桜奇譚
不肖ながら小説を書いてみました。花も実もない極めて拙い処女作ですが、暇つぶしに読んで頂けたら幸いです。
与助は先刻から微醺を帯び、渋面をして蹣跚と町へ向かっていたが、軈て踵を返した。桜東風吹く往来は、煦々たる春日を浴びて、おっとりと流れている。気を鬱している自分と春風駘蕩の趣とが余りにそぐわないので、与助は居た堪れなくなった。
与助は暫くふらふらと歩いていたが、ふと眠りから覚めたような心地で周囲を見廻すと、見知らぬ池畔に出ていた。池の周縁の桜並木がぐるりと池を囲むように臚列している。泬寥たる春昼の花霞は、その見かけとは対蹠的に、闃として得も言われぬ妖しさがあった。
朝暉を浴びるように、与助は花の雲を仰いだ。風そよぐ万朶の花は、虚空に降る霏々の霰に似て美しい。然かと思えば、飛花のひらひらと舞う風情は雪に似て果敢ない。散落ちた花弁は俗世の空気に触れて、霧消してしまうようだった。
夢見草と云う言葉を与助は思い出した。夢の中の桜がどんな桜か知らないが、奕奕たる桜に深雪がしんしんと降れば、あるいはこの幻境の趣を呈するかも知れないと、与助は夢現の間に眼前の桜を眺めて、恍惚としていた。
「うらやまし心のままにとく咲きてすがすがしくも散るさくらかな」
梢に鳴く鶯のような女の声が与助の耳朶に響いた。与助は声のした方を顧みた。その刹那、与助の眼前に一人の女の姿が娉婷と現れた。
一尺ばかりの距離にあると思った女の姿は、存外にも一間ばかり先にあった。だが、与助にとってその隔たりは丸で知覚の対象外のようであった。そうして女は古びた檜木の腰掛けに座している。
「咲代子、咲代子じゃないか」
与助は叫んだが、彼の胸裡の言葉は外気に接せず、指呼の間にいる鶯の羽風にさえ戦ぎはしない。
女は華奢で、色の白い瓜実顔に緑の黒髪を銀杏返しに結っている。その雲鬢の返照が与助には眩しかった。
与助が返事をせずに黙っていると、今度は、桜がお好きなんですか、と他人行儀に聞いた。嫣然と笑っている。与助はその微笑みの中に懐かしいあるものを認めた。
「まあ嫌いじゃないね」
与助は相好を崩して応じた。
咲代子は腰掛けをとんとん叩いた。
「お掛けにならなくって? 」
与助は誘われるままに、それじゃあ、と一揖して咲代子の隣に掛けた。近くで見る女はより一層美しく、嬋媛たる黒髪に瑰麗な簪を笄した風情は、丸で錦上に花を添えた如くの美しさで与助の目に映じた。
「桜が好きなんですか」
今度は与助が聞いた。
「ええ、自然が好きですの。天然自然なものこそが美しいと思うわ」
「人はどうだろうか」
「人も自然の一部ですわ」
「それじゃあ、君はどうなんだい」
咲代子は一瞬、狼狽えて眼を丸くしたように見えたが、
「相変わらず、素直な人ね」と微笑んだ。
「相変わらずの朴念仁です」
咲代子は「まあ」と言って笑ったが、すぐに真面目な顔をして言った。
「私は潔く逝けない、初夏の葉桜ね」
与助は口を緘して、桜を眺めながらこう考えていた。その純粋さこそが、最も強く美しい感情なのだろうと。
小風嫋嫋と緑濃き黒髪を梳る。打垂れ髪が与助の顔にそっと触れる。さようならと咲代子は言った。
女は座を立ったかと思うや否やふっと消えてしまった。
すると忽ち、大地が凍て解けたように鳥語花香賑やかに、与助は下宿近くの公園につくねんと座していた。眼前に立つ桜は、空花乱墜の霊妙な趣などない、平生の桜だった。
風が吹いて、花弁がひらひらと散落ちる。何でもない粋然たる風景だ。だがそれ故に美しい。
与助は残された簪を掌中に弄びながら「葉桜のころはまだか」と呟いた。