三十七
カーテンからの薄い日差しは特に変わり映えがなく、恨めしい朝だ。――いいや、希望の朝か。
必ず全てを自分の思い描く形へ向かわせる。手放したはずの何かとよく似た感情が、自分に満ちる感覚を意識の端に追いやった。
僕は登校しながら情報の整理とともに、車内で記録を見返した。同時に各々とやり取りをしたが、長谷見は昨夜から既読がなく、阿部と古賀から新しい情報はなかった。中島は新田と同じ班だったらしい。
つまり昨日は少なくとも梓真さんと新田の二人が掃除をしていたようだ。だから新田はあの現場を目撃したのか。中島に、新田の登校が確認できたら報告がほしいと連絡を入れた。
学校へ近付くほどに騒めきは満ち、教室へ向かう廊下でははっきりと聞こえる。一様に、いっそ示し合わせたように皆が皆、あの動画についての話をしていた。全身を駆け回る不愉快に、体中を掻き毟ることなく昨日と変わりない態度であった、ということだけで僕は褒賞を与えられてしかるべきだ。
教室で長谷見の存在を確認する。彼女もいつもと変わりなく端末を触っていた。
寄ってくる伴野や立尾、矢津に対応しながらも長谷見に催促を入れた。普段なら聞き流す伴野たちの言動も、今はどの情報がどう繋がるか分からないため、全てを真面目に聞いていた。
立尾を真っ直ぐ見ていれば僅かに頬を染めた。先程まで怖がっていたのは何だったんだ。
長谷見からの返信が来た。
『ごめん昨日寝落ちしてた』
『知ってる人いないっぽいわ』
謝罪するようなスタンプと共に送られてきたメッセージに、どことなく予感が当たったような気分だった。僕は適当に謝辞を返した。
長谷見は今回の件と、何か誰かと関わりがあるかもしれない。
もしも僕が主導を得ている場合でも同様にするだろう。長谷見を握るのは情報伝搬の効率が良い。
逆にいえば長谷見と交流があり、長谷見に頼みごとを言える関係ということか。しかし端末上では交流の多い長谷見から絞るのは得策ではない。
伴野を追いやった立尾と矢津の話からも目ぼしい情報はなかった。彼女たちとの会話を切り上げ、登校してきた藤村に交渉する。藤村はしっかりと頷いた。
そうして朝休みが終わる手前頃に中島から新田登校の連絡が入った。
昼に、新田が掛け合ってくれるかどうかが重要だ。しかし一番重要なところで自分は関与できず、藤村に任せることしかできない。どれだけ足掻こうと、結果としていつも大事なところほど運任せになってしまう自分が恨めしかった。
昼食を済ませて十分ほど経ったところで、藤村が生徒会室の扉を叩いた。出迎えれば藤村の後ろには……――新田がいた。良かった。僕は小さく安堵の溜め息をつき笑顔で彼を迎え入れた。
僕は新田に椅子へ腰掛けるよう勧めたが、彼はびくびくとして藤村が同じように促すまで座らなかった。このまま藤村には居てもらった方が良いかもしれない。
対面ではより新田の緊張を増幅させそうだったので、僕は椅子を動かし彼の隣に腰掛けた。さらに親身な様子で彼に笑いかけたりした。ようやく彼は少しだけ緊張を和らげたようだった。……うん。普通はこれが正しい反応だ……。
僕は懇切丁寧に彼の緊張を和らげながら話を聞いた。ぼそぼそとしどろもどろに話す様子が徐々に、ゆっくりではあるがしっかりと話せるようになった頃に藤村は帰る旨を告げた。振り返った新田に藤村は小さく頷いて静かに出て行った。
大まかな内容は既に理解できていたので、藤村と同じ時機に解散しても良かったのだが、僕はそのまま新田との会話を続けた。新田の方も同じく会話の続行を選択した。
そして普段は昼寝に割かれる時間もずっと、授業開始直前まで彼のストレスを緩和することに努めた。
彼には放課後、その効果を発揮してもらう必要がある。僕は勇気付けることに尽力した。全ては目的のためだったが、彼の置かれた状況への同情も少しはあった。
教師たちにこの騒ぎがどれほど届いているかは分からないが、大きく発展する前にできるだけ抑えるためにも、新田の協力は必要だ。彼は恐怖心さえカバーできれば協力してくれるはずだ。
何かあれば僕がサポートすると申し出たのだから、心配する必要はないと思うのだが……。いや、こんな騒動を起こしている根本的な原因なのだからむしろ不安しかないか……。はは……。
僕は何食わぬ顔で授業前の教室に滑り込んだ。既にいた教科担当は少しだけ驚いた顔をしていたが、僕はただ笑っておいた。
授業中、頭の中で巡っていたのは聞くべきはずの授業内容ではなく、新田の話やこれからの行動についてだった。
放課後になると梓真さんが生徒指導室に呼び出されたと中島から連絡が入った。意外にも教師陣の動きは早かったようだ。
今度は単独で新田の元へと訪れた。四組を覗けば、こんな時でも彼は教室を掃除していた。
彼から聞いた状況を考えれば、逆にそれは当然の行動ではあるのだが、多少の苛立たしさはあった。それは新田にではなく、そんな状況を作った宮原たちにでもなかった。
辿ればきっと、指し示すのは自分ではないかと分かる。ただ今は行き場もなくどうしようもない苛立ちが、あてもなく心中を漂っていた。すぐに新田を引きずってでも駆け付けたい、けれど。
彼が掃除を終えるまで四組付近で待ち、声を掛けた。再びびくびくした状態に戻っていた新田を宥めすかし、僕は協力を仰いだ。微笑んで雑談を交えながら指導室の方へと誘導していく。新田は乗り気ではなかったが、指導室までの廊下を歩く中でやがて義務感を覚え、植え付けた正義感に少しずつ飲み込まれていた。
そうして辿り着いた指導室の扉に僕はノックをした。そのまま扉を開け、失礼しますと断りを入れた。
目の合った久保野は険しい顔付きで、抑えようとしていたが僅かに険の滲む声で言った。
「ごめんなさい、今取り込んでいるのよ」
「ええ、その件で伺いました」
僕は笑顔で入室し、新田を促した。僕の背後から現れた新田に、久保野は少し困惑したような表情をした。
それまでの会話を聞いていなかった自分でも、空気が張り詰めていると分かる。
重苦しい部屋の中央にある机の奥には、久保野と仲根が座っていた。二人の対面に梓真さんは一人で座っていた。
彼女はこちらを振り返ることはなく、ただ前を見ていた。その後ろ姿に、僕はもう関わることはできない。
代わりのように、新田を彼女の隣へと座らせた。そこでようやく彼女は新田にだけちらりと視線を向けた。
「どうしたの新田くん」
久保野は親切そうに尋ねた。しかし新田は恐縮したように口を開かなかった。
新田のやるべきことは、こちらの方である程度傾向と対策を伝えたが、彼は必要最低限のことができるかどうかも怪しい様子だった。代わりに途中まではこちらが手引きすることにした。
僕は新田の肩を持つように両手を添えて、教師二人に説明した。
「先生方は、現在出回っている動画について、七瀬さんに確認を取っていらしたんですよね?」
「そうね」
久保野が頷いたのを見て僕は笑う。
「その動画の、元の動画を持っていたのは彼だったんです」
「元?」
腕を組んで小さく首を傾げる仲根にも、僕は笑って頷いた。
「ええ。生徒間で拡散されているのは、編集されたものです。数秒だけで、前後関係は曖昧ですよね?」
僕が指摘した点に対し、二人は顔を見合わせた。
新田は能動的に動く気配がなく、手取り足取り教える必要があるようだ。僕は新田に行動を指示した。
すると新田は黙ったままだったが、自分の端末を懐から取り出し、震えた手で机の上に置いた。教師二人に新田の持っていた動画を見せた。
しばらく室内には無音が満ちた。
梓真さんが暴行されている動画など二度も見たくなかったので、動画が終わるまでの間は机の上に置いた視線を端末からずらした。無駄に怒りを再燃させる必要はない。
やがて動画が終わったころに、息を飲んでいた教師二人が動きを見せた。
「……どういうことだ?」
仲根は彼女と新田を何度も見た。久保野は口に手を当て、分かりやすく身震いしていた。
「本当なの、七瀬さん。どうしてちゃんと言ってくれなかったの」
久保野の反応に梓真さんは軽く笑った。
「聞き届けられる様子でしたら申し上げました」
彼女の嘲笑するような態度に久保野は顔を歪ませ、あからさまに憤りを見せた。
「七瀬さん!」
「――先生」
僕は逆上しそうな久保野を遮った。
久保野はこちらを見て、少し冷静さを取り戻したようだったが、まだ勢いを収められていない。しかし梓真さんはどこまでも無反応だった。
そんな二人のやり取りに、こちらが怒りを覚えそうだった。
『聞き届けられる様子でしたら』ということは、久保野たちは頭ごなしに梓真さんが被疑者だと決め付けていたのだろう。そんなことに、あるはずのない期待が完全に消え去っていることを再認識して虚しくなる。
そして様子を見るに、弁解を一切する気のない梓真さんにもやるせなさが込み上げた。例え聞き届けられることがなくとも、自分の権利や価値は主張しない限り、勝手に認識されることなどない。人は所詮、自分のことしか見えていないのだから。
ああ。自分の価値さえも諦めた彼女が――憎いのだ。いらないというのなら、
僕にくれればいい。
暗い感情を沈め、僕は主張を紡いだ。
「被害者は七瀬さんです。忘れ物を取りに帰った新田君がたまたま現場に遭遇しました。ただならぬ雰囲気を感じて、動画撮影に踏み切ったそうです。しかし撮影していたことを彼女たちに知られ、脅迫まがいの行動で、この動画を利用されたようです。彼女たちの手により一度削除されたようですが、それより前に、彼が咄嗟にクラウドへ保存してくれていたものがこの動画です」
全員が黙って僕の話を聞いていた。
「新田君もまた被害者であり、多少の暴行を受けました。問い質すのは彼女たちであり、七瀬さんも新田君も、労られこそすれ、声を荒らげられる謂れはありません」
久保野は眉を寄せていたが、しばらくして謝罪を口にした。
「ごめんなさい、七瀬さん。酷い勘違いをしてしまって」
「七瀬、すまなかった」
つられるように仲根も謝罪を重ねた。
非を認めたということはやはり久保野らも生徒たちと同様に、あの程度の動画で彼女を悪人と決め付けた態度であったということが間違いないものになった。
それでいて正義を執行しているかのように酔っているのだから虫唾が走る。それは同時に、立場が違えば自分も同じことをしていたのではないかという懸念に対してもだった。
「では、帰宅してもよろしいですか。予定がありますので」
謝罪は受け取ったものの、淡々と告げて立ち上がった梓真さんに、周囲は驚いたように目を向けた。
その声で悟る。あの姿は、彼女の防御姿勢だ。彼女はどこまでも一人で対峙しようとし、そして常に逃げる機会を伺っている。
徹頭徹尾一人だと思っている。彼女の思考範囲は完璧な一人なのだ。
「……七瀬さん。何も、言うことはないの?」
久保野は混乱したような目つきで言った。対する梓真さんは僅かに笑った。
「要望は何も。新田さん、如月君、ありがとうございました」
彼女はこちらに体を向けて頭を下げた。視線が合うことはなかった。
「何かあれば他の方にお聞きください。失礼します」
そうして彼女は教師二人に向かってもう一度しっかりと頭を下げると、誰かが引き止める間もなく生徒指導室を出て行った。
残された人間は呆気に取られ、何も言えなかった。しかし僕は一人、胸騒ぎを覚えるようだった。――また、そうやって。
「すみません、また後で伺いますので。僕も一度失礼します」
僕は滑るように口に出した言葉どおりに、すぐに部屋を出ていた。彼女が向かったであろう方へと急ぐ。
あの日だってそうだった。いなくなる前に限って、笑って別れを告げるのだ。自分は呑気に、今日はよく笑うと思っていた。
人類の希望? そんなもの、博打にすらならない。原因なんて分からなくたって、悩みがあるなら一緒に解決策を探していけばいい。百二十度では見つけられなかった答えでも、二百四十度なら何か違うかもしれない。
どうしていつも一人きりの完璧な世界で、それだけで全てを完結させてしまうのだろう。どうしてその外にある世界を、一度も振り返ってはくれないのだろう。
無数にある世界の、たった一つで良いから。違う世界があることを知ってほしい。
あなたが鮮やかだと言った世界には、顧みる価値はないのか。
その背に投げることができなかった言葉を今度はちゃんと、知らない遠くへ行く前に伝えたい。一人で世界を進もうとするその背に。
「梓真さん」
伝えることさえできなかった、呼び止める声を聞いてほしい。




