三十二
彼女はこちらを真っ直ぐ見つめた。
「お話ならば電話で伺います、では」
機械のように頭を下げ、向きを反転した。慌てて僕は彼女の鞄を掴んだ。
何があるか分からない。そしてそれは多分、僕がいる範囲では発生しない。
「一緒に帰ろう、梓真さん」
「嫌です致しません」
唐突に彼女は自身の鞄を捨て置いた。僕が掴んでいたのは端の方だったのでそのまま落ち、足の上に落ちそうなところを咄嗟に避けた。
混乱の目で前を見れば、彼女は既に鞄を回収して廊下を走り去っていった。
あまりに素早い一連の流れに、軽業のような、特殊な演目を見た気分だった。何が起きたんだろう、今のは……。多少の混乱はあったが、無理に追い掛けるべきではないと悟る。追い掛けることが可能なのかも疑問だ。
あの勢いならば誰も、何の手も出せない気がする。心配するだけ無駄だろうか……。
帰宅し、長谷見に再び尋ねてみたが、特に得られる情報はなかった。
長谷見自身、噂を聞いただけなので具体的な何かを知ったわけではないようだ。しかし流れてくる会話の雰囲気から、こちらにも連絡をしておいた方が良いと判断したらしい。一応中島にも何か異変があれば報告するように、それとなく伝えておく。
早めに食事と風呂を済ませ、勉強にと机へ向かった。いつもと変わりない……が、いつもと変わりないことに違和感を抱く。嘘だろ、ここにあったカードは……⁉︎
即座に小林と連絡を取った。小林は悪びれもなく答えた。
『はい、明らかにお忘れのようでしたので、入れておきました』
「その場合はせめて報告してください……!」
『失礼いたしました。あまりにも忘れられたような雰囲気がカードから漂っておりましたので』
「そんなの漂ってませんから」
『フフ、そんなに慌てられるとは……』
余裕を崩さない小林に僕は不満が募った。
「笑いごとじゃありませんよ」
『久し振りですね、夏樹君のそんな姿が見られるとは……あ、見えていませんが』
僕は低く、詰問するような声を出した。
「コバヤシさん?」
『それでは失礼いたします』
一方的に通話を切るとは……。
ああ、小林を責められはしない。どう考えても自分の不手際だ。今日も今日だが昨日は昨日で、自分の精神状態がまともだったとは――正常な判断ができていたとは思わない。
どんな文言だったっけ……。始めは、彼女の提案に承諾する旨を書き記そうと思ったが、直接言うべきだし、贈る物に添える文章として不適格と判断して取り止めた。
そう考え始めれば、どれも合う文章が思い浮かばず、結局カードを入れること自体をやめにした……というのに。
ああ猛烈に、猛烈に……この感情は紛れもなく「穴があったら入りたい」だ。
頭を抱えて布団の上で丸まったところで事態が好転するはずがない。せめて彼女に確認しよう。手違いだと言えば良い。
まだ彼女が許可していた時間内だ。連絡しても問題ない、はず。
電話を取った彼女は、僕が尋ねるよりも早く一番にこう言った。
「アレは何だ」
「――アレって?」
「アレ」は何を指しているのか。行動なのか物質なのか何だろうか、ああ思い当たる節がありすぎる。
「手袋と怪文書だ」
「怪文書……?」
どうやら物の方らしい、が「怪文書」という予想もしていなかった単語が飛び出してきたことで、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「誰と誰がいつどこで会うんだ。明記されていない。訳が分からんだろ」
――思い出した。アレか。確かに日時を指定することを考えていたときもあった。
もう見られたのであれば、ここは開き直るしかない。
「うん。それに関して梓真さんと話したかったんだけど」
「ほう。聞こうじゃないか」
考えていたことの一つなのだから、実行できないことではない。それに、彼女ならきっと断ってくれる。むしろ不幸中の幸いだ。きっと「何を言ってるんだ」と言うはず。
「その日に、僕と会ってほしい。場所も時間も、どこでも良いから。ただ……話ができたら」
「何だ? 何か理由でもあるのか? 特別な日とかか?」
僕にとっては特別な日に違いない。けれどそんな日に、別れると分かって会いたいだなんて、馬鹿げている。
本当はただ会いたいだけだった。けれど会うことが確定してしまうのならば、結果として告げるのはその日が最適になる。
彼女と接する自分は、いつも不格好でままならない。
「それは、聞かないで」
「何だそれ。よく分からんが、とりあえず会うだけで良いならばまあ……会おう」
一瞬耳を疑った。彼女なら当然、断るものだと思っていた。
……なぜ。なぜ「良い」と言ってくれるのだろう。なぜ許してくれるのだろう。なぜ……僕はこんなに嬉しいのだろう。場所と予定を打ち合わせる間も、胸の内を満たされる感覚が消えなかった。湯冷めしなさそうだ。
「で、手袋はどういう意味なんだ? 何で手袋なんだ。なぜ食品でない」
対する彼女は、淡々としつつ疑問が先行する質問をした。
僕がただ受け取ってほしかったなんて言って、理解されるはずはないだろう。理解されるべきではないし、そもそも自分自身理解していることなのかどうかは曖昧だ。
思えば、いつも言い訳ばかりしていたような感覚に落ち入る。一度だって本当のことを言えたことがなかったような気がした。事実、これからも言えることなどないのだろうけれど。
「もちろんバレンタインだからね。食べ物の方が良かった? 付き合ってるなら、それぐらいが良いかな、と思ったんだけど。それと、無理を言ってるのは分かってるから、迷惑料として受け取ってくれても」
彼女は少し間を置くと、僅かに呆れを滲ませて言った。
「分かった。納得した。いつもそういう理由を明示してもらいたいものだな」
「ちゃんと言ってるけどね?」
皮肉を込めた冗談だった。彼女は「は」と軽く笑った。
「納得できん曖昧な理由ならな。では、ご機嫌よう」
「おやすみ梓真さん」
通話の終了した画面を閉じた。彼女は分かった上で笑ったようだった。
何もかも見透かされているような、そんな気になる。それはまるで、心を直接見られているようでもあった。もしも本当に全てを見られていたのであれば、僕はどれほど滑稽なのだろう。
けれど、この感情の全てが、彼女に伝わるはずはないという確信はある。僕自身、伝えていないからでもあるけれど、彼女は敵意や悪意には敏感なのに、どこか好意には疎い。
僕が言わなかったことは、どちらもだ。敵視に近いほど警戒していたことも、掻き乱されるほど好きになったことも、どちらも伝えることはなかった。
けれど警戒だけを汲み取ったのであれば、それはきっと己の身を守るために研ぎ澄ませたものだ。もしくは、そういう感情の応酬ばかりが行われていた環境で過ごしていたか。だから彼女は、「全てを感じ取ってしまう」わけではない。
安堵と同時に、僅かな寂しさがあった。
始終当人を悩ませる能力などない方が良い。でもこの記憶は、妄想なのかそうでないのか、確信はまた一つ遠く離れていくような気がした。
どれが正しくて、何が間違っているのか。分かったことなどあっただろうか。分かることなど、あるのだろうか。
いらないものの全てを取り払って、ただ、彼女と話がしたかった。
テスト約一週間前になり、クラス全体の空気はより真面目なものになった。
こんな雰囲気の中で、彼女に危害を加えようとしている者が本当にいるのだろうか。所詮人は我が身が大事だろう。この学校ではテスト前に何か問題を起こすような生徒がいるようには思えないが……。
僕の彼女への行動は軽率だったとは思う。しかし元々あった感情を、今更どうにかできるとも思えなかった。
僕が彼女と接することで、僕にではなく彼女に対して負の感情を抱く人がいることは分かっていた。だが僕が彼女と接していたのは以前からで、今に始まった話ではない。それが今回のことで急に態度が変わる人がいるのだろうか。
つまり接することをやめたところで、それまでの感情が全てなかったことになるのか。きっと、燻ったままだろう。ではいっそ露見した方が咎めることができるのではないか。ただ思っているだけの状態を咎めることはできないが、実行する前の段階、実行しようとして表に出てくる事柄ならば、指摘することができるはず。
しかしわざわざ長谷見が嘘でこちらを脅す必要はない。負の感情に囚われた人がいるにはいるのだろう。そしてそこまで自分の考えが及んでいたかといえば……僕は自分のことばかりだった。
長谷見の示唆する事態は、僕がいる場所では起こらないはず。そして校内でも、多分目立つようなことは起こさないだろうし、起きても駆け付けることはできるはずだ。問題は校舎外だろう。
そして何か事を起こすとすれば、登校時ではなく下校時だ。登校経路は事前に調べなければ判明しないが、下校時にはただ彼女の後を追えば良い。
何か問題が起こるとすれば衝動的なもののはず。計画的となればそれ相応の感情が必要だが、そこまで執念深い感情を抱く者がいるようにも思えない。彼女が何か誰かに危害を加えたならば分かるけれど、彼女は能動的に攻撃的な行動をする性格ではない。
常時彼女のそばにいることはできない。だから一番危険性の高い場面で自分が近くにいれば良い。それは下校時、つまり一緒に下校すれば良い。
提案しようと放課後に四組へ向かえば、彼女は僕の姿を見て小さく悲鳴をあげた。……彼女の中では驚くか石化することが挨拶の代わりなのだろうか。
「梓真さん」
僕は笑う。
こんな日常的な会話の一つを言うだけに、意気込みが要るようになるなんて想像することなどなかった。
「一緒に帰らない?」
彼女はしばらく、ただこちらを見つめて何も言わなかった。そして強張った表情のまま、ようやく口にした。
「なぜ……でしょうか」
「だめ?」
僕は一緒に首を傾げた。食い下がる方法が他に思い浮かばない。断られたら……後を付けるしかない。小林に言った手前、ストーカーのような行動はしたくないのだけれど。
できれば協力してもらえると互いのためになる――というのは脅し文句になってしまうだろうか。
こちらの心配を他所に、彼女は綺麗に笑った。
「ご厚意痛み入ります」
小さく頭を下げて、上体をカーソル移動させたような奇妙な動きで教室を出て行った。
僕はまた呆気に取られていたが、気を取り直し彼女の後を追った。廊下で彼女の隣を歩いて尋ねる。
「大丈夫って意味で良いのかな?」
すると彼女は再び綺麗に笑い、何も言わなかった。前回の暴挙を思えば、今回彼女が何も言ったりしないのは、人目があるので行動に移せないのだろうか。彼女が逃げるまではとにかく様子を見よう。
周囲にはやはり直接行動に出ようとする気配は感じられなかったが、校門を出たところでようやく彼女が行動に移した。人目を気にするように小さくこちらに尋ねた。
「それで、用件は」
「ないよ」
僕の返答に彼女は表情で「わけがわからない」と言った。器用に曲がった眉を見て、僕は思わず笑った。
そうだ、彼女は当初、口で語るよりも雄弁に表情や雰囲気で語る人だった。いつから表情をなくしていたのだろう。僕はたくさんのことを見逃していた気がする。
逃げるか溜め息をつくか不可解な行動に出るかと思われた彼女は、そのどれをするわけでもなく、ただ前を見ながらこちらに雑談のような質問をした。
「君は車で送迎されているんじゃないのか?」
唐突な質問に意外性を感じた。なぜそんなことを聞かれるのだろう。僕は一体彼女にどう思われているのだろうか……。
「そういうイメージ?」
「そうだな」
「基本はバスだよ」
「なら車のときもある、と」
「イレギュラーなときはね」
「では君の奇行にはバス停まで付き合おう」
変わらない温度で言われた言葉に少しだけ驚いた。どうして許してくれるのだろう。
「……本当に良いの?」
「やめろだどうだと言ったところで聞かんだろう。耳のない奴に喋り続けるほど愚かじゃない」
彼女の辛辣な言葉に少し胸の痛む自分がいたが、彼女にそう思われていてもそれは仕方のないことだった。
「酷い言いようだね。……でも、怒られると思った。この前は『嫌です』って言ってたし」
「ご希望なら致しますが?」
「遠慮しとくよ」
「君に遠慮なんてあったとはな」
「梓真さんは一体僕を何だと思ってるわけ?」
僕は敢えて拗ねたように言った。
彼女は少しだけ考えるようにして上を見ていた。やがてはっきりと答えた。
「如月」
「な、なに」
彼女はこちらを真っ直ぐに見つめる。曇りのない澄んだ瞳が、どこまでも貫くようだった。
「だから如月は『如月』という概念であるという以外に説明のしようがない」
「なにそれ」
彼女の意味不明な回答に僕は笑った。彼女はわけが分からない。突き放されたと思えば引き寄せられ、離れて行ったと思えばそばにいる。
そんな行動に惑わされて、そんな感覚を好く思う。けれど、これで最後だ。
彼女は来週、僕に会うと言った。ならば僕は、別れに頷かなければならない。もっと早くに言うべきだったとも思う。
建前に隠れて願いを叶えた最後の一週間だった。




