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三十四


 彼女を抱き締めたまま、謝罪と感情が溢れていった。


「ごめん、言うつもりはなかった。困らせるつもりじゃ、なかった。言わないつもりだった。ごめんなさい。梓真さんのことが好き」


 自分でも情けない声だったように思う。

 ゴンゴンと背中を叩かれたことで、彼女を思い切り締め付けていたことに気付いた。力を弱めて腰に落ちた腕を、どうしてもほどくことはできなかった。彼女を離すべきなのに。

 離さなければと思うほど、離したくないと心の内で誰かが我が儘を言う。

 彼女は押し退けようとこちらの胸に手を当てた。コートの内側を強く押される感覚に、そのまま心臓が取り出されるような気がした。何かに気付いたように、彼女はこちらを真剣に見つめた。


「い……いつから」


 いつからだったのかは、もう分からなかった。自覚するよりも前から、いつの間にかずっと好きだった。それは今の人生だけを取り上げても、そうでないのならもっとずっと。


「気が付いたら。そう思ってたんだ」


 呟く声は沈んでいった。

 彼女は両手で強くこちらを押した。離れていくその両腕を僕は握った。

 彼女は落ち着いた声で言った。


「そうか。だがそれは……勘違いだ」


 放たれた言葉に混迷する。この感情が勘違いで済むのなら、僕は悩みなど何一つ抱えていない。


「どうして」


 彼女はどこか悲しそうな顔をする。そんな表情に胸が痛くなった。


「思い込み、だよ。君の過失だ。君はもっとちゃんとした利益を受け取るべきだった。君は、受け取る利益が少なすぎたんだ」


 責めるようでいて、彼女なりの優しさが根幹にあった。僕とは違う形で、彼女も僕のことを考えてくれていたのだと悟る。

 その見えない優しさをこそ、貴女のために使ってほしい。けれど貴女は。


「だから言ったんだ。破綻すると。対等でなければならなかった。利益と利益の釣り合いが取れていたのなら、君はそんな勘違いはしなかったはずだ」


 彼女の手袋に包まれた両手を握る。貴女はずっと、僕のことを考えていてくれた。

 ――気が付かなかった。ずっと、自分だけがそうなのだと思っていた。

 僕の思いとはまた、種類が違うのだろう。けれど純真に相手を労る心が、貴女の根底で輝いていたことに、僕はずっと気が付かなかった。

 その清らかさが、貴女の持つ真っ直ぐさだった。


「君は、受け取る利益よりも、渡す利益の方が多かった。人は矛盾している認知を抱えると、不快感が生じるらしい。君は私に利益を提供していくうちに――意識していたかは別として――大した利益もないのに、なぜ自分はこんなことをしているのかという疑問が生まれたはず。その矛盾を解消するための魔法の言葉が、君が私を『好きだ』と思うことだった。だからその感情は、不協和を正す整合性の――」

「勘違いのままではいけない?」


 この感情を伝えられたのなら。握る手が思わず力めば、彼女は俯いた。

 いつもは凛と前を向いていた彼女は、今日はどこかずっと自信がなさそうだった。


「……そうだな。それはまたいずれ君を苦しめるだろう。魔法が解けたときに、現実との違いに苦しむのは君だ」

「解けない魔法なら?」

「そんなものはないさ。いずれもまやかし、恋など一時いっときの勘違いだ。勘違いから我に返ったとき、目の前で散らかっている全てにうんざりするだろう」

「梓真さんはそんな経験があるの?」


 彼女は否定するように首を振った。


「いいや。だが、経験してなくても予想できることはあるだろう。君のため、私のため、互いのために、その勘違いから目を覚ますべきだ」


 勘違いであれば良かったのかもしれない。


「なら、どうしたら目が覚める? どうしたら貴女のことを考えずに済む?」


 彼女の手を額に寄せる。伝えることのできない全てを、勘違いだったと思える魔法をかけてほしい。それがきっと、一番の幸せなのだから。


「どうしたら、貴女の一言に喜んだり、貴女の行動に浮かれたりしないで済むの」


 彼女はしばらく何も言わなかった。やがて困ったように笑った。


「きっと時間が解決してくれるだろう。時が経てば忘れる。君は、今はゆっくりすると良い。今君に必要なのは時間だよ」


 彼女はこちらの手を握り返して下ろした。そのままするりと引き抜こうとする手を、僕はしっかりと握った。


「行かないで」

「――困る」


 珍しく感情を宿した声は、それが切実な心情であると分かる。彼女を困らせるべきではない。それは彼女を尊重したいという気持ちもあるけれど、僕自身がただ、彼女を困らせたくなかった。思っているのに、分かっているのに、この手を離せない。


「如月、離してくれ。もう帰ろう。暗くなってきただろう?」


 諭すような口調に、ただ申し訳ないと思う。

 離せないのはきっと、伝わらないもどかしさを収めることができないエゴからだ。伝えていないのだから、伝わるはずはない。それなのに誤解してほしくないと思う、横暴だけが膨れ上がる。

 この感情だけは嘘にできない、僕自身が心から思う感情だ。例え記憶が間違っていようと、この感情だけは間違っているはずがない。


「嘘じゃないんだ。本当なんだ。ずっと――」

「知っているよ。君は、そりゃ、腹の立つことの方が多かったけれど、嘘は言っていなかった。だから『付き合おう』と言ったときも、『好きだ』とは言わなかった。言えなかったんだろう? 本心の嘘はつけなかった」


 思わず僕は目を見開いた。

 好きだと言えなかった。それは今も、本当は言うべきでなかった言葉だ。

 僕は、僕自身の感情に蓋をしていた。それは必要がなかったから。目的のために、持っていては不自由だったから。

 冬治兄さんを探すために、秋良さんを好きになってはいけなかったから。羽山を探るために、梓真さんを好きになってはいけなかったから。それは彼女の言うとおり、不協和な感情だから。

 本当はずっと、始めから僕は好きになりたかった。秋良さんも、梓真さんも、羽山も、もっと沢山の人を。けれど、好きになってはいけないと、ずっと思い込んでいた。

 その感情があることで、目的を達成できない方が、もっとずっと辛いことなのだと思っていたから。人を好きになれないことよりも、兄を失うことの方がずっとずっと辛いことだと思っていた。事実、当時の自分にとってはそうだった。けれどその兄は、もう……いない。

 好きなものを、好きなことを、好きな人を、好きだと言えないことも辛いことなのだと、僕は――知らなかった。

 兄を失うことは、好きな人を失うことであり、好きだと言える人を失うことでもあった。そして僕はまた……好きだと言いたい相手のそばにいることができない。

 僕は始めから貴女が好きだった。それは、本当は生まれる前からだったのかもしれない。何が真実なのかは分からない、けれど。

 彼女は子供を宥めるように言った。


「さあ、帰ろう。君には(・・・)心配する人がいるんだから。別に、今生の別れでもないし、今はとにかく、やるべきことがあるだろう?」


 彼女の言葉に、また別の感情が込み上げるようだった。

 それは憤りだった。彼女は、自身を蔑ろにしている。普段は自身を強く守っているのに、いざというときにその自身を手放してしまう。その在り方は自己犠牲ではなく、自暴自棄なのだ。

 貴女は貴女の価値を、まだ知らないのか。その輝きを、自覚していないのか。


「梓真さんにも心配する人はいる。ちゃんとご飯を食べているんだろうか。偏った食事なんじゃないか」


 不摂生なら僕が何か作ってはいけないだろうか。


「手を切ったり、火傷したりしていないだろうか。怪我をしたら、疲れたら、癒やしてあげられないだろうか」


 慣れないことでどこかを痛めたのなら、支えになりたい。


「もしも風邪をひいて、熱を出したらどうするんだろう。誰に助けを求めるんだろう。ちゃんと誰かに助けてと言えるんだろうか。全部、一人でやろうとしてるんじゃないか。僕を頼ってくれることはないんだろうか」

「も、もももう良いだろう!」


 滔々と流れる感情を彼女は遮った。

 日が落ちて辺りは暗くなったのに、彼女の頬が赤くなっているのは見て取れた。


「ずっと、そんなことばかり」

「さ、さようなら!」


 彼女はふいに思い切り手を振り払った。そしていつか見た姿と同じように、気付けば遠くで背を向けていた。しかし一度振り返って、


「達者でな!」


 と叫んで全力で走って行った。ものの数秒で彼女の姿は小さくなって消えていった。

 疾風はやてのように去った彼女の後をしばらく見つめていた。残ったものは手の中にあるものだけだ。

 夕陽は沈み、冷たい風が吹くばかりだった。もう彼女と関わることはできない。これからは、ただ……生きるだけ。

 目的も、目標もなくなった人生だけれど、不思議と悲愴感はない。切なさや寂しさがないとは言わないけれど、それでも真っ直ぐに生きていける土台を与えてもらったような気がした。

 彼女が好きだ。それは変わらない。けれど、心に区切りを付かせることが、今の自分ならできるのだと漠然と信じることができた。

 長年抱え込んでいた不安や憂いは消えた。今はただ、生きるだけだ。確かに『今()に必要なのは時間』なのだと理解した。



 帰宅して、彼女から貰ったものを確認した。

 取り出した物が何であるかを認識すると、僕はからからと笑った。オリーブオイルだ。小さめの瓶に種類別で入れられてまとめられたものだった。初めて何かを貰ったのに、彼女らしさを感じるのはどうしてだろう。

 一頻り笑うと、笑いすぎて涙が出た。久し振りに心から笑ったと思うのに、何がそんなに面白いのか分からなかった。


「使えるわけない……」


 彼女なら「使うために買ったのだから使うべきだ」とか「使わないのが一番もったいない」だとか、きっとそういう類いのことを言ってくれるんだろう。けれど使えないと思ってしまう自分はやっぱり、未練がましいんだろうか。

 小瓶を見つめて呟いた言葉は、一人きりの部屋に残って響くようだった。






 翌日登校すれば、中島から彼女が「マスクをしている」と連絡が入った。

 言ったそばから風邪だなんて、本当に大丈夫なのだろうか。様子を見に行きたくて仕方なかったが、己を理性的に説き伏せた。

 詳しく尋ねれば、どうやら風邪ではないらしく、ただ単に喉の調子が悪いらしい。しかしもしも風邪のひき始めであれば……。だからといって自分にできることなどないし、干渉しては本当に迷惑を掛けてしまう。

 一週間は経過したが、何も起こらなかったし起きそうにもない。警戒し続ける方が疑わしい状況になってきた。それでももしもの事態に際し、これからも自分にできることはただ、見守ることだ。

 再び己を説き伏せ、テスト直前の見直しに集中した。

 数日に渡ったテストの総合的な手応えは、これまでと特に変わりはなかった。ただ違うのはテストが終わるたび、別のことを考えていたことだった。

 今はただ……僕には時間が必要なのだろう。失ったものも、残ったものもある。今はそれらを、整理していく時間が必要だ。

 けれど整頓せずとも分かる決定的な何かが一つ、大きく欠けているような気がした。



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