修行 上
突然だが俺は今、非常に困惑している。それは俺の友人であるヴォルテクトの専属メイド的な立場であり、俺の友人でもある紫苑さんだ。
「迅さんは紅茶に砂糖は入れない派でしたね?」
「あ、ああ」
入り込んだ絵の中で俺達を待っていた彼女は朝食の紅茶を煎れてくれているんだが、その動きは洗練されている。確か彼女主催のお茶会に招待された時も紫苑さん自ら煎れてくれたっけな。受け取った紅茶の香りは詳しくない俺には分からないが、きっと高級品なんだろう。マフィンやらベーコンエッグも美味しそうだ。普段なら雫とイチャイチャしながら食べるんだろうが、今は彼女の事が気になって仕方が無い。
「な、なあ、雫。王具や臣具ってのは伝承が形になった物なんだよな?」
「うん、そうだよ。神話や実在の人物の道具に纏わる伝承が様々な形になってね。例えば鳥阿先生だけど……ドリアン・グレイって知っているかい?」
確かその名前は知っている。杉林さんが教えてくれた昔の小説で、確か主人公のドリアン・グレイが全然歳を取らず、肖像画が老けて行くって奴だった気が……。
「正解だ。鳥阿先生の臣具は正しくそれ、ドリアン・グレイの画材なのさ。絵の中に世界を創り出し、時に現実と虚構を入れ替える。まあ、生物を入れるのは本人の許可が要るとか制約は多いんだけれどね」
「確か相手の王具や臣具を破壊すれば力が上がるんだよな? そんなんで破壊可能なのか?」
「さあ? 元々互いに壊し合う為に存在するかどうかってのは議論が分かれるし、本人も好きな色と質の絵の具を出せるから画材代が浮いて助かるって思ってる程度らしいし」
ま、まあ、どんな願いでも叶うって聞いて、例に出したのがソシャゲのガチャについての人だからな。能力自体は凄いんだけどよ。しかし、改めて聞いたら益々訳が分からない。だって、ライオンの着ぐるみパジャマの元になった伝承ってどんなのだよ!?
「……紫苑さんの臣具って何なんだ?」
「私の臣具ですか? ああ、成る程。迅さんはギリシャ神話には詳しくはないのですね。今後堕剣と戦う為にも伝承についての知識は必要です」
いや、だからさ。ライオンの着ぐるみパジャマってどんな伝承が元になってるんだって話なんだよ。普段のクールな立ち振る舞いのせいで違和感が凄いぞ、今のこの人。
「じゃあ私が勉強を手助けしようか。……シチュエーションとしては女教師と男子生徒の個人授業だね。迅、黒ストッキングは好きかい?」
「お前が履くならな。雫は美人だから何でも似合う。俺の自慢の恋人だよ」
「君だって私の自慢の恋人さ。君が望むのなら恥ずかしい格好だってしようじゃないか。君が喜ぶ、それが私の喜びなんだから」
雫の手をそっと取れば暖かい体温が伝わって来る。小さくてスベスベで、何時までも握っていたくなる手だ。いや、それだけじゃ終わらない。どうせだったら抱き締めたい。だから俺は雫を引き寄せて抱き締めた。
「……強引だね。でも、君にされるなら嫌いじゃないよ。ねぇ、キスしてくれるかい?」
「今直ぐしない理由が見付からないな」
「あっ、いえ、紅茶が冷めるので先に飲んで頂けますか? それと登校時間も迫っています。では、どうぞ」
紫苑さん、こりゃ少し怒ってるな。俺達はキスは雫が学校に行く時までにお預けにして朝食を食べ進める。このマフィン、市販のとは全然違うな。ヴォルテクトの弁当を作ってるらしいが流石紫苑さんだわ。
「……ふむ。ねぇ、紫苑。迅が気に入ったらしいし、私にマフィンのレシピを教えて貰えないかな? 矢っ張り彼女としては未来の夫に自分の料理を喜んで欲しいんだよ」
「なら今度の週末にでも。折角の休日ですし、ヴォルテクト様からのデートの誘いを断る絶好の口実ですので。その後はカフェで女子会ですね」
「良いね! 私達は互いの友人関係も大切にしているし、偶には一緒じゃなくて他の相手と過ごす日も決めて有るから都合が良いや。……まあ、私の友人の殆どは迅の友人でもあるんだけどさ」
ちょっと狡いよね、そんな風に拗ねた演技をする雫が可愛いのでスマホに保存しておこうか。最近容量が一杯だし、パソコンに新しいフォルダーを作らないとな。
「じゃあ、私は学校に行くよ。……放課後まで会えないのは寂しいけれど、穴埋めはしてくれるかい?」
「当然だ。……絶対にまた会おう」
「たかが半日足らずで大袈裟な。相変わらずの関係ですね。……少し羨ましいです。私にはその様な相手は居ませんから」
「ヴォルテクトはどうなんだい?」
「……あっ?」
俺達の姿を目にして寂しそうな表情の紫苑さん。雫が慰める為にジョークを言ったんだが逆鱗だったか。よし! 絶対にこのネタで紫苑さんをからかうのは止そう。俺は堅く心に誓う。……その位怖かったんだよ、今の彼女。
「さて、それでは始めましょうか。この力をコントロールするには実戦形式が一番です」
朝食も終わり、雫を送り出した俺と紫苑さんが向かったのは円形闘技場の内部。雲一つ無い青空と無人の観客席が広がる物悲しい空間で紫苑さんは俺と距離を開けて向き直り、両手を地に着けて尻を上げた四つん這いのポーズ。まるで猫が獲物に飛びかかる時みたいだな。いや、ライオンは猫の仲間だけれど。
「今の迅さんは例えるならばアルマジロが急にパンダの人気を得た状態。振り回されるのは必須ですが、慣れればどうにかなります。さあ! ご準備を」
「お、おう……」
微妙に分かり辛い例だが仕方無いな。俺は例の赤い棒を取り出して構える。少し昨夜よりも手に馴染んだ気がした。これが雫との儀式の影響か?
「おや、構えが中々様になっていますね。何処かで棒術の道場にでも?」
「カンフー映画やらマンガに憧れて通信教育を少々」
「おや、それは奇遇ですね。私もです。ですが……」
うん、少しミーハーっぽいが本当の事だ。一時期熱中した映画の真似がしたくて申し込んだが、まさかこんな風に役に立つとはな。全く予測が……まあ、予測出来るはずが無いんだが。俺の返答に少し驚いた後で嬉しそうにする紫苑さんだが、表情が一変する。アレはまるで獰猛な獣だ。
「私が習ったのは黒虎拳。更に私の臣具に合わせて改良した物。名付けて紫苑流ライオン拳! 安心して下さい。殺す気では行きません。剛爪収納……肉球プニプニ率五〇〇%向上!」
ライオンの脚から生えていた爪が引っ込み、反対に肉球が震え始める。あの肉球、恐らくは猫の肉球以上のプニップニさだ。正直言って触りたいが、俺の特訓に付き合ってくれているんだ。他事を考えている場合じゃ無いよな!
「よし! んじゃ、行くぜ!」
棒を上段に掲げ、踏み込みと同時に振り下ろす。振り下ろした先端が向かうのは紫苑さんだが、その姿は突如消えて代わりに地面を砕いた。一撃を叩き込んだ地面は蜘蛛の巣状に罅が入っている。確かにこの力をコントロール出来ないのは危険だな。それよりも紫苑さんは一体何処に……後ろっ!
背後から聞こえた音に反応した俺は棒を間に滑り込ませてガードするが、肉球による掌打が俺の体を弾き飛ばす。こりゃ凄い。強いのは知っていたが、臣具の力を引き出したら此処までかよ。咄嗟に後ろに飛ぶ隙も与えられず数メートル後ろに飛ばされた俺は棒の先端を地面に突き刺して勢いを殺して止まる。紫苑さんは追撃もせずに俺を見ていた。
「遠慮は不要です。私に全力で打ち込んで来て下さい。先に言っておきますが私は別格。今の迅さんでは砂猫とパンダ位の差が有りますので」
「いや、それは分かったよ。一つ聞きたいのは……どうしてパンダなんだ?」
「パンダは大きな熊の猫と書くからです。……後は普通に好きだからですね」
「……うん、分かった。じゃあ、行くぜっ!」
今度は捻りを入れた突き。今の俺が出せる最大速度の一撃だが、肉球で簡単に弾かれる。こりゃあの肉球のプニプニ度でも防ぎきれない一撃を叩き込むしかないって事か。俺、友達との殴り合いの喧嘩は嫌だけど……こういった競い合いは大好きなんだよ!
「良いな! ドンドン行くぜ!」
「……おや、もうコツを」
突き、薙払い、振り下ろし、一撃一撃に全力を込め、尽く肉球に弾かれる。なのに向こうの一撃で俺は直ぐに吹き飛ばされていた。こりゃアレだ。燃えて来たって奴だよな! 力が更に漲る。幾度と打ち込み続け徐々に紫苑さんの動きが読めだした。
「せいっ!」
そして遂に腹部に渾身の突きを叩き込む。流石に息が上がって来たが、俺はどれだけ続けていたんだ? 時計は無いが、結構な時間を費やした気がするんだが。俺は流石に疲労のピークを迎えて膝を付くが紫苑さんは涼しい顔だ。さっきの突きも効いちゃいないな。
「私は三日で終わると予想し、ヴォルテクト様は迅さんならば二日で十分だと仰いました。……まさか半日足らずで終えるとは。……雫さんの予想が的中ですね」
聞けば夕方だとよ。まさかそんな時間まで続けてたのか。どうりで疲れた訳だってか、紫苑さんには感謝だな。にしても雫が予想していたとはな。
「流石雫だ。俺の事を分かってる。……うん、今後もハードルを越えなくちゃな」
彼奴が信頼してるなら俺は絶対にそれに応える、それだけの話だ。紫苑さんはそんな俺の言葉に呆れつつも感心した笑みを向けてくれていた。
「もう大丈夫でしょう。何か軽食を用意……の前にこれを脱ぎましょう。土埃で汚れています……し……」
俺が棒を仕舞った時みたいに着ぐるみパジャマを消す紫苑さん。だが、その言葉は途中で途切れる。俺の目の前の彼女は上下黒の下着姿だった。
「あっ、忘れていました。服を着ていませんでしたね」
……咄嗟に目を逸らしたが恥ずかしくて言葉が出ない俺と違って紫苑さんは凄く冷静だ。いや、何でだよ!?
所で紫苑さんの着ぐるみパジャマや俺の持つ棒って一体何なんだ?7
需要が無いのかなぁ