三十五
テスト、卒業式、とイベントごとが立て続けに終わり、残った二年生としての生活は一ヶ月もない。
答辞を読むという重要な活動も終えたことで、自分にはもう個人としてやるべきことが何もなかった。
返されたテストの点数なども特に変わり映えがなかった。凪のような日々だ。
今日も長谷見や中島から彼女に関する情報は特になく、その他の誰からも、変な噂や話も聞こえてこない。長谷見の予見していた事態は杞憂だったと結論付けた。連絡のあった日から三週間以上も経っているのだから、もう今更あの行動を掘り返してまで彼女に何かする人物がいるようには思えなかった。
そして偶に見かける彼女は、常に薄く笑っているような気がした。僕から解放された喜びなのだろうかとも思ったが、纏う空気は逆にどこか重たそうだった。今まで見たことがない雰囲気にどこか違和感を覚えたが、どこに違和感があるのか分からなかった。
それ以上に、後悔に打ちのめされて意識はそちらに向いてしまう。言うつもりがないだとかと言っておきながら、結局口にしてしまっているのだから愚かの極みだ。浅薄愚劣の厚顔無恥だ……。もう穴蔵に住もう……。
「先輩それ、こっちです」
「ああ、ありがとう」
大場が広げる袋に、先程別の袋に入れたばかりのゴミを拾い上げて移し替えた。新たに拾ったゴミを袋に入れる。
「先輩、それはそっちです」
「うん。ありがとう……」
大場に指示されるまま、黙々と作業をこなした。そういえば、指示をするのはいつも大場ではなかったはず。誰がやっていたのか……阿部だったっけ。
放課後、高校の外周をぐるりと美化委員と共同でゴミを拾う、という作業をただただ続けていた。
「如月、らしくないな」
柏木が背後から声を掛けてきた。タバコの吸い殻、ビニールパッケージの切れ端、細々としたゴミを拾いながら僕は一言返した。
「そう?」
「以前は朝にやってただろ? 忙しそうだったというか、何というか。今は暇なのか?」
「そうだね」
「あとなんというか、辛気臭い」
「……そうかな」
柏木は大場に「なあ?」と同意を求めていた。大場ははいと頷いた。
「そうですね。使い物にならないです」
「だそうだ、如月」
柏木はこちらに話を振った。
「そっか……」
僕は返事をしたのに「ダメだな」「ダメですね」と言う声が聞こえた。何がダメなのか分からない。真面目に作業をしているというのに。
清掃が終わり、片付けも終えて解散した。帰るときにちょうど酒井と藤村が玄関から出てきたので一緒に帰ることにした。
三人で校門を出たあたりで後方から声が届いた。
「如月く~ん」
止まって声の方を少し見た。見れば瑞木だった。瑞木は隣に来ると、こちらを覗き込んだ。
「一緒に帰って良い?」
隣で「俺は良いぜー」と酒井が答え、藤村は「どっちでも」と呟いた。僕も合わせて「いいよ」と言った。
「良いって!」
瑞木が振り返って叫ぶと、追加で二人の女子が来た。形岡と茂澄だった。瑞木だけではなかったのか。
歩道を歩きながら、妙に嬉しそうな女子に周りを囲まれ、その上なぜか瑞木には腕を組まれた。ただ歩き辛いだけなのに、なぜ腕を組みたがるのだろう。そっと腕を離すと、瑞木に「どうして?」と聞かれた。
どうして――? それは僕の言葉だ。
「腕ぐらい良いでしょ? おんなじ子と一週間も帰ってたんだから」
何の話をしている?
「そうそう! あたしたちだって一緒に帰りたかった」
「ズルいよねぇ、一人だけ」
口々に茂澄と形岡も喋った。僕は疑問を口にした。
「今まで瑞木さんたちから『一緒に帰りたい』とか聞いたことなかったけど」
三人は視線を交わしていた。
「それはだって暗黙の了解っていうか……」
「今まで女子は誰もやってなかったから、やっちゃいけないと思って」
「でもあの子が良いならあたしたちだって、ねえ?」
何気ない話し方に、暗い感情が首をもたげた。僕は笑ったが、地の声が出ていた。
「一緒にしないでくれる?」
「……え?」
隣の瑞木は目を丸くしてこちらを見上げた。
なぜ彼女と比べられなければならない。比べることができる点など何一つないのに。
「君たちだって三人とも違うでしょ。一緒にしないで」
三人は慌てながらあははと笑った。そういう意味か、とも呟いていた。言葉どおりの意味でしかないけれど、何がそういう意味なのか。
「それは確かに違うけど」茂澄は苦く笑った。
「……でもそれって」小さく形岡が言った。
「と、とにかくどっか行こ! ほら、あの駅前の――」
瑞木が何かを提案しようとしたが、僕は遮った。
「君たち三人で行けば良い。僕は帰るから。藤村と酒井は?」
無言を貫いていた二人の意思を確認した。酒井は身振り手振りを付けながら焦ったように言った。
「ふ、振んなよそこで話をさあ! こえーよ、俺は知らねえ」
「興味はないね」
藤村が言ったところで、瑞木は僕の服を端だけ摘んで尋ねた。
「な、なんで? あの子とは笑って帰ってたのに?」
彼女と笑って帰っていたことと、瑞木と何の関係がある。僕が瑞木に話し掛けるなと言った上で、彼女とは笑っていたとでも? 我ながら驚くほどつまらない仮定だ。
僕は「ははは」と笑って瑞木を見て言った。
「じゃあ僕は笑ったから。満足してくれる?」
瑞木は立ち止まった。掴まれていた僕も足を止めねばならなかった。制服が皺になる。
やがて怯えたようにこちらを見上げたまま、瑞木は手を離した。
「どうして……?」
「あー、コイツ虫の居所悪いんだよ! 悪気はないから、な? じゃ! おい行くぞ」
酒井は僕と藤村の背を押して、少し早足で歩き出した。三人は後方で立ち止まったままだった。
自然と距離が開き、三人と遠く離れたところで酒井がこちらを咎めるように言った。
「お前もうちょっとうまくやってただろ。そういう腕って落ちるもんなの?」
「猿も木から落ちるからね」
僕は前を向いたまま杜撰に答えた。酒井は大きく溜め息をついた。
「よく言うよ。あ~、それをなんでさっきうまいこと使わないかな。もー俺に感謝してくれよな~。あのままだったら絶対ヤバかったって」
「……ありがとう」
「まー良いけどさ~。腹でも痛いの?」
「そうだね」
「変なもん食べたか」
「かもしれないね」
酒井は訝しげにこちらを見ていたが、その後は何も言わなかった。空気を割るように、藤村から話を切り出した。
「――如月。そっちが動かない限りは、こっちも動きようがないからな」
藤村は真剣な眼差しだった。以前彼は『わざわざ手を差し伸べたりはしないけど、掴まれた手をはたき落としたりもしない』と言ったけれど、それは既に十分手を差し伸べている姿だと思う。
彼の意外性に僕は小さく笑った。
「……うん。ありがとう」
すると酒井は挙動不審なほど、こちらと藤村を繰り返し見た。
「え、何なになに。何の話」
「取り引きの話」
藤村が答えれば、酒井はより慌てた。
「え、なんかヤバいヤツやってる?」
「ユウジョウという名の情報交換だ」
藤村は面倒臭そうに答えた。はは、友情ね。
一転、酒井は目を見開いてこちらとあちらを面白そうに覗き込んだ。
「ほー! そんなに仲良しサンだった?」
「さあ。如月次第だな」
藤村の言葉に僕は笑った。
「あはは。覚えとく」
「おーい俺は~?」
酒井はふざけながら自身を指差した。僕はまだ笑いながら言った。
「哲平クン次第じゃない?」
「うわ急に下の名前で呼ぶなよ気持ち悪いなー!」
「あははっ、『仲良しサン』には随分遠そうだ」
「そうだね夏樹く~ん?」
「うわ……。やめてくれるそれ」
「ほれみろ」
酒井は鼻で笑った。
やがて二人と別れて、僕は帰宅した。
用事を済ませると、ベッドに身を投げ出した。分からない。今まで、大抵のことは分かってきた。だから分からないことが分からない。何を分かっていないのかさえ。
僕はどうしたいのか。何をすれば良いのか。どうなりたいのか。目標も目的も全て消えた、僕は。一体何になればいい。何をすれば良い。どうしたら良いのか。
僕に残っているものは、何なのか。兄が残してくれたもの。彼女が残してくれたものは。
僕には時間が必要だ。けれど、無為に過ごす時間はこれほど、この身を切るものなのか。
今までずっと、邁進してきたつもりだった。結局は空回りだったけれど、それでも目標に向かって進んでいると思い込んでいた頃は、今ほど虚しくはなかった。
……ならば。目標を作れば良い。
しばらくは、目標を探すことが目標になりそうだった。
翌日の生徒会では以前と同じく、いずれ燃やされる物を前時代的な方法で書き起こす作業をした。
このような非効率的な作業ばかり強いられるなんて無駄かつ無駄の極みで無駄の塊だ。生徒会業務の半分は無駄でできている。
ああ、もっと電子機器の導入をするように予算を練ってやろうか。立候補時の公約なんて、当選が確実だったから曖昧で簡単なことしか並べていない。さっさと終わらせて――いやそもそも誰も覚えていないし、放っておいて注力しても良いだろう。
在籍中は、それを目標に生きるのも良いか……。
作業を早々に終わらせ解散したところで、阿部と古賀に僕は残るようにと言われた。疑問に思いながらも待機し、一年組が帰ったところで、僕は詰め寄られた。
「さて如月君よ、悪魔に惑わされているというのは本当か?」
「えぇ……?」
阿部の突拍子もない話に、僕は困惑が隠せなかった。
「確かに最近の会長はどこか反応が鈍いし、なんとなくボーッとしてるし、無表情が多いなとは思っていたけれど」
「い、いやいや。そんなことはない。全然。そして意味が分からない」
「金品を巻き上げられたとか、高価な物をたかられただとか」
「どこからそんな話が出てくるわけ」
「じゃあトラブルには見舞われてはいないと」
「そうだけど。だからさっきから何」
阿部と古賀は視線を交わし、束の間沈黙が訪れた。古賀が神妙に尋ねた。
「……本当に、誰とも何にもなかったんだな?」
「そうだね。逆に何かあったの?」
「――噂だよ」
僕は内心戸惑いを覚えた。
古賀の言葉を阿部が拾った。
「ああ。会長が悪魔に魂を奪われた、だとかは面白半分のものだが。まことしやかに囁かれているのは、洗脳されているだとか、弱みを握られ脅されているだとかだ」
「なんでそんな話が」
「如月君が悪魔七瀬に誑かされている……と」
カチリ、と十二で合わさった時計の針は進み始めた。時計から伸びるコードの先は、数本の赤い筒と繋がっていた。
挙がった名に、僕はあからさまに不快が湧くのを自覚した。アクマ? ふざけるのも大概にしてほしい。何にも面白くないしただ不快なだけだ。
意図せずして地の声が出た。
「……は。意味が分からないんだけど」
阿部は真剣にこちらを見る。
「何があった」
「いや、僕が聞きたい」
憤慨の声は隠し切れなかった。
「……何にも心当たりがないと?」
「誰がそんなことを言っているの」
阿部はこちらの様子を見て少し考えていた。
「結構な数だぞ。普段噂なんて一々聞いてないけど、私の耳にも入る程度には」
「ああ、俺の方も」
古賀も同意を示した。
結構な数、の割に僕が何も聞いていないのもおかしな話だ。それは長谷見や中島にも届いていないことと同義になる。
「逆に僕は一切聞いてない」
「そりゃ本人には訊き辛いだろう」
「だからって僕に全然届かないなんてある?」
「まあ今日一日で広まったようだからな」
今日だけでなら尚更、広がり方が自然でない。
古賀は再び阿部に同意した。
「確かに俺も初めて聞いたのは今日登校してからだ。内容からして前から広まってたやつだと勝手に思ってたけど」
「誰が言ってた?」
「ええ? 女子、ぐらいしか分かんねぇよ」
女子、か。範囲が広過ぎるな。僕は真面目に二人を見た。
「――二人とも、協力してもらえないかな。もちろん強制じゃない、けど。その話、調べるのを手伝ってほしい」
「ほぉ? その心は」
阿部が面白そうに言った。僕は笑みを浮かべた。
「僕の評価を貶すような噂を流布する覚悟のほどを知りたいねぇ」
「貶されているのはその『七瀬』さん、の方じゃないか?」
「両方だよ。だって僕に付け入れられる弱みがあると言っているのだから」
「……すごい自信だな」
「自信じゃなくて事実だよ。僕に弱みがあるように見える?」
僕が頬杖を付いて尋ねれば、二人は目を見合わせた。今、僕にある弱みは梓真さんだけだ。少しして阿部が笑い混じりに言った。
「いや、だからそう断言できるのがすごい自信だと……まあいい、その話は。我々は何をする?」
古賀は驚き自らを指して言った。
「ええっ俺もやるの確定⁉︎」
「黙って。話が進まない」
阿部は古賀を制し、僕は二人を見て宣言する。
「とにかく僕に情報を回してほしい。二人は誰かに何かしたりはしないで。ただ関係ありそうなことは事細かに僕へ連絡してくれるとありがたい。それと今日の時点で誰が言っていたのか、思い出したら教えて。追加で頼むことがあったらまた連絡する」
「了解」
「分かった」
阿部は頷き、古賀も協力の姿勢を示してくれた。




