四十一
職員室では各教師への挨拶として振る舞いながら、こちらの要望を添えた。仲根や久保野などこちらに引け目のある存在や、普段雑用を聞き入れている存在などを主な対象とした。
「学生である間にたくさんの交流を持ちたい」、「今まで同じクラスになったことがない人ほど興味が引かれる」、「転校生など知り合う機会が少なかった人ほど密な時間を持ちたい」、などの話を組み合わせた。これだけ言っておけば大抵は意図が伝わるだろう。
職員室を出ると時計を見た。早く済ませるつもりが、それぞれにしっかりと伝えてしまったため時間を取ってしまった。
早歩きで廊下を急ぐ。もしかして、彼女は帰ってしまっただろうか。どうしよう、『どうしても伝えたい』という頼みごとを聞き入れなかったのだとして「貴様は所詮その程度の奴なんだな」などと言われてしまえば。
いや、大丈夫、彼女ならきっとまだ待っていてくれている、はず。
ようやく下駄箱に辿り着き靴を履き替え外に出れば、前方に梓真さんがいた。目が、合ったような気がした。
すると彼女は今までに見たことがないほど花開くように笑い、こちらに向かって手を振った。
――思わず背後を確認した。
誰もいない。
つまり、僕に?
――僕に⁉︎
みた、みたかあの顔を。誰も見ていない? 嘘だろ、いや最高の事実だ。
いや、ど、どうして彼女があんな風に笑うんだ。見間違いだったかもしれない、多分『強めの幻覚』とかいうアレだ。
もう一度彼女を見れば、しゅん……としたように俯いていた。ち、違う無視したわけじゃない――つまり、現実だった……?
とっ散らかった頭と足で、彼女の元へ急いだ。
こ、これは、期待しても良いのだろうか……⁉︎
目の前に立てば、彼女は顔を上げた。
「あ……あずま、さん」
真っ直ぐな瞳がこちらを見上げる。
僕は日本語を喋れているのだろうか。
「『どうしても』したい、話って……なに」
「聞いてくれるのか?」
久し振りに聞いた声で、彼女の声を思い出す。忘れていたわけではないけれど、懐かしいような気がした。彼女は笑って話していたときと変わりない声だった。
『どうしても』と書いていた割に、彼女は随分と下手な反応だった。僕は強張ったように、ぎこちなく頷いた。
すると彼女はまた笑った。ど、どうしてこんなに笑ってくれるのだろう。
「これから時間はあるか?」
「大丈夫だよ」
「実は……ここでは確かめてもらえないことなんだ。だからその、一緒に来てほしいんだが、頼めるか?」
彼女が少し自信なさそうに言った、その不透明な内容に混乱を極める。
――ここでは? 確かめる? 確かめるとは何を、僕が? どこに?
放射線状に思考が散る。僕はその回収を諦めた。
もう何が何だか何にも何一つ分からなかったが、彼女にとって何かがあるのだろう。どこに行くとしたって現状、二人きりなわけで。あの日が最後だと思っていたけれど、今日が最後だと思えば……良い、のか?
「ワカッタ」
手放した思考のまま僕は頷いた。
二人でバスに乗り、途中からまさかとは思ったが、着いたのは羽山の別荘だった。あっという間の永遠な距離だった。
ここに来て良いのだろうか。いや良くないだろう。何一つとして良いところがない。特に僕の精神状態には常時、多大なる負傷を受けそうだ。
リビングにて「待っていてくれ」と言われたので僕はテーブル席に座ってから微動だにしなかった。
様子から察するに、どうやら彼女は料理を始めたようだった。まさか。……まさか?
彼女が、僕に手料理を? 彼女の手料理を……? 僕にわざわざ? これは現実なのか?
でもそれで彼女があれほど笑うのか。彼女が、僕に?
何か、僕は何か見落としているんじゃないだろうか。これが現実なわけがない。あまりに都合の良い夢だ。現実の僕は寝過ごしているんだろうか。
もしもこれが現実とすれば、一つの可能性がよぎる。これは最後の晩餐なのかもしれないと。
彼女をあんな目に合わせたのは、僕が原因だ。僕は復讐されたとして、おかしくはない。
ぐるぐると巡り始めた思考は流水プールとなった。もういっそ浮き輪で島流しにでもしてくれ。
巡った思考がサーフボードで沖に出たところで、目の前に器が置かれた。これはたぶん、リゾットだ。
僕は半ば驚きとともに顔を上げた。
「梓真さんが作ったの?」
「そうだ。私の中での、区切りが付いた。だから一度、君に確認してもらいたかった。わけも言わずに連れて来て、すまなかった」
「い、いや、別に……良いんだけれど」
そ、そうか。試食ね。なるほどね。
思い上がったような結果でなかったのは当然といえば当然だし、彼女に復讐心があるようには見えないし、これは良いことだ。……とても、良いことだ。
しかし本当に復讐でないかどうかは食べなければ分からない……。彼女に限ってそんなことをするはずはないという思いと、予想できないのが彼女であるというせめぎ合いが起こった。
「君には遥かに及ばないが、とりあえず食べてみてくれないか。判定がほしい」
そう彼女から自信なげに言われてしまえば、食べずにはいられなかった。例え満腹であろうが全てを平らげる。こんな梓真さんを疑うなんてどうかしている。
フォークを握れば、強い視線を感じた。彼女に正面からまじまじと瞬きすることなく見つめられている。手が震えそうな気がした。
胴で開幕の銅羅が速度を増して鳴り響く。
もはや何に対する緊張なのか分からない。
一口、咀嚼して飲み込んだ。
彼女は変わらずこちらをじっと見ていた。僕は求められていた役割を思い出す。
「美味しいよ」
おいしい。おいしいけれど、味が分からない。おいしいのは分かるけれど、これがどういった味なのか分からない。美味しい梓真さんの手料理を食べている、僕が、彼女の住む場所で、付き合ってもいないのに。恋人でも何でもないのに。手料理を食べている。……許されるのか?
彼女はよりまじまじとこちらを見ていた。
「そんなに見ないでほしいな」
穴が開くとはこういう気分なのか。僕は小さく主張したが、彼女は変わらずこちらを見ていた。
そして彼女は真偽を確かめるように言った。
「本当か?」
味は詳細を分かっていないけれど、美味しいことは確かなのだ。僕は梓真さんの手料理を食べている……。
「うん。シンプルだけどしっかりした味だ」
僕が告げれば、彼女は安堵したようだった。ようやく強烈な視線の呪縛が解けた。
梓真さんからあんなに熱烈に見つめられたのは初めてだ。いや熱烈じゃないか……。熱烈じゃないよな……。
「その、良ければ改善点だとかを聞きたいのだが」
彼女は再び自信なさそうに言った。
僕は笑って否定するように首を振った。
「ううん。これはこれで良いと思う。梓真さんには梓真さんの味がある。僕だってあくまで趣味の範囲だし、プロみたいに食べただけで全部が分かるわけじゃないから」
「そうなのか?」
――正直に言えば、今は味が分からない。
そう言ってしまうのはあまりに情けなくて、プライドによって憚られた。誤魔化すように説明を付け加えた。
「単純な味付けの話なら分かるけどね。やっぱり工程を見ないことには改善すべきところとか、そういうのはまだ分からないかな」
「そうなのか……」
彼女は純粋にこちらの言葉を信じたようだ。
いや別に嘘を言っているわけじゃないんだけれど。嘘ではないんだけれども……。
僕はもう一度美味しいと言えば、味が分かってきたような気がした。
そして彼女はようやく自らの料理を食べ始めた。
やはりここは、常時精神的な負傷を受ける。精神は早々にもうボロボロの状態だった。生きて帰れるだろうか。
料理を食べ終えても、彼女は帰れとは言わなかった。
彼女は用事が終わればすぐに解散しようとするのだから、まだ何かあるのだろう。
こ、今度は一体何なのだろうか。本当に何も予想できない。
「待っていてくれ」と言われたので、そのまま再び待機していれば今度はお茶を出された。何だろう、何なのだろう。これから僕は一体どうなっていくというのか。
期待と困惑が混沌と渦を巻きながら彼女を見れば、何となく嬉しそうに見えて、本当にさっぱり何も分からない。顔を合わせられない。
一体何があると言うのだろう。どうして彼女は僕の前でこんなに穏やかそうなんだ。……そうだ、僕がいるのに、だ。わけが分からない。
「面白くはないんだが、君に少し話を聞いてほしい」
「なに?」
切り出すように彼女からの提案があったことで、僕はようやく安心して笑った。
……そうか、話を聞くだけか。今回の件は何も知らない人には言い辛いこともあるだろうし、何か相談でもあるのかもしれない。もしくは……訴えられるとしても、彼女の言い分はしっかりと聞き届ける。
「私は以前、自分の作った料理で気持ち悪くなったことがあった。変なものを入れたとか、味が壊滅的だとか、そういうのじゃなかったんだ。両親は美味しいと言ってくれていたから、おかしなところはなかったはずだ。私自身、味として問題はなかったように思う。カレーなんて、よっぽどのことをしない限り、不味くなりようもないだろう? だが、ただただ気持ち悪かった」
……カレー。
さすがにその話は誰にも予想できなかったことだろう。
彼女の過去を直接聞くのは初めてだ。僕は彼女の話を真剣に聞いた。
彼女はどこか懐かしむように話を続けた。
「異物を口に運んでいるようだった。けれどこうして今は、普通に食べられるようになった。そしてそのきっかけをくれた、君に感謝している。君と会うことがなければ、今でもまだ、料理を嫌厭していたかもしれない」
彼女は穏やかに笑って言った。
自分の、胸が熱くなるのが分かる。
彼女に感謝を告げられると、それだけで全てが報われるようだった。まるで出会えて良かったと、言われたような気がした。
少しだけ、秋良さんが初めて作ってくれた料理を思い出した。それはきっと料理そのものの味ではなく、精神状態が大きく影響した味だ。それを心の味、というのは変だろうか。
世間話をするように、僕は彼女に尋ねた。
「そのカレーは、初めて作ったものだったの?」
「そうだな、最初から最後まで自分だけでしたのはそれが初めてだった」
「じゃあ他の状況はどうだったの? 作った理由とか、そのときの気持ちとか」
彼女は真剣に思い出そうとしているようだった。
「たしか……母に用事があって、作っておいてくれと頼まれていたときだった。不安だったとは思う。自分で材料を確認して、どうやって切るのか、何から炒めていけば良いのか。大体は分かっていたけれど、それでもいざ自分でしてみるというのは、緊張していたかもしれない」
「今はどういう気持ちで作ってるの?」
「今は……リゾットだけに関して言えば、ある程度慣れたからな。怯えなどはない。特に何かを考えているつもりはない」
今の様子を見れば、料理に対して過去の彼女よりも自信をつけたのだろうということは見て取れた。「慣れた」程度には回数もこなしたはずだ。
それならば、僕が思い付く原因は簡単なものしかない。
「じゃあ単純に、当時は自信がなかっただけじゃない? 初めてで、緊張していた。美味しくなるのか、分からなかった。料理ってほら、最後の調味料は『気持ち』だ、とか聞いたことはない? 美味しくなれ、とかそういうの」
僕は自嘲を含めて笑った。現時点で僕は心理的影響を多大に受けていた。
「科学としては有り得ないことなのかもしれない。でもその影響を受けるのは人間なのだから、全くの無関係とも思えない。人間と感情は、切っても切り離せるものじゃない」
僕は切り離そうとして、却って深く繋がっていることを実感した。僕には感情を切り離すことができなかった。
そもそもは起因が、感情に大きく影響していたものだったから。兄を好きでなければ、探そうとは思わなかっただろう。そして梓真さんと今、こんな風に話していることもなかった。
「感情は味覚に影響するだろうし、その感情に影響するのはまた、『美味しくあれ』と願う作り手の感情なんじゃないかな。根拠はないけれど、思い込みとかそういうのって、重要だと思うよ」
思い込みが僕を突き進めた。突き進んだからこそ梓真さんと出会えた。思い込んでいた自分を後悔したこともあったけれど、結果としては僕に必要なことだったと今は思う。
思い込んでいなければ、梓真さんと出会えなかった。梓真さんと出会っていなければ、僕は今の自分とはまた違った僕だったと思う。きっと銅羅も何もない、伽藍堂の胴だった。
僕は笑って彼女を見た。
「だからただ、これは『美味しいものだ』とか『美味しいに違いない』とか、そういう過信も、時には必要なんじゃないかな」
少し彼女は考えていた。そして穏やかな声で言った。
「……ああ。その言葉を聞けただけで、君を知れて良かったと思う」
彼女は春風のように笑う。
「君と、出会えて良かった」