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荷物を玄関口に置いた。
重たい荷物で痺れた指をぷらぷらさせて、軽く肩を回す。
久々に買い込んだなぁ。いまから料理するのが楽しみだ。
「おつかれさま、お茶淹れるね」
「え、あ、悪いよそんなの」
「いーのいーの、それくらいさせてよ」
「だめだよ、お客さんにそんな」
「いやいやいや」
「いやいやいや」
手洗いを済ませて、ふたりで居間に入る。
先にお茶淹れを取ったのは凪ちゃんだった。負けた……? 負けた……!
勝ち誇った顔で、凪ちゃんはお湯を沸かし始める。
「どこも変わってなかったね」
「田舎ってそんなもんだよ」
なにも変化がなくて、時間が停滞している場所。辟易とする。
買ってきた食材を冷蔵庫に分別して入れて、一息ついたころには十一時。ちょうどいいし、このまま昼飯を作ってしまおう。
「凪ちゃん、好き嫌いってあるっけ」
「好きだよ、ぜんぶ」
「は――?」
一瞬、爆弾をぶち込まれたのかと思った。
平静を取り戻して「料理がなー! 食材がだなー! オレのことじゃないぞー!」と心の中でアラートを鳴らす。ヤツは天然の人たらしだ! ゆめゆめ忘れるな、と戒めた。
「食いしんぼだな」
「それ、変な勘違いしてない?」と、凪ちゃんがむくれた顔で言う。
その顔が朱に染まって見えた。
ますます気恥ずかしくなる。なんでこの人こんな可愛いんだ。
「してないしてない。育ち盛りだもんね」
なんて、益体もない会話をしながら料理の準備を進める。
「待って、私に作らせて」
「凪ちゃんが?」
驚きで手を止めてしまう。
凪ちゃんの手料理……今朝味わったばかりだけど、素朴な味わいの中に優しさを感じられて、とても心が穏やかになった。言ってしまえば可も無く不可もない。
オレが逡巡する間に、凪ちゃんはオレのエプロンを奪い去ってしまう。
「ケイくんの舌を唸らせてみせるよ!」
「おお、頼もしい!」
拍手と共にキッチンに迎え入れた。
客人である以上、もてなしたい気持ちがあるけど、凪ちゃんなら任せていいか。
凪ちゃんが胸を張ると、エプロン中央の柴犬が歪んだ。……すげ、オレがやってもあんな歪まないぞ。
「……あまりじろじろ見ないでよ」
「…………ごめんなさい」
セクハラ、ダメ絶対。
寛いでていいよ、とお達しをいただいたので、オレはぐてーっとスマホを弄っていた。
昼食を用意してもらう傍らで何も仕事しないのは心苦しいが、立ち上がると「じっとしてなさい」と無言の圧をかけられる。これが覇王色の……! シンプルに怖かった。
まあ、楽しそうに料理してるから邪魔する気はないんだけど。
……なにをしよう。
と、ふと思い出す。章の小説を読もう。
あれなら、浮いた時間にあてがうのがちょうどいい。
『異世界でチート魔法使いになって、魔女と恋に落ちる話』
全部で五万文字、未完か……
煎茶を片手に読み進める。
「なに読んでるの? ニュース?」
「んーとね、小説」
「へ~どんなジャンルの小説?」
どんな、ジャンル……?
いま読んでるストーリーは、序盤でトラックに撥ねられて神様の手で異世界に転生。転生した先で魔法使いになって、師匠の魔女と恋に落ちる……この感じだと、
「ラブコメ、ないしファンタジーかな」
読んでる印象的には、文が簡略化されてて、とっつきやすい感じ。
「日野さんが読みそうだね」
ニコリと肩越しに微笑まれた。なんだか、目が笑ってなくて怖い。
茉梨関連になると、恐ろしくなるなぁ。
二十話中半分あたりまで読み終えて、息を吐いた。
読んでると、こっちまで恥ずかしくなりそうだった。
山田さんは『性癖を詰め込んである』みたいなことを言ってたけど、確かにそうだ。なにもかもが主人公にとって都合良く、無菌室で丁寧に治療されている印象を受けた。不都合を徹底的に排除した世界だ。
現実逃避の傍らで描く妄想に似ている。
ある日、唐突に隕石が落ちて地球滅亡シナリオを構想したり、授業中に乱入するテロリストと、それを退治するシチュエーション。
そういった妄想の延長が、中二病か。
「できたよ~」
テーブルに、蒸気をほかほかと昇らせる一品が置かれた。
シンプルなオムライスだ。ケチャップで中央にハートマークが描かれている。
「……反応に困る」
「愛を受け止めてね」
からかうように目を覗き込まれた。
目を逸らしながら手を合わせる。
食事中も終始なぶられて、オレは居心地の悪い昼を過ごした。
「秘密基地に行こうよ」
と、凪ちゃんの提案。
昼下がり、ふたり並んで田舎道を歩く。
外は雲ひとつない晴天だった。道すがら、今晩の夕食とか思い出とかを話す。
田んぼは水張りを終えていて、青々しい空を反射している。田んぼの海みたいだ。やがて、目的の場所につく。
山の麓、平地の森。
この木立の奥にある洞穴、そこに秘密基地がある。
風が吹くと、森のざわめきが生まれた。
雰囲気が怖いな……野生の獣が出てきそうだ。
「ホラーな感じがするね……」と、震える声で凪ちゃんがオレの肩に触れる。
「どうする? 引き返す?」
「いえ、進みましょう……!」
生唾を飲み、恐る恐る忍び足。
コンクリートで舗装こそされていないものの、ここは寺社に通じる裏道だから、道沿いに草は生えていなかった。
不気味だ……陽は射していて道は明るいけど、隅に追いやられてた影の中からナニカが出てきそうだ。たとえば、妖精みたいな……
『お、ユーシャ=サマ! みっけ!』
どくん、と心音が鳴った。
呆気にとられるオレの横を通り過ぎて、妖精が周囲を旋回する。
言葉を失うオレを嘲笑して、
『クラリーサがマホウジンのテンカイをカンリョー、した!』
クラリーサって……橘か!?
魔法陣の準備が整ったってこと……?
瞬間的に自分の死を連想して、腹の底で恐怖が蠕動する。
「どうしたの、立ち止まって、なにかいるのっ?」
怯えた凪ちゃんの声で我に返った。
「いや、なんでもない」
努めて平静を装い首を振る。
凪ちゃんまで不安にさせるわけにはいかない。
『ジャアナ! ツタエタゼー!』
ケケケ! と悪趣味な笑い声を残して、妖精は高速で飛び去っていった。
唖然と見送り、固い声で呟く。
「……行こう、秘密基地に」
「平気? 顔色悪いよ、家に帰りましょう」
「だいじょうぶだから」
自分が思っているよりもでかい声が出て、森に響く。
感情を押し殺すように、奥歯を軋らせた。
「……逃げも隠れもできないってか、くそ」
妖精がオレを見つけられた以上、オレに安全な場所は無いはずだ。
向こうの動機が如何に荒唐無稽であれ、肌に触れた殺意は本物だった。楽観していると、そのまま殺される。
「ごめん、大丈夫なんだよ、本当に」
「大丈夫じゃない、こっち見なさい」
ぐい、と頬に両手を添えられて無理矢理方向転換させられた。
凪ちゃんは真剣な眼差しでオレを見つめている。
「何を悩んでるの? 日野さんのこと? クラスメイトのこと?」
「違うよ、全然……」
「じゃあ、昨日のことだね?」
図星を指されて、狼狽しかけた。
「ごめんね……私、ワガママだった。昨日事件に巻き込まれたのに、連れ回したりして」
気づけば、凪ちゃんの肩に顔が載せられてた。
頭を抱きしめられて、鼓動がうるさくなった。
ちょっと視線をずらすと、黒髪を掻き分ける耳たぶが見える。
きめ細かい白い肌とか、ちょっと朱い頬とか。
目を閉じると、嗅覚が代わりに研ぎ澄まされた。
華のような女の子の香りが胸を満たす。
「ちょ、ちょ……凪ちゃん!?」
じたばたと抗議する。
こんな子どもにするみたいな……!
「あなたは昔からそうなの、ひとりで抱え込んで、いつも笑ってた……」
「や、それは単純に頭があほで、辛くってもすぐに忘れてただけだから……! それよりも喋られると、首筋に息がかかってこそばゆい……!」
「首、弱いんだ」
まずい、このままじゃ喰われる……!
拘束を抜け出して、凪ちゃんを睨み付けた。
「子ども扱いするなっての」
「も~甘えていいのに」
「やめて、死にそうになる」
主に羞恥心で。
えー、と渋々腕を引っ込めると、凪ちゃんは窺うように見上げてくる。
「一歳しか離れてないんだぞ」
「一歳の壁はでかいんだよ」
誇るな、胸を。
「励ましてくれるのはありがたいけど、どうにも和やかな気分になれない。申し訳ないけど」
首筋に添えられた死神の鎌。
お先が真っ暗で、粘ついた不安に襲われる。
「本当に? 平気?」
「……平気だ」
ぼそりとした声。火照った顔を、薄ら寒い現実が冷ます。
「いまは凪ちゃんと話したい」
「へ、どういう意味……?」
もしかしたら、最期の時間になってしまうかもしれないのだから。
◆
「なつかしいな~」
洞穴に声が反響する。
昔の甲高い声とは違い、低い声が返ってくる。
曖昧な記憶を探りながら、洞窟を進む。
山の側面を小さく抉る穴が、幼きオレ達の秘密基地だった。
薄暗い洞窟をスマホのライトで照らし、かつての根城を観察する。
「ここはほとんどそのままだね~」
「まあ、うん……おもちゃとか雑誌とかは全部片付けたっきりだけど」
凪ちゃんが都心部に引っ越す前日に、ふたりで思い出の品々を分け合い、それ以降はオレも訪れるなかった。
秘密基地とは名ばかりの、既に廃墟となった洞窟だ。
「野生動物の巣になってたりしてね」
このあたりには狸がいるし。
「……それは寂しいね」
切なそうに、凪ちゃんは呟く。
「居場所がなくなったみたい」
そういえば、秘密基地を片付ける日も、凪ちゃんは泣きじゃくっていたっけ。
自分との思い出を大事にしてくれているのが、ひどくむず痒い。
「なんて、今更言っても仕方ないけど」
一瞬見えた。凪ちゃんの顔はくしゃりと崩れていた。
湖面に濡れた瞳。
意地っ張りな魔女の姿が、凪ちゃんと重なる。
変わり果てた思い出の景色を前に、茫然と立ち尽くす姿。
あのときは、慰めの言葉もかけられなかった。
居場所がないと、人は孤独になる。
それで息もできなくなるくらいに窒息してしまう。
拠り所が必要なんだ。
そこまで考えて、凪ちゃんが何を言って欲しいのか、感じ取れた。
「おかえり、凪ちゃん」
きょとんと、目を丸くしてから。
凪ちゃんは弱々しく微笑んだ。
「不意打ちがすぎるんだけど……ただいま」
逆光でよく見えなかったけれど、目元を拭う仕草をしていた気がした。
「実はね、不安だったんだ」
「不安って……なにが」
思い当たる節がなく、オレは首を傾げる。
「ケイくんが変わってないか」
「いや、変わったってば」
洞窟に残響を打つ声は低くなったし、凪ちゃんとの身長さは逆転した。
「ううん。いつだってケイくんは、私の還る景色」
祈るような響きに、オレは何も言えなくなる。
思い出ってのは、案外簡単に消え去る。馴染みの店が潰れたり、一緒に過ごしていた家族が亡くなったり。
「でも、そんなに言われるくらいの理由がないよ」
「体弱くしてた私を、あなたは直向きに支えてくれた。此処で腫れ物扱いにされる私達家族を励ましてくれて、周囲を懸命に説得してくれた」
ぐい、と距離を詰められる。
後ずさると、壁際まで追い込まれた。
に、逃げ場がない……!
「でも、でもね」
不意に、彼女の口調が暗くなる。
怪訝に見下ろし、オレは次の言葉を待つ。
意を決して、彼女は薄い唇を開いた。
「茉梨ちゃんも、同じなの」
「あいつも?」と、思いがけない単語に目を剥く。
「あの子も私といっしょに戦ってくれた」
そういえば。ふたりは幼馴染みだったのだ。
茉梨と凪ちゃんが仲睦まじく会話する光景……想像できないけど、とても微笑ましいものに思える。
「私の病気を治してくれたのは……茉梨ちゃんのおばあちゃんなの」
「嘘でしょ」
皮肉に唇が歪む。
でも、茉梨の言葉を信じるのなら、あり得ない話ではない。
常識外の力を持つ魔法使い、それが茉梨の祖母なのだ。
難病だって、きっと解決してしまうかもしれない。
「……もちろん、ただのおまじないだよ? でも、茉梨ちゃんは本気で信じてた」
もう亡くなられてしまった以上は、真偽の確認はできない。
確かなのは、その出来事がきっかけで、茉梨の魔法使いへの憧れは深まったということ。
「中学校で再会したときには、既に出来上がってて……」
「説得を試みるも、撃沈と……」
簡単に経緯が理解できる。
あれは、筋金入りの妄想少女だ。
それに、最近では妄想の裏付けがされてしまった。
手の施しようがない。仮に、橘クラリーサとの事件が解決したとしたら、今度こそ茉梨の居場所は異世界だけになってしまう。
自分を肯定できるのは、異世界のみなのだから。
「ならオレはどうすればいいのかな?」
「う~ん、わからない!」
「はぁ?」
清々しい笑顔を向けられて、オレは眉をひそめた。
生徒会室で話したときは『傍に居てあげろ』と命じてませんでしたっけ……
「ケイくんなら、茉梨ちゃんが求めているものが何かわかるかもーって思ったから」
「いやいや、わかりません。あいつ、めちゃくちゃ複雑怪奇だよ」
「見つけられるよ。あの子の欠けた部分を」
「……常識?」
そういうことじゃないよ~と凪ちゃんは呻いた。
……オレが、茉梨にできること。
視界が切り替わる。
〝運命瞳〟を起動させて、世界を一変させた。
『クラス:聖女』『68272937』――
あるいは、この魔法なら居場所を作ってやれるかもしれないけど。
って、変な数字が映っている?
凪ちゃんの頭上、運命に寄り添うように、数字が秒刻みで減少していく。
「なんだ、これ?」
慌ててオレの頭上を仰ぐと、同じく数字が見えた。
けれど、『128802』と、少ない数字だ。
心音と同じリズムで下一桁が減り続ける。
――――カウントダウン?
「どうしたの? 寝違えちゃった?」
吐き気がする。
これは、まさか。
秒数で計算すると、一日は86400秒……換算すれば、およそ一日半後、ゼロを迎える。
焼けるような焦燥が全身を巡る。
「まさか」
寿命、なんてことはないだろうな。
運命に寄り添うカウントダウン。そんなの、不吉の象徴みたいなもんじゃないか。
知らず、息が荒くなっていた。
「ケイくんっ?」
「ごめん、ちょっと立ちくらみ」
ははは、と乾いた笑みが漏れた。
カウントダウンに目をやり、視界が切り替わるのを待った。
白々しい沈黙が訪れる。
口火を切ったのは、縋るような凪ちゃんの言葉だった。
「……ケイくんも、変わらないよね?」
なんだか、凪ちゃんとの距離が遠く感じた。
彼女はノスタルジックなフィルターでオレを透かし見る。
オレは、魔法という荒唐無稽なもので。
「ごめん」と、声がうわずった。
変わらないでいたら、そのまま魂を刈り取られる。
運命を受け入れるか、ねじ曲げるか。
なんて、中二病チックな思考で考えてみる。