コンビニエンスホテル4
恐る恐る中に入って見るが、一人で笑っている爺さんしかいない。
「お祖父ちゃん、アカンて」と息子。
何がアカンのか、私にはわからないが、もしかすると、見えない人と話していたのかもしれない。
「しょうがないな。
歩いて行くか。
タクシーはないみたいやし」と息子は、かなり疲れた顔をしている。
どうせ、テレパシーか何かで、タクシーを呼ぼうとしたんやろ、と私は推測する。
何が何かわからない地図を頼りに、テクテクと山道を歩いていく。
あー、しんど。
こういう時、自分の歳を感じる。
と思っていると、息子も爺さんも、疲れ知らずに、グングンと山道を歩いている。
私は、爺さんより歳?
「あ、あった」という息子の声。
上の方を見ると、ホテルらしき建物が見える。
あったて言うたかて、まだ、もっと山の上やないの、と思っているうちに、薄く霧が立ち込めてきた。
つい今さっき見えたホテルが、霧に隠されていく。
もう、なーんか行く前から、いやーな気分。
「春子」という声が、すぐ近くで聞こえて、ギョッとする。
「ああ、隆さん」と息子のホッとした声。
一体、どこから現れたのか、猫みたいに足音を立てないこの男。
けど、私も、息子じゃないけど、何となくホッとするから、不思議なものだ。
「春行、走るぞ」と隆さん。
え?
今、何と?
走る?
え?
この山道を?
冗談言わないでよ、隆さん、と思っていると、即走り出した息子に続いて、爺さんまでもが、軽やかに走り出した。
ゲエ、信じられない健脚ぞろい。
茫然としていると、全員、霧の中に消えて行ってしまった。
「ま、待って」と私も走り始めるが、辺りに立て込めた霧で、方角がわからない。
それどころか、少し走ると息切れが。
あーあ、一体どうすればいいんだ、とトボトボとあてもなく歩いている。
まあ、山の上の方にホテルは見えていた。
とにかく、登って行けば、いつか辿り着くだろう。
霧って冷たいのね、と思う。
小雨よりも細かい水滴が、私の周囲で渦を巻いている。
いつの間にか、顔はビショビショ。
手も足も濡れてしまっている。
昨日の飲み過ぎが、今頃たたってきたのか、全身の倦怠感に加えて、脱力感が。
もう、どうでもいい気分。
足も、何だかバカになってきた。
その時、遠くから、車のクラクションの音がした。
幻聴か?
霧の中から、黒い車が現れて、「乗って」という声がした。
私は、黒い車に乗った。
足は相変わらずのバカ。
頭までバカになったみたいだ。
「道に迷ったのですか?」という声が聞こえてきた。
え!
と思って、隣を見ると、色の白い、髪の長い女の人が座っていた。
こういう時の常として、ソッと女の人の足下を見たが、キチンと足はあった。
「はい」という自分の声が、どこか遠くから聞こえてくる気がする。
「どちらへ?」
「はい、ええと、ホテルまで」と言ってから、ホテルの名前を知らないことに気がついた。
「この辺りでホテルというと、『まるとくホテル』ですか?」
「そうです!」と思わず言った。
ホテルの名前を聞いていなかったけれど、あのオーナーのホテルなら、絶対に、『まるとくホテル』だ!
「私も同じホテルに行くところなのです。
偶然ですね」
「はあ、偶然ですね」と私の頭は、正常に作動していない模様。
「歩いて行くおつもりでした?」
「は、はあ」
化け物みたいな連中と一緒だったもんで。
「歩くには、遠すぎます」
「そ、そうなんですか?」
「ええ、遠すぎるのです」
このアクセントは、東京アクセント。
地元の人じゃないな、と初めて気がついた。
当然、大阪人ではない。
「ずっと昔、歩いて行こうとして、道に迷ったことがありました」
「はあ、そうなんですか」
悪いと思ったけれど、失礼にならない程度に、ジロジロと相手の顔を見た。
『ずっと昔』って、一体、いつのことだろう、と思いながら。
歳の頃なら、どう見ても、二十代前半。
二十代の『ずっと昔』って、子供の頃?
または、五十になっても、二十代に見えたりする化け物系?
「霧が出ると、もう方角なんかわからなくなります」
「そうですよね、本当に、そうですよね」
この時、蛍光灯気味に、私一人を置き去りにした連中に対して、ムカムカッと腹が立った。
爺さんと私を、見知らぬ駅に置き去りにしたのは、息子が弁当持参で待っていたから、まあ、いいとして。
こんな山道、しかも霧で視界のきかない道で、置き去りにするなんて、あいつら、人間じゃねえ。
「もうじき、着きます」と言われて、鬼のように怒っていたのが内心、少し恥ずかしくなった。
「本当に、助かりました」
「同じ目的地じゃないですか」
「けど、あのままやったら、どうなっていたか・・・」
フフフ、と笑われて、まさか、今までの考えすべて読まれていたんでは、という不安がわいた。
隆さんにも、息子にも、私は考えが浅すぎて、思考がザアザアと流れ落ちている、と言われ続けている後遺症だろう。
「大阪の方なんですね」
「はあ。
そうですけど」
「私、行ったことがないので、一度行ってみたいと思っていたのです」
「是非、来てください。
お礼と言うたら何ですけど、家は広いから、是非、泊まってください」
「ありがとうございます。
さ、着きましたよ」
私を降ろすと、車は、駐車場と書かれた方向に姿を消した。
あの女の人が戻って来るのでは、と思って待っていたけれど、十分待っても、二十分待っても戻っては来なかった。
まだ、霧は薄く垂れ込めている。
ホテルの前だというのはわかるけど、一体、どこから入ればいいんだ?
その辺りをウロウロして、入口を探したが、見つからない。
ホテルまで、ようやく辿り着いたというのに、中に入れない。
『隆さん、春樹、範子さん、爺ちゃん』と思ってみたが、テレパシーなんか使えない身の哀れさよ。
その時、小さな矢印が見え、『御用の方は、インタフォンを押してください』と書かれているのに、気がついた。
ホテルにインタフォン?
まあ、あのオーナーの作ったホテルなら、そういうこともあるかも。
しかし、天の助けだ。
インタフォンらしきものを押してみた。
ブオー、という象の鳴き声のような、予想に反する音がして、「はい」という無愛想な男の人の声が聞こえてきた。
「あのう、このホテルに来た者なんですが、どこから入っていいのかわからなくて」
「お車ですか?」
まあ、ここまで、お車では来たけど。
「いえ、徒歩です」と答えた。
「ドアを開けますので、少々お待ちください」
再び、ブオーという音。
ギギガガガ、という音がして、壁のように見えていた部分が、ゴゴゴゴという音と共に開いた。
冗談でしょ。
何で、こんな秘密基地みたいな作りにするわけ?
と思ったが、ま、あのオーナーのホテルなら、ありかも、と考え直した。
壁のように見えていた部分は、私が入ると、再び、ゴゴゴゴという音と共に閉じた。
どう見ても、壁にしか見えない。
ここは、ホテルなんかじゃないんでは、と私は思った。
私が入ったところは、四角い何も無い場所で、四方は壁ばかり。
何となく、大変なところに閉じ込められてしまった気分だ。
ピー、という音が聞こえると、「エレベーターが作動します」という機械的な音声が聞こえてきた。
ギャア!
突然、壁に閉じ込められた空間が動き始めた。
私は、四角い部屋もろとも、上の方に移動している模様。
こ、これが、エレベーター・・・なのね。
またも、ゴゴゴゴと壁の一つが開き、私は飛び出した。
「いらっしゃいませ」という声が、聞こえて来た。
飛び出した場所の前方には、外の世界に通じている、きちんとした玄関があった。
声の方角を見ると、黒のスーツに蝶ネクタイ姿の、いかにもホテルマンという人物が、ニコニコと微笑んでいる。
きちんとしたフロントだ。
「お泊まりでございますか?」と言われて、私は、ガクガクと首を縦に振った。
「佐藤さまでいらっしゃいますか?」
「いいえ、違います」と言いかけて、隆さん一家の名前が『佐藤さま』だったということを思い出した。
「は、はい」
「お部屋は、二階の303号室になっております」とホテルのキーを渡された。
「エレベーターで、一階下に降りていただき・・・」と言われ、また、あの壁エレベーターに、と身構えたら、フロント前には、きちんとしたエレベーターがあった。
フラフラッとエレベーターに乗りかけて、「田鋤原さんは、いらっしゃいますか?」と口が、勝手にしゃべっていた。
「田鋤原は、私ですが」とフロント係。
ここで、疲労と理性と仕事と休暇が、格闘しあった。
まず、理性と仕事が出てきたが、休暇と疲労の方が勝った。
「また、後で、お話に伺います」と言ったまま、エレベーターに乗って、一階下に降りた。
303号室は、エレベーターのすぐ前だった。
鍵を開けて、中に入ると、暗いままだ。
ムッとするような熱気が。
でも、まあいい、もう疲れたから寝る、とベッドカバーも外さずに、私は、ベッドに倒れこんで、寝てしまった。
ジリリリリーン、ジリリリーン、という音が聞こえていた。
うーん、うるさい。
一体、何?
しばらくして、枕元の電話が鳴っているのに、気がついた。
あれー?
何で、こんなところに寝ているんだろう。
「はい」と寝惚けながら、電話に出た。
「春子か」と隆さんの声だ。
声が遠いので、また、念でかけているのかもしれない。
「今、どこにいる?」
「ええ?
まるとくホテル」と自分の居るところを思い出す。
「何号室だ」
「303」だと思う。
「どうやって行った」
「車で」
「タクシーか」
「ううん。
普通の黒い車」
「そこが、どの辺りか、わかるか?」
「何言うてんの、隆さん。
ちゃんと『佐藤さま』って言われたって」
「車で、どれぐらいかかったか、わかるか?」
「うーん、覚えてない」
「バカ」
「バカはないでしょ。
何言うてんの」と言っている途中で、ツーツーツーと、電話は切れた。
バカはどっちやの。
ホテルには、ちゃんと電話があるんやから、念なんかでかけずに、普通に電話したらいいのに。
けどまあ、少し休んだお蔭で、体力回復。
おなかもすいてきた。
フロントに電話して、他の『佐藤さま』の部屋を聞いてみよう。
ほんまに、金持ちのくせに、タダで泊まれるとなると、一人一部屋という贅沢もするんやからセコイわ。
一体、誰のお蔭?
年末年始の旅行みたいに、霧の中で野宿なんていうことになってたんやから、私がいなかったら。
しっかし、暗い部屋やなあ。
その上、暑い。
そっか、キーを電源かなんかに差し込まないと、エアコンも電気もつかないって、聞いたことがある。
フッフッフ、と私は笑った。
それを知らないために、沖縄で三日間、エアコンも電気もなしで、過ごした人の話を思い出したからだ。
常備灯みたいな、微かな明かりを頼りに、部屋の入口付近を探索。
あった。
多分、これが、電源だ。
キーを差し込むと、常備灯が消え、パアッと辺りが明るくなった。
すぐ近くに、エアコンのスイッチもある。
スイッチを入れると、微かに部屋の温度が下がっていく。
しかし、ブオオオーンという、うるさい音がするけれど。
私は、自分の持っていたバッグを握り締めた。
部屋が明るくなってみれば、何とも汚い部屋だ。
ウワッ!
こんなベッドに寝ていたのか、というほど、色褪せたベッドカバー。
叩くと、案の定、埃が舞った。
う、ゴホッ、ゴホッ。
部屋の壁には、ところどころ亀裂が入っていて、壁紙も色褪せて安っぽい上に、あちこちが破れている。
まあ、あのオーナーのホテルなら、仕方がないかも。
備えつけのテーブルにも、うっすらと埃が・・・
まあ、あのオーナーのスーパーも、そうだった。
テーブルの上には、色褪せたホテルの案内が。
『伊勢で最高のホテル』
『豪華ジェット風呂、二十四時間入り放題』
『最高級レストラン 午前七時から午後八時』
フッと、カバンにつけている時計を見ると、わあ、七時半だった。
超過酷な一日で、とってもおなかがすいている。
メニューを見て驚いた。
『豪華ブレックファースト 食べ放題五百円』
『豪華ランチ 五百円』
は、まあいいとして。
『超豪華ディナー ワイン飲み放題七百円』
これを逃す手はない。
しかも、その七百円もタダ。
ディナー七百円で、何が、一泊二万円のホテルよ、と思う。
そうか。
けど、一泊二万円だから、こんな大番振る舞いができるのかもね。
キーを抜いて、303号室にシッカリ鍵をかけ、一階上のフロントに向かった。
「まだ、ディナーいけます?」
「はい、どうぞ」と着いた時とは、違う男の人が言った。
「あのう、田鋤原さんは?」
「ああ、食事休憩です」
これは、うまくすれば、取り立てと超豪華ワイン飲み放題のディナーが、一緒に片づくかも、と私は、内心嬉しかった。
どんな超豪華レストランが完備されているのか、と思ったら、フロントの横にガラガラという引き戸があり、中は、昔よくあったような、こじんまりした食堂だった。
男の人が一人、女の人が一人いるだけだ。
その食堂の隅の方で、来た時に見た田鋤原さんが、ヒッソリと食事をしていた。
「あの、(超豪華)ディナーを」と私は、恐る恐る言った。
「何号室ですか?」と女の人が聞いた。
「303です」
「どうぞ、ここに」と言われて、座ったところは、田鋤原さんと丁度店の反対方向のテーブルだった。
「あのう、あっちに座っても、かまいませんか?」と私は、田鋤原さんのいるテーブルの向かい側に座った。
誰も何の文句も言わないのだから、多分かまわないのだろう。
他に客の姿も見えないし。
田鋤原さんは、ほとんど食べ終わったところのようだし、イヤな仕事を片づけるのには、ちょうどいいかもしれない。
「着いた時に言うたと思うんですけど、私、実は」
「わかってますよ」と田鋤原さんが言った。
「得丸の使いで来たんでしょう」
「はい、そうです」と言うしかない。
どうひいき目に見ても、オーナーの言う、諸経費を差し引いて、月に最低二百万も儲かるホテルには見えない。
時期外れもあるのだろうけど、私達以外に客の姿はないようだし。
「得丸は、元気にしていますか」
「はあ、まあ、とてもお元気です」
自分の雇い主を、『得丸』と呼び捨てとは、これいかに。
田鋤原さんは、どう見ても、四十代にしか見えないし。
と思っている私の目の前に、超豪華ディナーが来た。
ごはんに鯖の煮つけ、味噌汁に漬物、どこが、超豪華?
それと一升瓶が来た。
二級酒だ。
ぶどうのワインじゃなくて、サケワインか、燗もなし?