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眠気が、登校までの足取りを重くさせていた。
日野が妙に気がかりで、昨夜は眠れなかった。
「悪いことしたなぁ」
溜息交じりで呟いた。
胸の奥に刺さった魚の小骨のような微痛が、罪悪感となってオレを一晩中蝕んだのだ。いくら日野に振り回されて腹が立ったからって、強く当たりすぎたと猛省。
次に顔を合わせたら謝ろう。
「…………」
昨日とは打って変わって、駅の構内は通勤や通学する人々でごった返していた。
すげ、ウチの近くじゃ祭りでもこんなに集まらないぞ。
駅に着き、改札を抜ける。
……と。
視界の端を、見覚えのある人影が掠めた。
とんがり帽子と小柄な制服姿。
日野茉莉である。柱の影にてなにやら潜伏中。
「なにしてんだ、アイツ」
あ、目が合った。すぐさま視線を逸らされた。
昨日の件もあり、日野も顔を合わせ辛いのか。
……わずかに、ためらう。どう接しよう。
ええい、悩んでも考えは浮かばないし、正攻法でいこう。
すなわち当たって砕けろ戦法である。相手は死ぬ。
「おはよう、日野」
近づいて、声を掛けながら右手を上げた。
肩を撥ねさせる日野。
くるりと身を躍らせ、オレと向き直る。
「ご機嫌よう、我が弟子」
「師弟関係まだ続いてたの」
溜息が漏れてしまう。
あれだけ拒絶されて、まだ懲りてないのか。呆れた辛抱強さだ。
……なんてのは思い違いだ。日野は気丈に構えてこそいるが、瞳が濡れている。
強く見られたいのか、弱みを見せたくないのか。
「昨日はごめん、強く言い過ぎた」
「構わない。あなたの有用性を鑑みれば些細なこと」
「……なんだよ、人を物みたいに扱って」
文句を声にして呟く。
「あ、いいえ、いいえ、違うの……!」
慌てて手を振る日野。
魔女と呼ぶには程遠い少女らしい所作に、思わず笑みがこぼれた。
素の愛らしい彼女があるから、オレは日野を嫌いになれない。
「ウソウソ、気にしてない。ともかく、そういうことだから」
じゃ、と軽く手を振って離れた。
背中を掴まれた。くそ、逃げられないか。
「……まだなにか?」
しゅぴっ。無言で構えられた。
「放課後に会おうってやつ? でも、今日の放課後スマホ契約しに行くから付き合えないぞ」
「同行するわ」
ええっ。しばし返答を渋る。
……まあ、問題ないか。ちょっと店に寄るだけだし。
「いいけど……面白いもの無いぞ」
「妖精探索をする、あなたの瞳が必要不可欠なの」
強い意志を湛えた瞳に見つめられた。
溶岩のように煮え立つ紅蓮の双眸。
はたと思い出す。オレの目に起こった異変のこと。ひょっとして、魔法とは章の話していた〝チュウニ病〟も関連しているのだろうか?
一応、その点も聞き出したいところだ……
「……了解だ、ただし授業は受けなよ」
「譲歩しましょう」
絶対に授業受けるつもりないな、この子。見え透いた嘘だ。
教室に着いた。案の定、日野は登校しなかった。
人混みに紛れて、いつの間にか姿を消していたのだ。
なんで無駄にそんなスキルが高いんだよ。
「おはよ、章」
「……おう」と、章は気だるげに応じ、そのまま机に顔を突っ伏した。
自分の席に座り、僅かに息を吐く。
……見られている。教室に入ってから席に至るまで、一挙一動をクラスメイトに観察されている感覚がする。被害妄想だろうか。
勘違いなら構わないけど、どうにも落ち着かない。
破裂寸前の風船を眺めているようで、ハラハラする。
「ちょっといいか?」と、ぎこちない笑みを張り付けて、章が話しかけてきた。
「昨日の件?」
「ああ。あの時は俺もどうかしてた、だから……」
だから? 続きを待とうにも、二の句が口の奥に消えた。
章は唇を噛み、
「いや、なんでもない。オマエも気をつけろよ、虐められたくないだろ?」
忠告を残して、章は席に戻っていく。
……嫌な含みがある言葉だ。
日野は、おまえに何をしたんだ?
胸裡に泥のような粘着質な不安が絡みつく。
「……どうしてそんなこと言うんだ」
くそ。ハッキリとモノが言えないのかよ。
分からないことが多すぎる。
こういうときは人に訊こう。思考の転換。コペルニクスさん的なあれだ。
「山田さん、聞きたいことがあるんだけど」
「え、アタシ?」
隣の席の山田さんが、ぎくりと面食らった。
眼鏡越しの瞳が困惑に揺れている。
「章……じゃなくて、林崎って、中学はどんな感じだったんだ?」
「え、ぅ……」と、彼女は細い顎に指を添えて、「アタシは他校だから知らないよ」
そうか……
山田さんは、困ったように顔を伏せる。
「でも、多少は噂は聞いてる」
「本当?」身を乗り出した。
山田さんは、細く頼りない声で耳元に囁いてくる。
「中二病で、かなり暴れてたって……自分を魔法使いだって言いふらして」
「魔法使い……?」
なにかの隠語か?
と、単語が記憶の淵に引っかかっていた会話を引き上げる。
日野は、初めて会ったときに『魔法使いになりたい?』と問いかけてきた。
チュウニ病と魔法使い、このふたつが事態の核心にあると見て間違いないだろう。
「なるほど、要するにヤンチャしてたんだな」
「まあ、平たく言えばそうかな」
「ありがとう、ついでに聞きたいんだけど、チュウニ病って?」
「ぅ、知らない? ネットを見れば何処にでも載ってるような情報だよ」
インターネット、か。
「ごめん、スマホ持ってなくって」
「ウソ、どうやって生きてきたの」
「そこまで言うか」
山田さんは原始人を見るような目だ。
田舎だとテレビと新聞だけで事足りていたけど、現代を生きる上では必需品となるのか。
「か、火堂君もスマホは持っておくべきだよ。連絡とれなくて不便だろうし」
「だね、山田さんの言う通りだ」
気の利いた返しも思い浮かばず、淡泊な返事で会話が終わる。
ホームルームまでの間、沈思する。
チュウニ病か。
そこまで有名な病とは、勉強不足が浮き彫りになった。
しかし、山田さんのおかげで糸口が掴めた。
スマホを手に入れ次第、チュウニ病について調べる。これで事態は粗方解明できるはず。
胸が軽くなった。
ふと、章はオレが病について知るのを嫌がるだろうか、と思う。
精神的な病であるとは、なんとなく察しがついている。
となれば、否応なしにデリケートな問題になるのだろうけど……
「……知らないままで、おまえと友達になる資格があるとは思えないしな」
教室内のざわめきに消えるくらい、小さな声でつぶやいた。
昼休みの余暇で、図書館に来た。
市内随一の進学校を謳うだけあり、蔵書の数がとんでもない。読み尽くすには年単位の歳月を要するだろう。
医学関連の本棚をぐるりと回るが、めぼしい書籍は見当たらない。
と、懐かしい本を見つけた。
優しく繊細なタッチで描かれた表紙の絵画。
郷愁で、つい頬が綻ぶのを自覚する。
「好きなの、絵本?」
「ああ、昔読んでて――」
誰だぁ!? 鈴と鳴る声の正体は背後から。
こんな声のかけ方をするのは、オレが知る中ではただひとりだけ――!
「日野茉梨……!」
「ご名答、今朝方ぶりね、弟子よ」
とんがり帽子に魔女のローブ。
なぜか装いを改めた姿で、オレの背後にいた。
「わかっちゃいたけど、授業受けなかったね」
「ええ、不合理だもの」
フワァ、と髪を靡かせて優雅に答える。
相変わらず、態度ばかりは立派だ。
「勉強しないなら、なんだってここに入学したのさ」
「土地間の利便性ね」
「……家が近かったからか、贅沢だな。怠惰ですらある」
「そういうあなたは勤勉ね。せっかくだし、なにか訊いてみたいことはなくって?」
「……日野から納得できる答えは貰えないと思う」
「失礼ね、散々説明したのに」
「あんなの、何も言ってないのと同じだろ」
断ち切るように吐き捨てて、本を棚に戻す。
「それで、好きなの?」
「は、なにがだ」
投げかけられた質問に戸惑う。
「『まほうつかい と くろいくに』、名作よね」
「ああ、絵本の話ね」
気がなく応えた。
丁寧な所作で、日野は手にした絵本をめくる。
手に取り、捲る。そのひとつひとつに行われる慇懃な態度が、彼女の絵本に対する思いを感じさせた。
「『ある王国にひとりの魔法使いがいました。魔法使いは国を救い、讃えられました』」
滔々と、淀みない声で語る。
敬虔な信者が祈るような、何者にも侵し難い神聖な声音――
「『しかし、魔法使いはしだいに国に疎まれ、ついには追放されてしまいます』」
彼女の声に宿る息吹が、オレの瞳に熱を送り込む。
「『追放された先で、魔法使いは妖精と出会います』」
彼女が絵本に落としていた紅蓮の瞳が、幽かに持ち上がる。
瞳が合った瞬間、オレの視界は狂った。
ぐにゃりと、一瞬だけ目に見えるすべてが歪んだ。
「うわ、またか――」
慌ててその場で丸くなる。
急な行動に不審げに言葉を止め、日野が腰を下ろす。
すると、瞬く間に熱が冷めていった。
た、助かった……! この感覚、電車酔いに似て気持ちが悪くなる。
あまり味わいたくない。
「突然どうしたの? 具合が悪い?」
心配はいらない。いま抱えている悩みの種に比べれば些細なもの。
恨みを込めて立ち上がる。
「日野、おまえは何なんだ」
「〝希代の魔女〟退去された幻想を、再び復権する魔法使い」
そういう額面を聞きたいんじゃない。
日野は、いままでに無い体験を、あり得ない感覚をオレに突きつける。
頭は熱を持って混乱し、その度に意識が酩酊で眩む。
まさか、この錯覚こそが〝チュウニ病〟とでも言うのか……!?
「断っておくけど、オレは魔法使いなんかになるつもりはないからね」
「いいえ、あなたは魔法使いになる運命。運命を変えたいと望むのならば、魔法使いになるしか方法はない」
「…………」
意味がわからなかった。
どんな会話も、日野のペースに嵌められてしまう。
いずれにしても、彼女は架空の作り話を語っているだけにすぎない。
頭から信じるわけにはいかない。聞き流すくらいがちょうど良い。
「現実を見ろよ、日野が言う魔法や妖精なんてのは何処にもない」
オレは事実を諭す。
「ありえないんだろ、勉強してればいくらでも分かるはずだ。現実とフィクションの違いくらい、日野だって区別できるだろ?」
「いいえ、違うの」
また、あの目だ。
豪雨を彷彿とさせる深い寂寥の色。
瞬きの後に、彼女は決意を湛えた瞳で見つめてくる。
「あなたがいた。正真正銘の魔法。おばあちゃんみたいな、本物の魔法使い――」
彼女はやや上目遣いに覗き込んでくる。
こちらまでも安心してしまいそうなほどに、安らかな表情に胸が震えた。
「あなたがいるから、嘘じゃなくなる」
知らず、後ずさりしていた。
日野は、眩しいくらいに純粋だ。それこそ、お伽噺を盲信してしまうほどに。
直視できずに、視線を逸らした。
「嘘じゃなくなるって……いや、ないない。どっちかっていうと、オレは現実主義だし」
「いいの? わたしの知識なら、あなたの異変も解明できるのに」
解明する必要なんかない。ただの錯覚。
第一、日野が関わらなければ済む話だ。
「火堂ケイ、あなたは一度、魔法使いになりたいと願った」
「いつの話だ。子どもの頃を引き合いに出すなよ」
知らず、語気が荒くなった。
彼女の『何もかもお見通し』って態度が、ひどく癪に障る。
駄目だ。日野の雰囲気に話が呑まれてる。
話題を変えよう。
「そういえば、碧木さんとはどんな関係だったんだ?」
凪ちゃんとは幼馴染みだけど、長らく疎遠だったから知らない事が多い。
昨日、彼女の家にお邪魔したが、日野に関することは聞けなかった。
「〝隷属者〟との因縁は中世にまで遡るわ」
「ええっ、急に風呂敷を広げすぎだ。もっと最近の出来事に絞ってくれ」
「仕方ない、我が儘な弟子だ」
鷹揚に肩をすくめて、彼女はやれやれと首を振る。
おまえが言うな……!
腹立つが、ぐっと苛立ちを堪える。ひとまずは彼女の言い分を聞こう。
「彼女は司法の犬よ」
「大きく出たな」
「規律に支配された存在……ゆえに、隷属した者」
「ああ、ごめん。日野の認識っていうか、主観はいいかな。事実だけ教えてくれ」
あとはこっちで判断するから。
日野は先入観っていうか、世界観が独特すぎて話が掴めない。
「彼女はわたしを縛り付けようとした――」
「……悲壮な感じで言ってるけど、あのひとは真っ当に指導しただけでしょ」
簡単に想像できる。
授業をボイコットする日野を諫める凪ちゃん。
この上なく腑に落ちた。なら、これ以上は聞く必要はないか。
「ありがとう。そろそろ教室に戻るよ」
「待ちなさい、話は終わっていないわ」
「まだなにか? 放課後にでも聞くよ」
廊下に向けていた足を止め、日野に振り返る。
「……本当に?」
「もちろん」頷き、不安で見つめてくる日野に視線を返す。
それで安心したのか、日野は溜息をついた。
「あと、昨日みたいに突然来るのはやめてくれ。駅で待ち合わせよう」
「了解、まかせて……そうね、密会のときに、話しましょう」
彼女は、宝箱の中身を見せるような、そんな笑みで。
「また、放課後」と、腕を静かに交差させた。
「ああ、放課後ね」
短く告げ、足早に歩き始める。
急激に喉が渇いていた。無意識のうちに緊張していたらしい。
「……また放課後」
背中で感じる視線が、いつまでも絡みついて離れなかった。