5.Reversal(逆転)
皮膚の薄い向う脛は、人体の急所の1つでもある。そこを思い切り蹴られては堪らない。
「うっっ!」
アダムは唸り声をあげて前に倒れ込んだ。背中を丸め、蹴られた右足をさすりながら悪態をつく。
「クソっ、何しやがんだ。このアマっ!」
勢いがかって声をあげる。だが、目の前に女刑事の姿はなかった。
― どこへ行った? さっきまでは、そこにいたのに ―
「ふふん、ルナシティの下水道に住むドブネズミ以下の”ゴミ”。そんなカスが、一端の叫び声をあげるんじゃないわよ」
ヤバいっ、油断したっ。
咄嗟に後ろを振り向こうとした時、首筋に仕掛けられた冷たい感触。
アダムが背後から咽喉を締め上げられたのは、その瞬間だった。同時に背中に激痛が走る。リアのハイヒールの細い踵が彼を足蹴にし、背後からその首を締め上げている姿は容易に想像ができた。
「ぐっ、お前、やっぱり……」
反撃したくても、息が苦しくて身動きがとれない。
― くそぉ、この女、何て力なんだ ―
女刑事はせせら笑う。
「怖い怖い。あなた、私の動きを探っていたのね。”ゴミ”は始末するものよ。始末してこの世から亡くさなきゃねぇ。男のゴミは汚らしすぎて、触る気にもならなかったけど……今は仕方ないわ。ああ、念のために警告しとくけど、私、ルナシティ警察の空手大会を、3連覇中なの。だから、腕力には自信があるのよ」
息ができない。せっかく、絞殺犯の手がかりを掴んだっていうのに。嫌だ、俺はまだ、死にたくない!
リアは、喘ぎだしたアダムをせせら笑う。
「今更、何の抵抗よ? スラムの人間なんて、生きていても、意味がないでしょ。夜な夜な遊びまわる女の子たちの将来は、売春婦かごみ溜めの清掃員よ。憐れじゃないの。だから、私は殺してやったの。今のトータルは5人だっけ? そんな悲惨な運命から、彼女たちを救うために。それに、あなただって、さっき、言ってたじゃないの。『アダムくんは、6歳の時に母親に絞め殺されそうになりました。でも、その時、彼は思いました。”ぼくは、死んでも良かったんだ。母親が優しいままでいてくれたなら”……って」
だからね……と、女刑事はありったけの優しい声で、握りしめたブランドの皮のベルトに力を込めた。
「殺してあげるわ。アダムくん、優しく、優しく、歌いながら、あなたの母親より、もっともっと、やわらかな声で」
My song is soft
(私の歌がやわらかに)
The singing voice
(その歌声を)
Replace it with gentle words
(優しい言葉にすり替えて
Steal his life
(彼の命を奪ってゆく)
Inviting to a friendly retreat
(優しい隠れ家に誘いながら)
リアの美しい声が脳裏を巡る。
やがて、咽喉の苦しさがが薄らぎ、心臓の鼓動が聞こえなくなる。ふんわりとした柔らかな感触が、体に沸き上がってきた。そして、もう何も感じない。
― 俺、死ぬのかな ―
アダムは、半開きになった眼を空に向ける。こんな不遇な生活に手を差し伸べてくれた人だっていた。それに報いぬままで、死ぬのは嫌だ……それに、彼女は俺に言ったんだ。
”スラムの泥にまみれても、まだ、私たちは、汚れ切っていない”と。
― だから、一緒に生きてゆこう ― と。