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三十三


 夕陽は徐々に沈もうとしている。蝋燭の火に似た赤い陽射しが、バス停を同じ色に焼いていた。

 同じく赤くなるコートのポケットに手を入れて立っていた。何をするわけでもない体は、肺から冷えていった。

 たくさんの言い訳を並べてきたけれど、結局のところ、自分の心情を整理するためにはこれだけの時間が必要だったのかもしれない。

 一週間、彼女や周囲の様子を見てきたが、特に感じられる異変はなかった。彼女は何も変わらなかったし、周りも特に変わらなかった。中島からは何の情報もなく、長谷見からも同様だった。

 長谷見の指していた事態は周囲の一時的な感情の発露であって、杞憂だったのかもしれない。そもそも何も起こらせないようにしていたのだから、起こったのでは意味がないのだけれど。

 何かが引っかかるような気もしたが、何なのかは分からない。分かったとしても、これからは直接彼女に関わってどうにかすることはできない。遠くから、できることはしたい。けれど、果たして何ができるのだろう。

 足音が聞こえる。音の方を見れば、彼女がこちらに向かって来ていた。長い髪がなびき、陽に赤く包まれていた。これで、最後だ。

 僕は笑ったが、彼女はどこか深刻そうな顔をして小走りに駆け寄った。彼女は変わらず、薄いマフラーと手袋をしていた。少しだけ鼻が赤い。


「すまない、待たせた」

「ううん。ありがとう梓真さん。来てくれて」


 彼女は僅かに視線を彷徨わせる。少しして口を開いた。


「どこかに入ろう。冷えただろう」


 僕は笑って否定するように小さく首を振った。もしも長くいられる理由があれば、決意は未練になるような気がした。


「いや、良いよ。梓真さんが帰るまでの間で」

「……そうか」


 彼女は小さく応えて歩き出した。しばらく互いに無言だった。僕の伝えるべき言葉は、最後にしたかった。それ以外で何かを話そうとするも、普段なら思い浮かぶ雑談も今は何も浮かばなかった。

 そんな無言も染みるようだった。きっとこれからは、もう何も得ることはない。

 すると彼女はふいに両手をこちらに突き出して言った。


「如月、これを……君に贈る」

「え、何?」


 視線を落とした先には、小さな紙袋が握られていた。


「君が……誕生日だと聞いた。それからこの前の礼を言っていなかった。ありがとう。次の……冬から使用する」


 気付けば僕は立ち止まっていた。また、彼女が分からなくなった。

 どうして、僕の誕生日を知っているんだろう。どうして好きでもない相手の誕生日にプレゼントをくれるのだろう。

 分からないことばかりだ。別れようとしている相手に、どうして優しさをくれるのか。

 本当は嫌われているわけじゃないのだと、自惚れても良いのか。思わず、差し出された両手を掴んだ。言うはずのない言葉が小さく漏れた。


「――期待して良いの?」

「い、いや、ダメだ。その辺のアレだ、君からしたら大したやつじゃない。違うダメ」


 聞こえたらしい彼女はぶんぶんと高速で首を振ったので、僕は思わず小さく笑った。そしてどこか不安そうに彼女はこちらを見ていたが、僕が紙袋を受け取ると安心したようだった。

 僕は微笑んだ。


「ありがとう梓真さん。僕の誕生日を知ってくれてるとは、思ってなくて……すごく嬉しい」

「そうか。なら良かった。しかし私が知っていたわけではなく、『君のことが好き』な人が吹聴しているのを耳にしただけだ」


 流れ出た言葉に一瞬どきりとしたが、遠回りな表現なのだと気を引き締めた。

 僕は疑問を返した。


「でもなんでくれたの?」

「初回サービス並びに先日の物を統合した返礼品だ。金額は釣り合っていないだろうが、そこは黙認してくれると助かる」


 どこか自信なげに言う彼女に、僕はただ感謝を告げた。嬉しいのだと、言葉だけで他にどう表現すれば良いのか分からなかった。言い始めれば、言うべきでないことまで口走るような気がした。

 彼女は半歩前を歩きながら、心底不思議そうな口調でこちらに尋ねた。


「どうして君の名前は『夏』なんだ? 生まれが今日なら冬だろう?」


 予想していなかった質問に少し驚いたが、疑問自体は当然のものだった。

 自分自身、少し変な発想で付けられた名だとは思うけれど。


「そんなことを梓真さんに聞かれるような日がくるとは思ってなかったな」

「同感だな。私も聞く予定はなかった。それで?」


 思わずくすくすと笑った。出会った当初を思えば、彼女とこんな話をするようになるとは想像もしなかった。

 色々あった、けれど今が幸せだ。梓真さんを知ることができた、今がとても。


「生まれた季節と反対だからだよ」

「だからこそなぜだ? そういうのは大抵、生まれた季節をそのまま名前にするだろう」

「父親の考えだよ。『名前負け』を逆に解釈した発想って言えば良いのかな」


 知らなかった以前の自分に、戻ろうとは思わない。握っていた紐を、手離してしまったことに後悔することはあっても、手にしていたことに後悔をすることはない。

 僕はきっと、幸せだった。


「名前負けというのは、勇ましいという文字が入っているのに臆病だ、とかだろう? それを逆に?……よくわからんな」

「つまりそういった願望を入れたことで、実際は逆になってしまうのであれば、始めから逆のことを入れておけば良いってこと。そして生まれた時点で決定してしまう、当人だけの要素っていうのは、生まれた季節ぐらいしか分からないでしょ? 優しいとか賢いだとか、成長しなければ分からない。だから生まれた季節と反対の季節を入れたんだって」

「へえ。興味深いな。なら君は、一生掛かっても手に入れられないものを、既に手にしているのか」


 彼女の言葉に、思わず息が詰まる。自分が思いもしなかったことを、彼女はさらりと何でもないことのように言った。今までの自分を全て壊されたようだった。

 冬に生まれたのなら、夏に生まれることはない。けれど僕は冬に生まれながら、夏に生まれる可能性を手にした。対立する可能性は、何度でも僕を生まれ変わらせるのではないか。

 そんなおかしな仮定がふと、頭をぎった。

 自分を壊されることが、どこか苦しいときもあった。それは常に、不安をいだいていたからだ。

 だから未知の領域(自分)に出会うことが恐ろしかった。けれど、抱えていた不安は、自分ではどうしようもないことだった。

 どうにもならないことを考え続け、悩みに侵されては、色んなものを見失っていった。そんな自分を壊してくれるきっかけをくれたのは、彼女だった。生まれ変われるのだと、気付くきっかけをくれたのは、今――。


「あ……梓真さんて、よくそんなことを言えるね」

「不快だったならすまなかった」

「いや、そうじゃない、けど」


 大槌で人を粉々に砕いておきながら、彼女はどこか自信がなさそうだった。けれど僕は彼女のように、彼女の不安を砕く術を知らなかった。

 やがて道路に出ると視界が開け、海が見えた。


「そういえば君は、兄弟はいるのか?」


 空気を切り替えるように、彼女は突然また違う質問をした。

 ……兄妹。(冬治兄)さんはいなくなったけれど、(秋良)さんはいる。けれど他人から見れば、何も変わることのない、幸せな家族だ。そんな家族の中で自分はずっと悩んでいたと思えば、愚かな話だと思う。

 僕は変わらない家族の話をした。


「……兄と妹が」

「へえ。意外だなぁ。一人っ子かと思ってた。なら同じ法則で?」


 彼女は本心から意外そうに言った。「同じ法則」というのは「名前負け」のことだろう。僕は肯定を返した。


「そうだね」

「名前を聞いても?」

「兄さんが冬治で、妹が春香だよ」

「まさかとは思うが……お兄さんは夏至に生まれたとか」


 事実を言い当てられ、一度驚いて笑った。


「よく分かったね。そのとおりだよ」

「ほほお……」


 彼女は「興味深い」という顔で小さく頷いていた。雄弁になった表情に僕は笑って尋ねた。


「梓真さんの由来は?」


 彼女は意外そうにして、上を向いていた。冷たそうな頬だった。


「……何て言ってたかな。生まれる前から決めていたというのは聞いたが。男であるとか女であるとかいう可能性を微塵も考慮せず、始めから『これだ』と決めていた、と聞いた気がする。由来らしい由来というのはなかったはずだ」


 話を聞いて、僕は笑みが灯った。

 彼女の名前には「梓真」以外に似合う名前が思い浮かびそうにない。一つの完成された数式のようだった。

 僕にはもう少し違う可能性もあったとは思うけれど、今はもう馴染んでしまったような気がする。


「でも梓真さんの名前は、この上なく梓真さんにぴったりの名前だと思うよ」

「それは褒めてるのか?」

「もちろん。真っ直ぐで、しなやかなところが」


 彼女はいつだって真っ直ぐだった。サメのように真っ直ぐ突き進んで、僕の中にあったものを食い千切っていった。

 真面目で堅苦しいところもあるけれど、それだけが全てではなく、時と場合によって柔軟に自分を曲げることもあった。それは硬く揺るがない幹と、風でそよぐ柔らかな枝を持つ木のようだった。

 同じく樹を名に持つ自分と、似ているようで、全く違うようでもあった。

 彼女は小さく頬を掻いた。


「君こそよくそんなことを言えるな。褒めたところで何も出ないぞ……いや、既に渡したんだったか」


 そう言って彼女はこちらの手にある紙袋へ一度視線を向けた。そんな冗談に僕は少し笑う。


「ありがとう、大切にするから」

「いや、傷むからさっさと使ってくれ」


 ……傷むものなのか。


「食べ物なの?」

「似たようなものだな。それで、君の話とは?」

「ああ……そうだね」


 彼女の質問で、僕は海を見て立ち止まった。別れるときがきた。数歩先で、彼女も立ち止まった。

 海の向こうに、ほとんど沈みかかった夕陽が見えた。もう、終えるときなのだ。

 彼女を見ると、心が揺るぎそうだった。僕は遠くを見たまま、けれどはっきりと言った。


「梓真さんの提案どおり、関係性を破棄しようと思う。返事が遅くなって……ごめん」


 耳を澄ませると波音が聞こえた。時折通る車の走行音には掻き消される、穏やかな音だった。波の音に、声が混ざる。


「良かった。君はやっと、『何か』から解放されたんだな」

「え?」


 思わず彼女を振り返った。彼女は髪を風に預けながら、僕の側に立った。同じように海を見て語る。


「確かに、今の如月は……何かが変わったと思っていた。何があったのかは分からないし、君も言えないんだろう。結局分からないままなのは少し残念だが、それでも君にとって精神的負担が減ったのなら、良かったと思う」


 また一つ、胸の中で何かが変わった。

 彼女はやはり何かを悟っていて、それを「知りたい」と言った。それは「僕」という根幹を「知りたい」と言った言葉だった。彼女はずっと、僕に歩み寄ろうとしていた。

 そんなことに、今更気付く。愚かな自分には、自分だけしか見えていなかった。僕を大きく囲う自分を、彼女は全て壊した。

 そして彼女はこちらを向いた。右手を差し出して笑う。


「凡庸だろうが、私は君の幸せを祈っている」


 そう言った彼女の笑みは、柔らかだった。今までに向けられたどの笑顔でもなく、心から慈愛を湛える顔に胸を鷲掴まれる。

 差し伸べられた手は、まるで救いの手のようだった。けれどこの手は――、別れを告げる手だ。

 今まで抑えていた感情の全てが、溢れ出すようだった。

 この感情を伝えることはできない。先程、正反対の宣言をしたばかりなのだから。すでに決めていたことなのだから。今更……覆すことなどできない。

 差し出された手を握り返せば、円満に終わる。きっとこれからは、彼女なら僕を友のように扱ってくれるかもしれない。

 僕は彼女の手を握る。しっかりと握り返してくれるこの手を、離したくなどない。

 収めようとすればするほど反発するように、感情が溢れ返る。

 好きだ、

 貴女が好き、

 本当はずっと口にしたかった。言えない、言っては彼女を、困らせる。

 どれほど頭が説き伏せようと、手を離すことができなかった。「ありがとう」と言うだけだ。あとはこの手を離すだけ。そうすればもう二度と、関わることはない。

 分かっているのに。また隣で笑ってほしい。無理だ。今度はどこにもいかないで。できない。ずっとそばにいてほしい。駄目だ。もう二度と自分を離してほしくない。勝手にいなくならないで、一人で生きていかないで。

 気付けば彼女を引き寄せ、両腕で抱き締めていた。

 えがいていた彼女の輪郭が腕の中で色付く。こんなことをしてはいけない。厚着に包まれていても分かる彼女の形が、僅かに触れる冷たい髪が、確かにここに存在しているのだと告げる。二度と、離したくなどない。甘い香りが、脳の奥を焦がすようだった。

 心が身体からだによって惑わされるのなら。

 早鐘を打つこの心臓を、吐き出してしまいたい。


「ごめん。好きだ。梓真さんが好き」


 言うはずのなかった言葉が、口を突いて出ていた。



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