三十八
名を呼ぶ声に、彼女は顔だけをこちらに向けた。
「……如月」
僕と彼女以外には誰もいない廊下だった。
呼んだのが僕であると認識すると、彼女はもう少しだけ振り返った。
「ありがとう、助かった。感謝している」
彼女はゆっくりと目蓋を閉じてから開いた。柔らかな動作に、彼女の本心を垣間見た気がした。
彼女は――許しているのだ。怒ることなく、そしてそれは諦めでもない。始めからもう、全てを許している。
見ている世界が、根本的に違うのだと知った。もしかすると違うのは、世界ではなく次元なのかもしれない。
途端に、自分がひどく小さな存在に思えた。僕は込み上げる感情によって、深く頭を下げた。
「梓真さん、ごめんなさい」
彼女を苦しませたのは僕で、彼女が暴力を受けた原因も僕だ。
一言も謝ることなく彼女の前に立っていることが、おこがましいような気がした。
そしてそんな大罪人をも、彼女はすでに許しているのだと感じる。けれど、僕を許してほしくなどなかった。
許されてしまえば、こちらを顧みることなどないのだろう。どれほどしっかり掴んでいても、握った糸を断ち切られてしまえば、もう天を仰ぐ以外に僕はどうすることもできない。
「構わない。元気でな」
彼女は体を戻し、再び進み始めた。残された僕はいつも佇むだけ。
「待って」
――行かないで。そばにいてほしい。
そんな単純な言葉さえ言えなかった。それは今も変わらない。
彼女は立ち止まったまま、振り返りはしなかった。
「何でしょうか」
温度のない声に胸が痛む。
「どうして弁解しなかったの。どうして、助けを求めなかったの」
「無駄、かつ不可能だ。相手がいない」
「部活の人たちは」
彼女は首を振った。そしてまた少し振り返ると、こちらを鋭い眼差しで睨んだ。
「迷惑は掛けたくない。君も。サイコパスと話していると、頭がおかしいと思われるぞ」
彼女は敢えて悪し様に振る舞った。それは糸を断ち、こちらを切り離そうとしている姿だ。
ならば切れない鎖を。進むことのできない錘を。
もうどこにも。
「梓真さんを悪く言うのは許せない。たとえそれが梓真さんでも」
彼女は少し見張ったような目で、こちらを見たまま動きを止めた。
やがて動きを再開するように、窓の外を見ながら話した。
「……義侠心や義憤、正義感は扱い辛くて苦手でね。渡されたところで手に余るんだ。彼女たちの行動も、それらに由来するものだった。だから、怒っていいのは、当事者だけだ」
「僕も当事者だ」
彼女は困ったように笑った。
「ああ、なら怒るといい。彼女たちが心配していた。君が笑わなくなったと」
「だから怒ってるんだよ」
これは怒りだ。悲しみを、奮い立たせるための原動力に変えるもの。それは溢れ出しそうなほど。
「笑えないのは……梓真さんのせいだ」
いつも一人でいようとするから。振り向いてなどくれないから。他者を隔絶して己の身を守ろうとするのに、その自分の価値すら蔑ろにする。結局は誰一人として信用していないのだから。
そして貴女の信用に値しない自分へ嘆きを覚える。
僕は彼女に一歩近付いた。
「だからその張本人の、梓真さんに怒ってる」
真に全てが許された世界なら、それは幸せなのかもしれない。けれど彼女の中には、やはり例え僅かでも諦めが入っているのだ。
本当は誰も信じていないのだろう? 再び一歩彼女に近付く。
本当は何一つ信じてなどいないのだろう? さらにもう一歩、二歩、彼女の元へ。
「どうして誰にも頼ってくれない? どうして一人で終わらせようとする?」
目の前にいる彼女は困惑したように眉を寄せ、こちらを見上げた。
潤む黒い瞳は、ひどく幼い子供のようだった。取り残されたような眼差しが、確かに彼女の中で存在していた。
急いで大人にならざるを得なかった部分の代わりに、成長できなかった部分が取り残されているようだった。それはあの日、一人布団の中で頭を抱えていた自分とよく似ていた。
彼女はただ首を振った。
「その道しか知らない」
逃げ出しそうな手を、取り残された手を取る。冷たい指先だった。
「誰でも良いから頼って。僕を利用して」
彼女は眉間をつめたまま、眉尻を下げた。そしてその次には、綺麗に笑って頷いた。
「ありがとう。さようなら。君には感謝している」
彼女はするりと手を引き抜いて、背を向けた。歩き出した彼女を引き止める術は、今の僕には何もなかった。けれど。
捕まえようとしてもうまく握れない細い糸は、簡単に手の内を滑っていく。それでも、必ず。
彼女が見えなくなるまで、立ち止まったままその背を目で追っていた。
終えたところで古賀と連絡を取った。まだ校内にいるようだ。僕は古賀に彼女をバス停まで見届けるように連絡を入れた。古賀は突然のことに少し疑問が浮かんだようだが、少ししてから理解を示し実行に移した。
それから僕は生徒指導室に戻り、追加の説明を済ませると新田とともに帰された。新田と連絡先を交換しておき、彼を下駄箱まで見送った。
その後しばらく生徒会室で待機していると、古賀からの連絡が入った。何事もなかったとの報告を受け、僕は安堵した。古賀はそのまま帰宅すると告げ、こちらは礼を返した。
外面的な問題はこれで一つ、やるべきことは終えただろう。だが根本的な問題は解決していない。
どこから探るべきか。原因でもある僕が、現状すぐに宮原たちに接触するのはまずい。新たな問題を引き起こしかねないだろう。違う角度からの視点が必要だ。
新田は現場に居合わせたということで接点があっただけだ。彼の関係者を調べても意味はない。
新田以外の当事者と普段から関係のある者――。
宮原たちの交流はあまり把握できていない。そういった場面での頼みの綱である長谷見は封じられている。ならば……梓真さんの親しい人は。
今回の件が突発的なものだったのならば、望みは薄いだろう。しかしそうであったという確証もない。
もしも計画性があったのなら。
もしも予兆があったのなら。彼女に近しい人物だけが感じられる違和感のようなものがあったのであれば。
あるかどうかも分からないものに望みを掛けて、僕は彼女の部室を訪れた。
辿り着いた部室の扉をノックし、返答を待つ。「どうぞ~」と気の抜けた男の声が聞こえてから、部屋に足を踏み入れた。
扉を閉めて室内を見れば、中央の机を囲んで座るその場に居た全員がこちらを凝視していた。口を小さく開けている者もいる。
最奥に座っていた庄司が心底不思議そうに尋ねた。
「何か用だろうか」
「少し尋ねたいことがあって」
「……我々に?」
「そうだね。しばらく時間をもらっても良いかな」
僕が笑って告げた要望に、数秒沈黙が落ちる。
「分かった。そこの椅子に座ってくれ」
やがて告げた庄司の言葉に、井門が隣にあったパイプ椅子をこちらの方へと押し渡した。井門は無言でこちらをじっと見ていた。
僕は笑って礼を告げその席に着いた。ある意味彼は横で良かったのかもしれない。
「それで話とは」
庄司が仕切るように話してからも、全員がこちらへの視線を止めなかった。
日頃注目されることはよくあることだが、明らかに今まで得てきたものと種類の違う視線は少しむず痒かった。
何から言えば良いのか……。普段ならばすらすらと出てくる言葉も、彼女に関することはなぜかうまく頭が回らない。僕はゆっくりと話した。
「……何か聞いていることはないかな」
「質問が不明瞭なのですが。『何か』は一体何を指しているのでしょう」
鈴のような声で八木が鋭く言った。八木の指摘は最もだった。
彼女に何か異変はなかったか。彼女は何か相談をしなかったか。適切な質問が思い浮かばない。しかし説明しなければ話は進まない。
僕は笑って答えた。
「あず……七瀬さんについて。何か聞いていることとか、様子の違うこととかはなかったかな。その、例えば……いやまず、この部活には最近来ていたのかな」
再び場に静けさが訪れた。自他ともに、もう少し円滑なやり取りはできないものか。僕はただ、笑うことしかできなかった。
「……いや、実は来ていなかった。如月はアレか、その、もしかすると例の動画について調べているのか? 生徒会長というのは、そんなことまで仕事なのか?」
庄司は少し言い難そうにしながら真面目に答え、こちらに疑問を返した。
――実は来ていなかった。
表面上は来ているはずだったということ。
様子を見るに、ここでの人間関係が問題とはあまり思えない。以前訪れたとき、彼女はそれなりに楽しそうにしていたように思う。来ていなかった原因は部内にはないはずだ。
僕は考えながら、質問に答えた。
「いや役割として当て嵌められないことはないけれど、別に義務ではないんだ。つまりその、言ってしまえば個人的な活動にはなるのだけれど――」
「ゴシップ好き、というわけではなさそうですね。何か彼女と関係が?」
言い訳のような回答に、八木が切り込んできた。丸眼鏡の奥で、鋭利な視線が宿っていた。
この部の相手には、なんとなく嘘が通じないような気がした。
「実は……今回の件に関して、僕が彼女に迷惑を掛けた立場なんだ。だからその、せめてもの償いに何か分かることがあって、助けられることがあるのなら、と」
「…………なるほど」
八木が呟き、佐倉は手振りを付けて言った。
「でもさ、ほんと最近全然来てなかったから分かんないよ?」
「ああ。正直、役立てるとは思えないね」
佐倉の発言に、井門もこちらを見据えながら同意を示した。僕は笑った。
「いいや、些細なことでも良いんだ。ここに来てたときの様子とか。来ていたのはいつ頃で、いや……来なくなったのはいつ頃なのかとか。来ているときには何か悩みとか、困っていたような様子とかもなかったかな」
それぞれが顔を見合わせ、少し考えているようだった。
長い沈黙のあと、やがて鼻をすするような音が聞こえた。見れば、轟がなぜか泣いていた。
慌てたように佐倉と井門が問うた。
「えっえっ、どしたの」
「どうしたブン太?」
「お……俺が言ったんだ……!」
轟は震えながら言った。僕は疑問を顔に浮かべながら、彼の主張を聞いた。
「恨まれてたんじゃって。何か悩んでるっぽかったけど、俺がそんなこと言ったから、ほ、本当はもっと、余計に悩ませたんだ……! だからもうここへも来ないつもりなんだよ、俺のせいなんだ!」
そうして思い切り泣き始めた轟を両隣の八木と庄司が宥めた。八木はどこからか取り出した箱ティッシュを渡した。
……恨まれていた? 彼女が?
彼女は基本的には自ら積極的に誰かに悪意を振るう人ではない。加害されそうだと判断したときに打って出る。
仮に彼女が誰かに悪意を向けたとして、その時点ですでに誰かから悪意を向けられていたはずだ。
轟が「恨まれていたのでは」と判断する程度にはすでに彼女へ害意は降り掛かっていた。そしてそれはこの部活へ出席していたときからすでに……。
「来なくなったのはいつから……」
「テスト明けから見てないよな」
「テスト明け……」
では丁度、僕がここへ訪れた日が最後の日だった……。少なくともあの日からすでに、彼女は何かを悩んでいた。僕はそんなことにも気がつかなかった。
彼女を気に掛けているつもりで、結局は気に掛けているフリをしていただけだった。ままならない、あまりにも。全てが全て、僕は彼女を何一つ助けることができず、ただ迷惑だけを掛けている。
であればこそどうして、彼女は僕を許すのか。許されないはずの僕を、何もできない僕を、どうして罰することなく見逃してしまうのか。僕はとうに、眼中にないだけなのか。
僕は努めて穏やかに笑った。
「どんな悩みがあるって言っていたの?」
「いや、具体的なことは誰も聞いていない」庄司が言った。
「じゃあ一体――」
「例え話だ。シ、七瀬は例え話をした」
井門がこちらの目をしっかりと見て言った。
例え話……。「友達の話なんだけれど、」で始まる当人の話だろうか。彼女がそんな話をするようには思えないが……。
「どんな例え話だったの」
「殺人事件ですよ」
不穏な内容とは不似合いである、八木の軽やかな声が転がった。
「殺人事件……?」
「はい。自分は殺人事件の容疑者であると。その場にいる人間の中で、自分が一番疑わしい存在なのだと。その場合の自分はこれからどうなっていくのだろうと」
その場合、そのまま行けばその容疑者が捕まるのだろう。それは当然の結果で、捻りのない単純な話だ。
「それって……」
「ええ。答えの分かりきった仮定ですよね」
それはつまり彼女は「分かっていた」ということを示している。分かっていたけれど、自分の容疑を晴らす術はなかった。だからこそ投獄される身を憂いていた。
「その話をしていたのはいつ……?」
「一ヶ月ほど前の話です」
「一ヶ月……」
思わず出た僕の声には驚きが混じっていた。庄司がさらに付け加えた。
「話したのがそれぐらい前だから、悩んでいたのはそれよりも前からだとは思う」
一ヶ月より以前から、彼女は分かって悩んでいた。けれど僕は何も気が付かなかった。
僕は本当に、何も見えていなかった。何一つ彼女をまともに見ることができていなかった。
後悔ばかりがひたすらに、頭の中でせめぎ合っていた。




