探りで探っているうちに、何だか怖くなってきた。
何かわけのわからない場所を手探りで進んでいるような気分だ。
もしかすると、同じところをグルグル回っているだけ?
そう思っていると、ポウッとした明かりが微かに見えた気がした。
地獄に仏、真っ暗闇に明かり。
その方角に行くと、女の人が一人、向こうを向いて、髪をとかしていた。
腰を通り越して、膝まで届きそうな長い髪だ。
何と、女の人の横に、小さな蝋燭が立っている。
微かな明かりは、この蝋燭の明かりだったのだ。
「ああ、よかった。
他にも人がいて」と私は、言った。
「また、お会いしましたね」と女の人が向こうを向いたままで言った。
ああ、そうか。
ホテルの前まで車に乗せて行ってくれた女の人だ。
私達以外にも、このホテルに泊まり客がいたわけだ。
よかった、よかった。
長い髪だとは思っていたけれど、こんなに長いとは思わなかった。
「綺麗な髪ですねえ」と私は、しみじみと豊かな黒髪を見ていた。
「放っておいたら、こんなに延びてしまって」と女の人は、髪をとかし続けている。
「あのう・・・
停電ですか?」と私は、たずねた。
「電気系統が故障したらしくて」という返事だった。
「ああ、そうなんですか。
で、(超豪華)ジェット風呂というのは、ここなんですか?」
「ええ」
「あの、まさか」
蝋燭の明かりで、風呂に入ったのでは・・・
私は、ちょっとイヤかもしれない。
「明かりを、お貸ししましょうか?」
「い、いえ。
(超豪華)ジェット風呂というのが、どんなものかと思っただけなんで。
そ、それと、他の客が、入っていませんでしたか?」
「いいえ」
「そうですか。
霧の中で、連れとはぐれてしまって。
もしかすると、お風呂に入っているかと思ったんですが」
「まあ、そうなんですか。
それは、お困りですね。
私も、霧の中で、連れとはぐれてしまいまして」
「ああ、そうなんですか。
本当に、濃い霧でしたもんね」と言いながら、車で来ていたくせに、どうやって、連れとはぐれたのだろうか、と考えていた。
「実は」と女の人が、私の方を振り向こうとしたはずみに、フッと蝋燭のか細い明かりが消えて、また、真っ暗になってしまった。
ギャア、と内心叫んでいる。
声に出したらもっと怖いので出さなかったけれど、恐怖感で息が詰まる。
「もしもし、そこにいるんですか?」と言ってみたが、返事はない。
スーハーと呼吸を整える。
手を延ばせば、あの長い髪に手が届きそうな気もするが、何となく、暗闇で髪の毛に触るのは、気が進まない。
「あのう、そこにいるんでしょう?」
怖さで、耳の周りの血管が、ドクドク言っている。
「お願いですから、返事をしてください」
突然、ソッと両肩に手が触れる感触がして、思わず、「ギャッ」と叫んでしまった。
「明かりが消えてしまいました」と女の人が言った。
そ、そんなことは、言われんでも、見てたらわかるわい。
この女、ほんまは、人を怖がらすのが趣味のイヤーなヤツ?
「お部屋にお伺いして、かまいません?」
「そ、そりゃあ、かまいませんけど」
本当は、あのこ汚い部屋に入られるのは、何となく気が進まない。
それに・・・私の部屋303号室は、現在行方不明になっている。
女の人に肩を抱かれた恰好で、何とか、風呂場の外の常備灯で薄明るい場所に出た。
内心、非常にホッとしたことは、言うまでもない。
エレベーターで、一緒に二階まで行くと、今度は、前と同じで、エレベーターの前に、303号室があった。
おかしいなあ。
さっきは、どっか階を間違えたのだろうか。
鍵、鍵と思って、自分の手を見ると、ちゃんと鍵を握っている。
ガチャッと鍵を開けて部屋に入り、電気の差し込み口に差し込むと、パアッと部屋が明るくなった。
「どうぞ」と後ろを振り返ると、女の人の姿がない。
あれ?
どこに行ったのだろうか、とドアの辺りをウロウロするが、どこにも姿が見えない。
ドアを閉めてから部屋を見ると、何となく、前より小奇麗になっているような気がする。
私のいない間に、ホテル側が、慌てて掃除でもしたのだろうか。
田鋤原さんの言っていた、しなければならないことって、これ?
ベッドカバーが綺麗になっているし、埃も積もっていない。
安っぽい壁紙は元のままだが、端から端まで磨いたような感じがある。
破れたところも無くなっているし、壁の亀裂も補修したようだ。
何という早業。
しかし、それだけの時間、食事と風呂場探索に時間を使っていたというわけだ。
ははーん、と私は、思った。
もしかすると、あの女の人は、実は、ホテルの回し者で、こうやって、ホテルが掃除の時間をかけるのを手助けしている?
どうやら、あんまり客の来ないホテルらしいし、別に予約を入れていたわけでもないから、ホテル側は大いに慌てた?
けれど、かなり冷房がきつい。
寒いぐらいだ。
冷房を緩めようと思って、エアコンを操作しようとすると、エアコン自体が、まだ作動していなかった。
部屋を出ると、つまり、電源のキーを抜くと、自動的に切れる仕組みになっているようだ。
ということは、夜は、クーラーなしでも寒いぐらいに涼しい、気温の低い地域なんだ。
うう、寒い。
しまった、あの一升瓶の残りを少しもらってくればよかった。
そうだ。
こういうホテルの冷蔵庫には、ちょっと高いけど、ビールとか酒が入っているはずだ、と思って、冷蔵庫を開けると、何も入っていなかった。
それどころか、電源も自分で入れないといけないようだ。
電気代超節約というわけか。
酔いも冷めかけていて・・・
しかし、日本酒を(二級だけど)五合も飲んだのに。
寝酒が欲しい。
それに、冷えるせいか、トイレに行きたくなってきた。
トイレの電気をつけて、ドアを開けると、あれ?
中は真っ暗だ。
電気をパチパチするが、どうやら電気が切れているらしい。
仕方がないなあ、と思って、ドアを大きく開けて、思わずギョッとした。
部屋の明かりが差し込んできて、髪の長い女の人が、洗面所で髪をとかしているのが見えた。
もうイヤ。この女。
一体、いつの間に中に入ったの。
けれど、そんな詮索よりも、トイレが先。
「あのう、すみません。
私、トイレを使いたいもので」
「どうぞ」とは言ったが、洗面所から動く気配はない。
「ええと。あのう、そこにいられると、トイレができないもので」と私の方は、段々と切羽詰まってきた。
「髪がもつれて、中々とけないもので」とのんびりした返事だ。
「後で、私が、といてあげます、約束します。
だから、あっちの部屋で待っていてください」
「わかりました」と女の人が言ったとたん、パシーンという音がして、部屋中の電気が消え、トイレに入ってきていた微かな明かりも無くなってしまった。
「真っ暗になってしまいました」と女の人。
そんなことは、言われんでもわかる。
「失礼します」と私。
もう真っ暗なんだから、どうでもいいわい、という気持ちになっている。
手探りで便器を探り当てると、何とか、下着を下ろして座ることができた。
はあ、もう少しで、もらしてしまうところだった。
水を流しながら用を足すと、少し気分が落ち着いて来た。
衣服を整え、手探りで洗面所を探すと、もう女の人は、向こうの部屋に行ったものか、そこにはいないようだった。
暗闇の中で用を足すのも変な感じだったが、手を洗うのも変な感じだ。
タオルを探しても無駄だろうから、仕方無く自分の着ているシャツで手を拭いた。
これは、もうフロントに電話でもかけて、何とかしてもらわないと、と思って、トイレから外に出ると、ほのかな明かりが・・・
またも、小さな蝋燭の明かりだ。
いつも蝋燭を常備しているのだろうか、この女の人は。
「電気系統の故障が多いのですよ、このホテルは」と言いながら、またも、部屋の中の鏡の前で、髪の毛をとかしている。
「ちょっと、先に、フロントに電話しますね」と言うと、フッという笑い声を聞いたような気がするが、私の気のせいか。
受話器を取って、フロントと書かれている番号を押すが、ウンでもなければスンでもない。
ツーツーツーという音も聞こえない。
全くの無音だ。
「電話もよく故障するのです」と女の人が、向こうを向いたままで言った。
「そうですか」
このクソホテル!
「髪をとかしてくださいますか?」
「え?ああ、そうですね。
約束でしたね」と言って、私は、女の人から櫛を受け取ると、髪を梳き始めた。
少しとかして驚いた。
髪が長いせいか、手に数十本の抜け毛が残る。
薄暗い中で、足下を見ると、抜けた髪の毛が何百本も床に散乱している。
「髪だけが自慢だったのに、どんどん抜けてしまって」と女の人が悲しそうに言った。
確か、車で見た時は、とても美しい人だった。
髪だけが自慢なんて、厭味な謙遜だ。
「確かに美しい髪ですけど、お顔だって」
とても美しいと言おうと思って、鏡の中を見たが、そのお顔が無かった。
「・・・車で拝見しましたけど、とてもお綺麗で」
胸がドキドキして破裂しそうになった。
お顔だけでなく、鏡の中には、お姿も・・・
無い。
首筋の血管がズキンズキンしてきた。
では、私が、髪をとかしている、この人は、一体、何者?
アカン、アカン。
このままでは、脳の血管が破れてしまう。
深呼吸、深呼吸。
スーハー、スーハー。
鏡に写らないということは、吸血鬼?
または、この世の人ではない人?
「とても、お見せできるような顔ではないので。
でも、あなたが見たいのなら」とこっちを向こうとする。
「いえ、いえ。
大丈夫です。
人の顔を見たがるような趣味はありません」と必死で抵抗。
蝋燭の明かりでは、綺麗な人ほど怖い顔に見えるに違いない。
鏡に唯一写っている私の顔だって、相当怖い顔をしている。
自分の顔だから、諦められるだけで。
手は、自動的に髪をとかし続けているが、この抜け毛の量は、異常だ。
それでも、豊かな髪のせいか、はげてきたりする気配がないのが救いだ。
「あのう、変なことを聞くようですけど、あなたは、実は亡くなっている?」
「いいえ」と言われて、ホッとしようとしたが、まあ、自分では知らない場合もあることを思い出した。
「大阪から来られたんですよね」
「え?
はい」
「大阪に連れて行ってくださいませんか?」
「は、はあ」どう言えばいいんだ。
「行きたいけれど、一人では行けないのです」
「そうなんですか」
「この町から出たことがありませんので、どう行けばいいのかわからないのです」
「そうですか」
町と言ってたけど、ここは村だろう。
若い身空で、しかも、東京アクセントからして、親は関東人?
こんな村に閉じ籠もって暮らしていれば、都会に出たいのも無理はない。
「でも、ご両親とかが、心配なさるのでは?」
「あんなものは、親ではありません!」と大層な剣幕だ。
「連れて行ってあげるのは、かまいませんが、けど、一応、ご両親には知らせておいた方がいいのでは?」
「本当に、連れて行ってくださるんですか?」と非常に喜んでいるが、私の話も少しは聞けよ、この女。
「ありがとう」と言って、私の方を振り向こうとした時に、またも、蝋燭の炎が、フッと消えた。
またも、真っ暗闇だ。
もういい。
もうどうでもいから寝てしまおう、と手探りで、ベッドのあった方向に進む。
そのとたんに、ジリジリジリーン、という電話のベルの音がした。
当然、心臓が止まりそうになる私。
電話は不通だったんじゃあ、と考える間もなく、音のする方角に、手探りで進む。
その途中で、ベッドも発見。
ベッドの上から、音の方角に進むと、ようやく電話に辿り着いた。
「春子、どこにいる」と隆さんだ。
隆さんの声を聞いて、何となくホッとするから、おかしなものだ。
いつもは、バカにしていた、念で電話をかける習性に感謝したりする。
「まるとくホテルの303号室って、言うたでしょう」
「それは聞いた。
大丈夫か?」
「何とか」
「すぐ、そのホテルの外に出ろ」
「んなこと言ったって、ここ、真っ暗なんですよね」
「外で待ってる」
「いや、私は」もう寝ます、と言おうとしたら、電話は切れて、シーンとしている。
念で電話をかけて不便なところは、長い間はかけられないというところだ。
しっかし、何時だか知らないけれど、多分真夜中過ぎ。
こんな時間に、真っ暗な中をウロウロする方が、よっぽど怖い。
暗闇の中、苦労してベッドカバーを外し、枕と掛け布団の間に、身体をすべりこませる。
ほらね。
目を閉じたら、真っ暗だって感じない。
ここで、グウッと寝たら、極楽、極楽。
グウッと身体を延ばしたとたんに、『外で待ってる』と言った、隆さんのことばを思い出してしまった。
はあ、と溜め息をつく。
あのバカ隆は、きっと、一晩中、外で待っているかもしれない。
もしかすると、息子も?