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教室に入ったときには、とっくにクラスメイトが集まっていた。
時刻は八時。
「よっす、昨日ぶり」
肩に腕を回され、耳元で囁かれた。
至近距離に精悍な顔の少年がいた。
清涼感のある制汗剤を体に付けているのか、強い刺激臭がする。
「……確か、林崎くんだよな」
「正解、昨日の少ない時間でよく名前覚えてたな」
パッと体が離れる。
「章って呼べよ、クラスメイトなんだし」
「……了解、章。オレもケイって呼んでくれ」
「おう」と、短く刈り上げた短髪の下で、快活な笑みが浮かんだ。
尖った目でクラスを見渡し、林崎章は声を潜めて続けた。
「オマエ、ここら辺出身じゃないだろ?」
「え? ああ、かなり離れてる」
やっぱりな。章はそう頷いて、揶揄うように付け足す。
「大抵は地元の中学から進学してくるけど、オマエ見ない顔だったからな」
物珍しさから声をかけてきたのか、失礼な。
……そうだ、ちょうどいい。
どうにも事情通っぽいし、彼女のことを訊いてみよう。
「日野茉梨って知ってる?」
「なぜ、その名を……!?」
驚愕に顔を硬直させ、章が凍り付く。
手応えありだ。会心の一撃ってやつ。
「教えてくれよ。昨日会ったんだけど、話が付かないまま別れてさ……章?」
「知らない……俺は……」
尋常じゃない。章の視線は定まらず、息は小刻みに揺れている。
焦燥が如く肩を掴んで揺らした。それでようやく、章は意識を取り戻した。
一度深呼吸を挟んで、ぎこちなく笑ってきた。
「いやいやいや、なんでもナッシングだ」
「微妙に古いセンスだな、そのギャグ」
「俺は呪縛から解き放たれた……だいじょうぶだ、俺はフツーの人間、俺はフツーの人間」
「どうしたんだよブツブツと」
「俺は正常だ!」
小声で唇を震わせていた章が突然叫び、更には瞠目した。
戦慄を顔に貼り付けたまま、何も喋らない。
……心配を超えて、恐怖すら感じるぞ。
「ああぁ、窓に! 窓に!」
叫ぶ章の声に重なって。からり、と窓が開けられる小さな音。
風が吹く。背筋を撫でる冷たい気配に振り返った。
「……日野茉梨」
その声は、オレの口をついて出たものだったか。
窓には魔女がいた。
頭を覆う頂点のとんがった魔女帽子。
人形めいた精巧な顔立ち。
入学式に目撃した姿と寸分違わず、彼女は姿を現した。
「普通に登校できないのか……?」
凡人の疑問など意に介さない。
日野は窓枠に足をかけ、悠然と教室に踏み入る。
帽子のツバを押し上げると、魔女は目を開いた。
彼女は、無感情な双眸にオレを捉えて。
「〝運命瞳〟を確認――妖精の気配はない」
白々とした朝の光の中で、玲瓏なる呪文が紡がれた。
周囲は驚くほど静まり返り、穏やかな日常が凍結された錯覚に陥った。
魔女の呪文が、教室を湖底に沈めたのだ。
透き通る湖の水面を思わせる魔女の瞳が、オレを見つめている。
沈んだ世界に息吹を与えられるのは、魔女ひとりだけ。
「選びなさい、ケイ。あなたは――運命を、変えられるのだから」
途端、教室に魔力が充満した。
教室は水に没して、生け簀のようだった。
酸素が取り込めない。
喘ぐと、鉛めいた重い空気が絡みつく。
「またこれか……!」
二回目ともなると、戸惑いは少なかった。
オレの視界にあふれる文字列。
『クラス:盗人』『クラス:村人』『クラス:商人』『クラス:冒険者』――
瞳が熱い。眼窩に直接流し込まれる情報の羅列が熱を持ち、脳と神経を焼く。
凍てついた湖底の中で、瞳が冴え渡った。
『クラス:■■』
やっぱり。
唯一、日野茉梨の運命だけが黒く塗りつぶされていた。
「日野、おまえは」
何者なんだ。声を続けられなかったのは、いつの間にか傍にまで接近をゆるしていたから。崩れそうな両目を賢明に絞り、日野を見下ろした。
不安げに濡れた瞳に見つめ返されて、再び息が止まる。
「……ほんとうに、見えるの?」
「見えるって、なにが」
「わたしの運命」
短く答えられた。
「見えないって言うか、読めないよ、文字化けしているから」
天使が戴く光の輪のように、日野の頭上を旋回する運命。
ほかの人間とは異なり、彼女のものだけ違う言語で描かれているみたいだ。
……目を凝らしても無駄だ。解読できない。
視線を下ろすと、ただならぬ情熱を帯びた瞳とぶつかった。
それから、柔らかに微笑まれる。
ドキリ――と、心臓が妙な音を出した。
反則だぞ、その顔……!
「未熟だから見えないの。でも、あなたの瞳は本物……拙くても、いずれ真実に届くわ」
「ちょっと言っている意味がわからない」
まるで子どもの描く絵空事みたいだ。
……でも。
甘い夢を語るにしては、日野の言葉には、懇願するような真摯さがあった。
「いずれ分かる。いまは孵ったばかりの赤子だもの……目の前に広がる世界が判別つかないのは当然のこと」
「……偉そうに講義してくれてるけど、アンタ偽物だろ」
「偽物じゃないし!」
あ、ムキになった。
彼女の感情がむき出しになったおかげか、教室の熱が解凍されていく。
呼応するように、オレの視界も元に戻る。
魔法が解けたのだ。
胸を撫で下ろし、ほうと息をつく。
「うわあああ日野だぁあああ!!」
「ちょ、大声出すなよ章!」
横から絶叫を浴びせられて、たまらず耳を塞いだ。
本当にどうしちゃったんだよ……?
靄のように、オレの心に不安が寄せてくる。
「あの子、日野さんだよね。はじめて顔見た」
「どうしてこのクラスに? ……あ、ウチのクラスなの?」
「それより聞いた? ウンメイとか妖精ってガチで言ってんよ」
「中二病だ、中二病」
ヒソヒソとした連声が、教室中でさざ波めいた響きを生む。
「なんだ、この空気……」
嵐の中心に捕らわれたような感覚が、胸を騒ぎ立てた
無遠慮な無数の視線が、オレと日野を取り囲んでいた。
「……付いてきて、我が弟子。あなたを案内してあげる――幻想と夢の狭間、裏の世界にね」
「え、ちょ――!?」
凄まじい勢いで廊下に引き出された。
「日野さん、火堂くん? もうホームルーム始まりますよ?」
飛び出た矢先に先生と遭遇。
「たすけて!」手を伸ばした。届かなかった。無念である。
勢いを増した日野によって、オレは廊下を引きずられていってしまう。
「こらー! 授業開始初日からボイコットとはいい度胸ですね!」
怒声を置き去りにして、廊下を曲がった。
そろそろ冗談じゃ済まされない頃だ。流されるままだった体を静止させると、慣性にしたがって日野はつんのめった。
「待ってくれ、日野。どうして連れ出そうとしてるのか分からないけど、いまは教室に戻ろう。先生もお怒りだぞ」
そう窘めてみる。
ぐいぐいとオレの袖口を引っ張ろうと前のめりになったまま、日野は一言も発さない。
重心を反対に傾けると、簡単に日野の体勢はくずれた。
「話ならあとで聞く。オレも話したいことあるし。だから……」
「嫌」
一言だけ返ってきた。
参った。降伏の意思は無いとみえる。
ならばこっちも徹底抗戦だ。
細やかな手をつかみ、離すように訴える。
キッとオレを睨み付け、日野の語気が上がった。
「離しなさい、己の立場を弁えていないようね」
「なに、立場だと……? クラスメイトだろ?」
「否、師と弟子よ」
「否って使うやつ初めて見た、いたっ!」
手を殴られた! 棒のようなナニカで!
懐から取り出したステッキを振るい、日野は息を荒くする。
獰猛な獣と化したぞ……!
「侮辱……ゆるさない」
「降参だ。悪かったって、急に手を掴んで」
先に掴んだのはそっちだけどね。あといつ師弟関係になったんだよ。喉の奥まで出かかった言葉を呑み込んだ。オレは賢いので、目に見えた逆鱗には触れないのだ。
改めて、日野茉梨と対峙する。
挑むようにオレを見上げてくる円らな瞳。
人形めいた愛らしさを、魔女のような印象に貶めるのは、その神秘的な雰囲気のせいだ。
今にも消え入りそうなほど儚いのに、あまりにも堂々たる佇まいをしている。
そんな致命的な矛盾が、一層彼女を現実離れした存在感に仕立てているのだ。
魔法も、魔女が語るのなら本物と錯覚してしまう。オレの視界を侵蝕した幻覚の真偽を質したいところだけど……
「日野も話したいことがあるんでしょ、放課後にでも聞くよ」
だからいまは教室に戻ろう、と続けようとしたが、チャイムの音が阻んだ。
もうすぐホームルームが始まる。遅刻まで僅かな猶予しか残されていない。
「……仕方ない、弟子の頼みを聞くのも師匠の寛容か」
お、諦めたか。
オレは胸を撫で下ろした。または、油断したとも言う。
「そうと決まれば、早く教室に……日野?」
「わたしは行かなきゃいけない」
「……まさかとは思うけど、それって教室じゃない何処か?」
「然り」重々しい表情で頷かれた。
まじかこいつ。呆れてなにも言えない。
「では、放課後落ち合いましょう」
しゅぴっ、と両手首を交差させて謎のポーズをかましてきた。
無言で眺めた。かける言葉が見つかんなかったのだ。
しばしの沈黙。妙に気まずい。
「放課後」懲りずに再びクロスさせる。「落ち合いましょう――」
「あ、それ真似しろってこと? 分かりづらいなぁ、もう」
しゅぴっ。
日野は満足げに頷き、おもむろに階段を駆け下りていった。
脱兎が如く。
引き留める間もなく、日野は姿を消した。
颯爽としたボイコットであった。
……いや、仮にも学生でしょうが。行かなきゃならないのは教室だよ。
ともかく、難は去った。
……遅刻の言い訳を考えるかぁ。
教室に戻ったオレを待ち受けていたのは『日野茉梨との関係性』について問うクラスメイト達の声だった。あることないこと聞かれたけど、オレは身の潔白を主張し続けた。
次回更新は今日の午前11時です!