コンビニエンスホテル2
家に帰ると、もう気功の教室はお開きになっていた。
気功の先生である隆さんと、弟子である息子が、台所で何か話している最中だった。
「・・・では、明日か・・・」
「・・・最後のチャンス・・・」
と私には、理解できないことを言っている。
「春子、明日から旅行だ」と隆さん。
当然、ギョッとする私。
な、なぜ、私が、明日から有給休暇を取って、紀伊半島を一周することになってしまったことを知っている?
突然、今日、それも、休暇の日は、一時間前ぐらいに決まったことなのに。
「え?
本当?
お母さん」と息子。
そう。
言いたくないけれど、この変人師弟には、私の考えは、全て読まれている。
しかし、「本当?」とたずねるところを見ると、私の有給休暇のことは知らなかった?
「偶然やなあ、紀伊半島一周やなんて。
隆さん、何かした?」と息子。
「いや」と隆さん。
ほんまでしょうね、隆さん。
話が合いすぎている。
「偶然の一致だ」とにべもない返事。
「ほら」と息子は、テーブルの上に、バラバラと紙片を並べた。
またか、と私は思った。
大晦日から元旦にかけて、この二人は、青春十八切符を使った、無謀な鈍行の旅を企て、巻き込まれた私は、大変な目に会った。
「隆さんに頼まれて、八月の最初に五枚も買ったけど、もう明日からしかチャンスがないんや」
見ると、切符には、有効期限九月十日まで、と書かれている。
ほんまに、物好きな。
大金持ちのくせに、こういうセコイ旅に、はまっている。
「五日間、教室は休みにした」と隆さん。
「え!」と驚く私。
そ、そんなことしたら、生徒さんが来なくなるのでは・・・
「教えてくれと頼むから教えているだけだ。
イヤなら来なければいい」と相変わらずの、でかい態度。
「オレ、春行、お前で三人か」と勝手に、私も仲間に入ってしまっている。
イ、イヤです。
もう、あんな鈍行の旅なんて。
しかも、宿も確保していない無謀な旅、と思っていると。
ピンポンピンポンパーン、という間抜けなインタフォンの音。
「はい」と出ると、「私」という返事だった。
この声は、隆さんの妹の範子さん。
私の飲み友達であり、時折、我が家に差し入れを持参してくれる得難い人。
「範子か。
これで、四人」と相手の意向も聞かずに、勝手に人数に加えている隆さん。
「なーんだ、お兄さんも来てたの」と言う範子さんの後ろからは、二人の父親であるお爺さんが現れた。
「お祖父ちゃん」
「春行」
と息子と爺さんとは、毎度、感動の対面をする。
別に、本当の祖父と孫ではないんだけれど。
そもそも、この爺さんと息子とのテレパシーの交信から、今のような事態になってしまったわけだ。
まあ、爺ちゃんは、かなりぼけているけど。
「これで、五人そろった」と隆さんは、一人で満足気だ。
「今日は、一口押し寿司を作ってみました」と範子さん。
無謀な旅の仲間に入っているとも知らずに、ニコニコしている。
「はい。差し入れのビール」と保冷バッグに入ったビールまで登場する。
「春子、何を持ってる」と隆さんに言われ、自分がまだ大事そうに、封筒と通帳カード印鑑を持っていたことに、気がついた。
「見せてみろ」と言われて、素直に見せてしまう自分が嫌い。
「何だ、これは。
まるとく屋の通帳じゃないか。
それに、これは何だ」と言われて、封筒の中に、ごっそりとホテルの無料宿泊券・飲み物付お食事券が入っていたことを、初めて知った。
現金十万円まで、一緒に入っている。
隆さん・息子・範子さんに見つめられて、なぜか私は赤くなった。
爺さんだけは、ボウッと違う方向を見ている。
「わ、私の給料の振込先がわからないから、ここに振り込んでいたみたいで・・・」としどろもどろになってしまった。
「明日からは、有給休暇で、そこのホテルの取り立ても仕事で」と自分でも何を言っているのかわからない。
「まあ、いいじゃないの。
明子さんは、まるとく屋のオーナーの命の恩人なんだし」と範子さんが、混乱に拍車をかけることを言った。
スーパーの火事の際、確かに、私は、八十キロを越えるオーナーの巨体を、店の外に引きずり出した。
命の恩人と言えば、恩人かも。
けど、それを言うなら、隆さんの命の・・・
「まずは、乾杯しよう」と隆さんが、私の考えをさえぎるように言った。
「明日からの旅行に」
なぜか、かんぱーい。
もう飲んでしまえ、とばかりに、私は、缶から直接ビールを飲んだ。
「この十万は、取り立て代金の前払い分で」とまだ私は説明していたが、もう誰も聞いていなかった。
「え?
何、何?
明日から、私も旅行に行くの?
え?お父さんまで?」という範子さんの矢つぎ早の質問が続いていたせいだ。
「え?
五日間、電車乗り放題の切符?
へえ。青春十八切符ていうの。
青春ねえ。十八歳でなくても構わないの?
ああ、それで、明子さんが、無料宿泊券をもらってきたわけ」と勝手に納得している。
幸せな人だ。
「範子、昼の弁当は作れ」
「はい、はい」
「お父さん、ちゃんと用意できますか?」と着々と話は進行している。
『人形も行く』という声が聞こえて、私は、ギョッとした。
ああ、また、ややこしいのが出て来た。
息子の可愛がっている、美形の日本人形だ。
とうとう私まで、人形の言っていることのわかる異常な人種になってしまった・・・
「バカ人形の分の切符はない」と隆さん。
あのね、同じ断るにしても、相手は人形なんだから、違う言い方があるでしょう。
『隆ウンコのバカー』と人形に、足袋キックをされている隆さん。
「春行、こいつは、縛っておけ」と隆さん。
額に人形の足袋の跡がついている。
笑ってはいけないけど、なぜか可笑しい。
クックック。
「いいか?
お前は人形やから、お家に残りなさい」と息子は、隆さんから人形を受け取ると、優しく言い聞かせている模様。
『人形も行く』
まあ、この人形が、いったん言い出したら、誰が何を言っても無駄。
『人形も行く』
「おとなしくできる?」と仕方無く、私は言った。
『できる』
「ずっとカバンの中に入っていられる?」
『カバンはわからない』
「うーん・・・
飛んだりしない?」
『しない』
「もう、明子さんまで、お兄さんに影響されて」とこの中で唯一人形のことばのわからない範子さんが言った。
いつの間にか、和気あいあいと、旅行の話で盛り上がっている。
私は、一人取り残された気分で、グビーグビーとビールを飲んでいた。
「ところで、春子」と突然、隆さんに話をふられて、グフッとビールが気管に入ってしまった。
その後数分、ゴホゴホゼイゼイ言う私の立てる音で、話は、しばし中断。
その間に手短に説明するが、私は、戸籍名『坂口明子』、息子は『坂口春樹』だ。
しかし、隆さんや爺さんには、『春子』『春行』と呼ばれている。
最初は、訂正していたが、そのうち面倒になって、勝手に呼ばせている。
信じられない話だが、『春行』というのは、息子の前世での名前らしい。
前世では、隆さんの従兄弟にあたる。
もう少し言えば、範子さんの初恋の君だったらしい。
『春子』というのが、七才で行方不明になった『春行』の妹の名前。
私は、真っ赤な他人だが、いつの間にか『春子』と呼ばれるようになってしまったというわけだ。
「お前は、まるとく屋の命令で、このホテルに行くのか?」
ゴホッ、ゴホッ。
単刀直入な質問でございます。
「そういうわけれは、ゴホッ、ないんれすが」
あれー?
ろれつが、少々怪しい。
「お母さん、いつの間に、一人でこんなに」と息子が、私の周囲に散乱しているビールの缶を数えている。
一、二、三、四、五、六、あれー、いつの間に。
「ずっと、ほとんど、休みなしだったもんで、連休宣言をしたら、何かこういうことになってしまって」ヘヘヘと笑っている。
「で、どういう命令だ」
「命令、命令って、言わないでちょうだい!」と怒り上戸?
「旅行のついでに、ホテルの滞納しているお金を取り立てて来て欲しいと」とここまでは、きちんと言えた。
「言われたんれすよー。
ホテル代タダー。
ビールもタダー。
全部タダー。
んで、取り立てたお金の一割が報酬なのれ、六百万なら六十万。
前金十万。
すごいれしょー。
んで、前金十万。すごいれしょー。
んで、前金十万」
「わかった、わかった。
十万か。
しかし、あのまるとく屋が、よくそんな大金をポンと出したな」
「だって、お兄さん、明子さんは、オーナーの命の恩人なんだから、それぐらい当然でしょ。
あの炎天下、テントで仲良く、毎日毎日野菜を売ってた仲なんだし」と範子さん、酔っている耳にも、意味深長なおことば。
「だから、ホテル代をタダにしたり、自分の通帳を渡したりするんじゃない」
「そうか」と隆さん。
なぜか、声が冷たい。
「お母さん、それだけ飲んだんやから、もう寝た方がいいよ」と息子まで、なぜか、ヤキモキしている模様。
「はいー」と私は、素直に、自分の部屋に行き、万年床に入って、寝てしまった模様。
息子と後の三人が、いつ頃まで話していて、いつ帰ったのかは、私の全然知らない世界。