コンビニエンスホテル1
コンビニエンス・ホテル
ガタコーン、ガタコーン、と鈍行列車に揺られている。
何の因果で、また、こんな羽目に・・・
「オーナー、私、連休を取ります」とつい数日前、スーパーのオーナーに宣言した。
「そうか。どっか行きたいとこでもあるんか?」と言われて、グッと返事に詰まった。
休みたい一心で言っただけで、何の予定があるわけでもない。
「わ、和歌山です。
き、紀伊半島を一周します」とつい言ってしまった。
年末年始に、紀伊半島一周の予定が、急遽、宮島行きになったことを思い出したからだ。
思い返せば、まだ梅雨の頃、私が住んでいる家の家主であり、息子の気功の先生でもある隆さんに頼まれて、スーパーに手伝いに行ったものだ。
そこで散々扱き使われたあげく、スーパーは、火事で焼け落ちてしまった。
焼け跡で、オーナーと二人、炎天下、テントで野菜を売った。
今年の異常な猛暑の中、来る日も来る日も、野菜を売り、火災保険で、生まれ変わったように綺麗になったスーパーでの開店準備に加えて、開店セール、と夏の間中、お盆も夏休みもなく、働き続けだったのだ。
「そ、それから、旅行の費用もいるので、今までの給料を払ってください」と思い切って言った。
そうなのだ。
焼ける前に働いていた分も未払いなら、炎天下での野菜売りの分もまだもらっていない。
開店以来働いた分も、全然もらってはいない。
「あれ? 銀行振込してなかったか?」
「え? 銀行振込やったんですか?」とあやうく誤魔化されるところだったが、オーナーに振込先を教えた覚えはない。
「今まで働いた分、メモしてきましたから、全部払ってください」と全三ページに及ぶメモ帳を取り出した。
「あんたも、見掛けによらず、細かい人間やな。
細かい人間は、大成せえへんで」
この歳になって、大成なんか、もうせんでもいい。
とにかく、働いた分は払ってちょうだい。
「いずれ、共同経営者やねんから、もっとドッシリ構えてたらええのに」
「パートのおばさんで結構ですから、払ってください」
「欲のない人やな」とオーナーは、ブツブツ言いながら、店の奥に消えた。
無休で無給の共同経営者になんか、誰がなりたい、誰が。
休み無しの三ヵ月、たまった未払い賃金は、三十六万円。
貧困家庭の我が家にとっては、物凄い大金だ。
「アカンわ、今、そんな大金、どこにもないわ」と奥から出て来たオーナー。
「小切手でええか?」
「いえ、現金でください」
「そんな無茶言われても、無いもんは無いで」
店が新しくなってから雇われた人達には、きちんと給料を払っているのは知っている。
「お世話になりました」と言うことばが、喉元まで出かけた時に、オーナーは、ポンと手を叩いた。
「ちょうどええ話がある」
「・・・何ですか」
イヤな予感がする。
オーナーの『ええ話』に、本当に『ええ話』があった試しはない。
「あんた、紀伊半島を一周する、言うてたな。
そしたら、伊勢も通るやろ。
伊勢の一駅鳥羽寄りに、私の建てたホテルがあるんや。
そこやったら、二割引きで泊めたげる」
「いえ。そんなん結構です。
どうせ、オーナーのホテルやったら、目茶苦茶高いんでしょ?」
「何言うてんねんな。
一泊二万の二割引きいうたら、四千円も得やで」
「私、ホテル代に、五千円以上払う気ありません」とキッパリ言った。
「よし、わかった。
五千円で泊めたげよう」
「二割引きやから、四千円」
「わかった。四千円」と物分かりが良すぎる。
「その代わり、何があるんですか?」
「実はな、ここの開店準備にかまけて、このホテルのことをスッカリ忘れてたんや」
「それで?」
「田鋤原いうのが、責任者やねんけど、六月からの収益の報告もないし、振込もない。
収益から従業員とかの経費を引いた分の振込が、年々少なくはなってるけど、最低でも、月に二百万はあるはずや。
それを取り立ててきて欲しいんや」
「アホなこと言わんとってください。
何で、私が、自分の休暇中に、そんな取り立てみたいなこと、せなアカンのですか」
「今までの給料プラス取り立てた分の一割払おう。
六百万取り立てたら、六十万や」
「相手が払わへんかったら、タダ働きやないですか」
「今度の休暇は、有給休暇にしよう。
日給一万。
それプラス取り立てた分の一割」
私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
もしかすると、本当に、『ええ話』かもしれない。
「よし。私も男や。
ホテル代は、タダ。
何人、お友達連れて行っても、全員タダ。
食事もタダ」
「お酒は?」
「・・・タダにしとこう」
その瞬間、『タダほど怖いものはない』という格言が、頭に浮かんだ。
が、すぐに消えた。
「ほんまに、ほんまですか?」
「武士に二言はない」
といつから武士になったんや、このおっさん。
「けど、きちんと書類にしてもらえますか?」と私は言った。
どうも、信用できない。
相手は、三ヵ月分の給料を、何やかやと言いながら、全然支払っていない人間だ。
「私は、忙しいから、あんたが書類を作って来たらええ。
私は、それに、ポンと判子を押すから」
「わかりました。
書類を作ってきます」
「連休は、一週間でええか?」
「え!」と私は、驚いた。
「もっといるか?」
「い、いえ。
一週間で結構です」
連休の話を出した時は、二日も連休がもらえれば上等だと考えていた。
それが、有給で、しかも日給一万で一週間も、信じられない展開だ。
たとえ、一日十時間働いても、八千円にしかならない時給なのに。
「連休やー」と家に帰ると、気功の稽古の最中だった。
我が家の一番広い和室は、週に三回、隆さんの気功の教室に使われている。
「シー」と自分で、自分の口を押さえる。
「よし、まず書類を作ろう」と便箋とボールペンを出してきて、大事なことを忘れていたことに、気がついた。
しまった。
未払い分の給料をもらう話が、有給休暇の話で、どこかに飛んでしまっている。
まだ、一銭ももらっていない・・・
んなもん、紀伊半島一周するお金なんか、どこから出る?
あの狸オヤジめ。
こうなったら、それも、書類に書いておこう、と思ったとたん、ジリリリリーン、と電話のベルが鳴った。
「はい」と出ると、あの狸オヤジだ。
「早速、明日から連休取って。
頼んだで」
「あ、ちょっと待ってください。
未払い分の・・・」
ツーツーツー、と電話は切れていた。
明日からやなんて、な、何を、突然、目茶苦茶なことを・・・
いつから連休取るかなんて、自分で決める。
そう思いながら、明日から一週間連休か、と思うと、何となく嬉しいから困ったものだ。
しかし、その前に、書類を完成させて、まだオーナーが店にいる間に、判子を押してもらわないと、タダ働きの上に、さらにタダ働きになりかねない。
『契約書』と書いて、便箋を丸めて捨て、新しい便箋に、『誓約書』と書き直した。
『坂口明子に対し、未払い分の賃金三十六万円を、即支払うこと。
九月六日からの一週間(七日間)、日給一万円の有給休暇とすること。
ホテル料金(食事、酒代込み)を全額無料にすること。
ホテルからの取り立て分の一割を支払うこと。
以上のことを、ここに誓約します。』
よし、と思って読み返し、その足で、スーパーに向かった。
徒歩にして、十五分の距離だ。
スーパーの前で、呼吸を整えた。
しみじみと、焼け落ちたスーパーとの落差を思う。
うらぶれた、昼でも暗く見える、ほこりで一杯だったスーパーが、真新しい近代的な建物に変身した。
『まるとく屋』という信じられないような名前は、そのままだが。
「オーナーは?」とレジにいた女の子にたずねると、「アッ」と驚いた顔をされた。
え?
私の顔に、何かついている?
バタバタバタと奥に向かって走って行く。
ちょっと待ってよ、レジを放ったらかして。
仕方無く、レジに並び始めた客の応対をする羽目になった。
またも、時間外無給労働だ。
奥から出て来ると、レジの女の子は、飲料を補給していたバイトの男の子と、何やら、私の方を見て話している。
「へえ、あれが」という声が聞こえて来る。
きっと、『この店で、一番古い人』とでも噂しているのだろう。
ほんの三ヵ月先輩なだけですけどね。
「何や、奥さんが来た言うから、どこの奥さんが来たかと思ったら、あんたか」と言いながら、オーナー登場。
『奥さん』?
誰の?
それは、まあいい。
「誓約書を書いてきました。
ポンと判子を押してください」
「そんなんでええのんかいな」と言うと、オーナーは、ろくに内容を見もせずに、ポンと店の判子を押した。
「あ、それから」と言う間に、オーナーは、また奥に戻ってしまった。
このやり取りの間にも、手は勝手にレジを打って、袋詰めして、お金を受け取り、お釣りを渡している。
「ちょっと」と私は、仕方無く、レジの女の子を手招きした。
初めて会ったのだから、当然名前は知らない。
「はい!」と女の子がやって来る。
「レジ、お願いね」
「はい!」
奥に行こうとすると、「はじめまして、奥さん」とバイトの男の子に挨拶された。
「はじめまして」
どうも、勝手が違う。
我が家は、母子家庭。
私は、誰の奥さんでもないけれど、年齢的に『奥さん』に見えるのは、仕方がないかも。
「オーナー」と店の奥の監視カメラの前に座っているオーナーに、声をかけた。
「今までの給料をいただかないと、紀伊半島まで行けないんですが」
「振り込んだはずやけどなあ」
「いいえ、振り込まれていません」
振り込み先も知らずに、振り込めるもんなら、やってみろ。
「ああ」とまた、オーナーは、ポンと手を叩いた。
「肝心のもんを渡してなかったんや」
そう言うと、机の引き出しをアチコチ開け始めた。
「おかしいな、どこ行ったんかな?」
私の目の端に、涙が滲みかけた。
そうまでして給料払いたくないのか、この強欲オヤジ。
それやったら、ホテルの取り立ての話なんか全部ご破算やからな。
それだけちゃうで。
裁判に訴えても、取るもんは取るから、そう思え。
「あった、あった」とオーナーは、嬉しそうに、引き出しから封筒を取り出した。
封筒の中からは、『得丸得二郎』名義の通帳が出て来た。
信じられないようなスーパーの名前は、この本名から取ったものらしい。
「何なんですか、それ」
「あんたの振込先がわからんかったから、私の通帳に振り込んどいたんや」
自分名義の通帳に振り込んで、私に払ったと思う根性が理解できない。
どういう基準で振り込んだものか判断できないが、残高は、四十三万になっている。
「あのう」七万も多いような気が。
「今回の有給の分も、前もって振り込んでおいたんや。
な、よう気がきくやろ?」
それは、また、手回しのいいことで・・・
気がききすぎることで・・・
「これが、その通帳の印鑑。
これが、キャッシュカード。
暗証番号は、1234。
どうや、絶対忘れへんやろ」
「そら、忘れませんけど」
盗まれた時や落とした時、すぐわかってしまうんでは・・・
「あんたやから教えるけど、私の暗証番号は、全部1234」
「はあ」やっぱり、ただのアホなんやろか、このおっさん。
「それから」とポケットに手を突っ込んで、一万円札の束を取り出した。
手に唾をつけて、一枚二枚と数えている。
き、汚い。
「これは、取り立て分の前払いや。
十万渡しとこ」
「は、はあ」と狐につままれたような気分だ。
「取り立てがうまくいかんかっても、それは返さんでええ」
「はあ」気前がよすぎて、気味が悪い。
「じゃあ、頼んだで」
「はあ」と帰って行こうとする私を、またも呼び止めるオーナー。
「そうそう。これも持って行き」と別の封筒を渡された。
頭が混乱して、何も考えられない。