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駅とは真逆の方向に、オレは足を向けていた。
閑静な住宅街の一角、年季と気合いの入ったアパートが、章の家だった。
スマホの案内を止め、ポストから『林崎』の名字を探す。……あった、二階か。
さび付いた鉄製の階段を上る。
ピンポーン、と扉の傍の呼び鈴を押す。
程なくして、中からふくよかなおばさんが出てきた。
「ども、クラスメイトの火堂ってもんです」
「あら~~! あきくんの友達!?」
「へへへへ」曖昧に笑って後頭部を掻いた。
友達かどうかはわかんない。章がオレを悪く思っていなければ友達だけど、本人がどう感じているか次第だなぁ。
章のお母さん(暫定)は、濁した言葉の裏を好意的に解釈して、にこにこ笑っている。
「章くんに届け物がございまして」と、ノートを差し出した。
まだ入学したてだから、授業は本格的になっていないけれど、不登校が続けばついていけなくなってしまうかもしれない――ということで、オレなりに三日分の授業をまとめたノートだ。
五島先生は、これを渡すと伝えたら「えらいね~!」と頭を撫でながら住所を教えてくれた。ぐっじょぶだ、先生の頭の緩さ。
章のお母さんは、自分のことのように喜んでくれた。
「あらも~! 章ったら、ノートを忘れたのね! どうも、届けてくれてありがとう!」
「いえいえ、道すがら寄っただけですから」
「章ももうすぐ帰ってくるはずよね、ちょっと寄り道多い子だから~帰るの遅いのよね~!」
違和感が浮上する。
いまいち、会話が噛み合ってない感じがする。
「……外出してるんですか?」
「学校帰りにゲームセンターに寄ってるんじゃないの?」
「あ、そうでしたね」
あははー、と胡乱な笑顔で誤魔化した。
……そうか、お母さんには不登校を伝えてないんだな。
心配させたくないのか、言いにくいのか。
どちらにせよ、章の意思を尊重すべきか。
「章くんって、楽しそうですか?」
「ええ、中学よりよっぽど。奇声もあげなくなったし」
仄かに笑顔が曇る。
中二病の頃を思い返しているのだろうか。
章の中学時代を詮索するのは憚れた。本人が秘密にしたがっている以上は、不用意な追求は避けるべきだろう。
「じゃ、長居するのも悪いんで」
「とんでもないわ、そうだ!」と、エプロンのポッケから取り出した飴ちゃんを手渡された。
「ありがとうございます……」「仲良くしてあげてね」
会釈を残して、帰路に戻った。
冬の名残を映し出す夕暮れの街並み。
田舎とは違って明かりが多い分、どうにも季節の感覚が鈍りそうになる。
いま、オレが取れる選択肢は多くない。
なにが出来るか、なにをすべきか。互いを照らし合わせながら、オレは歩を進める。
「ああ、いらしたいらした。探しましたよ」
突然、うなじに向けて声をかけられた。
ぞぞ、と悪寒が走る。
「勇者様。お迎えにあがりました」
振り返ると、いつぞや見かけた紅髪の女性がいた。
クールビューティー……!
腰まで届く長髪は抜き身の刀身を彷彿とさせる危険な輝き。
左目を、枝垂るように前髪が覆っている。
鋭いが愛嬌のあるつり目には、どことなく親愛の情を感じさせて……って、いま、彼女は何を口にした?
勇者、だと?
「あなたは、どなた?」
止まった思考のまま、疑問だけが声になった。
「皇国シュリアより、あなた様を歓待に参りました――橘クラリーサと申します。あなた様を拝謁する歓びを賜ることを、なにとぞお許しください」
名前が橘ってことしかわからなかった。
恭しく優雅な一礼は、まさしく騎士そのもの。
オレは、茫然と彼女の頭を見下ろし続けるしかできなかった。
チリンチリン、と間の抜けた自転車のサイレンが横を過ぎ去る。
「――はっ!」フリーズしていた脳が解かれた。
体感で三分間くらい彼女の頭を下げさせてしまっていた。
彼女は彼女で、そのままの体勢で微動だにしない。
これ、オレの許しがいるとかそういうやつなのかな?
「あ、頭をあげてください」
グィイン、とすごい勢いで頭が持ち上がる。
あまりにも力強く、オレはクレーンみたいな重機を連想した。
背筋をぴんと伸ばした姿は、オレより頭ひとつ分でかい。モデルさんみたいな長身だ。
「……場所を移しましょう、あなたはなんかすごいこう、とても人目につく」
「仰せとあらば」キメ顔とでも言わんばかりの微笑であった。
◆
「おや、女性連れだね。内密の話かい?」
と、茉梨のおじいさんは奥の席に迎え入れてくれた。
「先達としての忠告だが、複雑な女性関係は一時の快楽と引き換えに、致命的な結末を招くよ」
地を這うような声で耳打ちされ、冷水を浴びたと錯覚するほどの悪寒を感じた。
とんでもない誤解が生まれてる……!
オレいま、複数の女性と交友してるって思われてるのでは……!?
誤解を訂正しようにも、オレは目前の不安要素で精一杯だ。
からん、とテーブルに置かれたグラスが氷を転がした。
「橘クラリーサさん、でしたよね」
口火を切った。緊張のあまり、舌がもたついた。
正面の謎の女性は、凜としなやかな佇まい。
豹を想う。黒い外套に、尖った瞳。獣の敏捷さで、狙った獲物を必ず仕留めるのだ。
「仰る通りです」
整った卵形の顔を引き、首肯する。
心臓の鼓動が数段早くなった。
年上の綺麗な女性と会話した経験は、凪ちゃんを除いてほかにない。
同年代ならまだしも、年上の方となると必要以上に体がこわばってしまう。
「あなたは、オレを勇者だと?」
「ええ、ボクは魔法界より、勇者様を送迎する任を仕りました。恐れ多くも相席の悦をいただけるとは、至上の誉れと心得ております」
ボクっ子だとぉ――!? 心の中で山田さんが、雷撃をバックに驚愕する姿が浮かんできた。邪念去るべし。南無三。
とんちんかんな事を言うひとだ。茉梨の回し者だろうか。
「ごめん、さっきから何を言っているかさっぱりです。可能なら最初から順を追って話してもらいたいです」
「かしこまりました」
彼女は、淀みの無い溌剌とした発音で語り掛けてくれた。
人類史は魔法の文明史と同義であり、我々は常に魔法と共にあった。
魔法は人々を豊かにし、発展を促してくれた。
しかし魔法を悪用し、支配するものもいた。
野生の魔獣と共に、文明の滅亡を目論む邪悪な存在を、我々は魔王と呼んだ。
人類を救うべく、我々は勇者に適する魂を探し求めた――
「……なるほど」さっぱりわからなかった。
オレは宇宙をバックにぽかんとした表情になる。
渋面をつくり、こめかみを軽く親指で打つ。
彼女の話は異次元の文面で、こう……映画のエンディングロールみたいに下から上に流れていった。星間戦争をする某SF映画のオープニングとも言える。
「なんか、遠い国の話を聞いてるみたいだ」
「勇者様のあらせる世界と、我々の世界の歴史は大きく異なります。自然を軸にした文明と魔法を軸にした文明……発展する文化が違えば、あらゆる差異は生まれましょう」
「話が壮大で、ちょっと把握しきれないですね」
たまらず、背もたれに身を任せて大きく伸びをした。
ここ最近、自分の常識外のことで説法を受けている。
都会ってこういう場所なのか?
「あの……日野さんのお知り合いですか?」
「ヒノSUN……いえ、覚えがありません。力添えできず、申し訳ありません」
「ああいやこちらこそ」
調子狂うなぁ。橘さんは熱心に気配りをしてくれる。
どういう態度で接すればいいのやら。
「日本語、達者ですね」
「ああ、こちらですか――――――」
後半、まるで聞き取れなかった。
唇は動いているが、何を発しているか、脳が理解を拒んだ。
特殊な言語だ。雑音が混じって正確に伝わらない。
「と、魔法で調整しています」
「……はぁ、すごいですね」
「光栄です!」
にぱー、っと朗らかな笑みを向けられた。
某未来猫の秘密道具に、自動で言語を翻訳してくれる食べ物があったけど、それみたいなものだろうか?
「それで、ホントはどんな用件なんですか?」
「ですから」と口調を強め「あなたを迎えるのが、ボクの本懐です」
橘さんの真意が読めない。
勇者を迎えに来たって……新手の宗教の勧誘としか思えない。
「オレ、魔法なんて知らないし、勇者に至ってはまったく知らない。オレでは力になれそうにありませんので、どうかお引き取りを」
「ご謙遜を。それに、ご自覚がないだけかと」
「自覚もなにも『オレは勇者です』なんて言いふらしてみてよ、たちまち珍獣扱いです」
そんでたちまちカウンセリングのお世話になりそう。
「ボクも、あなた様と同様の瞳を持っています」
「……全然目の色違うけど」
オレは淡いブラウンで、橘さんは鮮烈な紫だ。
紫水晶と見まがう瞳が窄まり、オレを射貫く。
「外見ではなく、本質の話でございます」
「視力は良い方ですけど」
「まだ半覚醒状態でしょうが、勇者様は既に魔法を宿しています」
「はは、そうなんですね」
愛想笑いを浮かべた頬がひきつく。
……逃げられない。
「〝運命瞳〟はあらゆる本質を見抜きます。その御眼をもってすれば、魂の根幹を掌握することすら可能」
「付き合ってられないです」
グラスの水を飲み干し、会話を打ち切る。
茉梨と同じ人種だ。ちっともこちらの言い分を聞きやしない。
頭痛がする。こめかみの奥に、針が突き刺さっているような感覚に目眩がした。
「申し訳ありません! あなた様を煩わせるつもりでは……!」
「なら、茉梨……日野さんと共謀して中二病に巻き込むつもり?」
知らず語気が荒くなった。
いい加減うんざりだ。
ひとをからかうのも大概にしてもらいたい。
「橘さんが日野といっしょに楽しんでるのは構わないけど、オレとはソリが合わない……ちゃんと気に留めてもらいたいです」
橘さんは、考え込む表情になり顔を俯かせた。
心苦しいが、最近の経験を通して理解した。彼女ら中二病は別の角度の常識を持っている。同じ言語を扱うが、意思が重なることは滅多にない。
「止むを得ません、どうしても魔法を納得いただけないのなら」
心底残念そうに、彼女は溜息をこぼした。
オレの心に冷たいものが走る。
なんだ、なにを企んでいる?
紫水晶の瞳とぶつかる。
顔が熱くなった。顔が、近い。
「僭越ながら、あなた様の体に魔力を流し込んで納得いただきます」
「どうする――つもりだ?」
「ふふ、どうしてほしいんですか?」
蠱惑的に微笑んで、彼女はオレの世界を狂わせた。
視界に魔力が満ちる。
見えてはいけないもの、聞こえるはずがないものが、確かな感触と共に訴えかけてくる。
『クラス:女子高生』と、揺れる文字。
『お、ユーシャサマ! ヒサしぶり!』
いつぞや目撃した妖精が、快活な声をかけてくる。
見えない、見えない、見えない!
心に唱えながら、頭を抱えて突っ伏した。
「第三観測世界である此処では、微弱な魔力しか扱えませんが……あなた様の御身に魔法を定着させる栄光のためなら、決して困難ではありません」
「言ってる意味がわかんねーんだよ!」
奥歯を軋らせ吼えた。
「中二病だ! こんなの!」
耐えがたい苦痛だった。
自分が否定してきた妄想の産物。
そんなの差し出されたところで、オレは不安になるだけだ。
噛みつくように、オレは向き直る。
「オマエだな、茉梨にオレが勇者だって伝えたの」
「……おや、まさか、魔王と交流がありましたか」
日野茉梨。魔王。
今日、茉梨は『騎士が教えてくれた』と囁いていた。
彼女は知らないはずなのに。
いまさら推理するまでもない。茉梨に密告したのはこの人だ……!
「勇者様、ご存知でしょうか。我々は魔王と幾千もの間戦争をしてきました」
夢遊病に犯されたような酩酊感のなかで、声だけが響く。
彼女の声には、遠い時代の空気を感じた。
血の退廃が孕んだ、戦いの乾いた風だ。
「多くの土地が枯らされました。多くの尊き命が失われました。多くの騎士が、故郷を守るために剣を握り、破り去りました。幾多もの戦いの因縁を精算できるのは、あなた様の高潔なる魂だけです」
『ま~アタシはどっちでもいいんだけどナ!』
ケラケラと不快な笑い声。
「あなた様の魂をお連れする手段は、ふたつ」
ぴんと、彼女はしなやかな指をひとつ立てた。
「巨大な魔力を蒐集し、魔方陣を構築すること。ボクは、この方法で門を開き、第三観測世界に転移して参りました」
『そしてそして!? もうひとつは!?』
「魂魄の癒着を解剖する、こちらは手荒な手段になりますが、あなた様のご意思は関係ありません」
淡い色の唇が、小鳥のように呟く。
「すなわち、殺す」
「本気、なのか?」
「あなた様にボクが嘘をつけるとでも?」
正直な分タチが悪いな!
唇を噛み、痛みで意識を刺激する。
胡乱な意識を引き戻し、彼女を仰ぐ――と。
「では、参ります」
信じられないものを見た。
身の丈はあろう西洋剣。最低限の装飾と、刀身に刻まれた異界の文字。
どこから取り出したのか、彼女はそれを軽く握りしめ、オレに突きつけた。
「場所を移しましょう。あなた様の説得は、そちらで」
混乱で痺れた思考は、体を動かさない。
まずい、まずい死ぬぞ、オレ! こんなふざけた動機で殺されて、なにも出来ずに!
「あ、」
目前にまで迫る凶刃は。
「伏せなさい!」と、鋭い声が飛んできたのと同時にピタリと止まった。
窓を突き破り、人影がテーブルの中央に着地した。
遅れて、破片がパラパラと周辺に転がり落ちる。
「な――」ローブを翻し、中二病の少女は現れた。「茉梨……?」
「ええ、あなたの師よ!」
「魔王っ! 魔法も扱えぬ貴様が、どうやって拘束を抜け出した!?」
「ナンセンスね、騎士」
言いつつ、茉梨は上品にローブの裾をつまみ上げた。
「能ある鷹は爪を隠す――レディの嗜みは、決して表に晒さないものよ?」
まさか、茉梨も魔法を?
ごとん、と物騒な音が手元から鳴った。
ん? と視線を向けると、テーブルの上に煙をぼうぼうと上げる煙玉が五つ転がっていた。
サーっと顔が青ざめる。思いっきり物理だ。
「お許しください、おじいさま!」
瞬間、光と音が炸裂。
ば、爆発オチかよ!?
「来なさい、バカ弟子!」「ちょ――!」
「待て、卑劣な!」
背後の怒号を置き去りにして、ひたすら走る。
「な、なんだよアイツは!」
「不明、いまは走ることだけを考えなさい!」
舌を打ち、焦燥に駆り立てられるように足を急がせた。