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三十一


 正直に言えば浮かれた数日だった。

 最後の悪足掻きだと開き直るだけで、自分の中に散乱していたパズルのピースが、所定の位置に収まっていくような心地だった。ようやく心体の辻褄が合ったのだと遠く思う。

 昼休みなどの休み時間に四組へ向かえば、彼女は勉強をしていた。テスト前だからだろう。付け入るように「勉強をみる」という口実で話し掛けた。

 彼女は当初眉間に皺を刻んだが、すぐに諦めて話を聞いていた。逃げも隠れもしなかった。

 いつも逃げていたのに、どうして逃げないのか。もうどうでも良くなったのだろうか。聞きたかったけれど、聞いてしまえば終わってしまう気がして聞けなかった。

 彼女は常に机の上を見ていた。しかし時折こちらを見て真剣に話を聞いている、と思えば「しまった」という顔で机に向き直った。僕はメデューサではないのだけれど。

 彼女は飲み込みが早く、基礎もしっかりしていて取り立てて目立つような問題点はなかったが、暗記類が苦手なようだ。漢字やスペル、記号などの書き間違いが時々あった。ケアレスミスが多いタイプとも言えるだろう。

 あとは授業内容の違いにより知らない点を補足するなどをした。ノートを渡すべきか、とも思ったが本人が求めていない以上却って迷惑になるだろう。……別れるのだし。


 彼女といるために使った口実を、周囲も同じように利用した。僕に「勉強を見てくれ」と寄ってくる相手を早く追い払おうと、さっさと必要な部分を説明すれば、逆に他の生徒にも波及して次々と同じようなことをしてくる生徒が増えていった。

 一度やってしまった以上、相手をする者としない者を作るのは不平等だ。それぞれに捌いていこうとすれば今度は黒板の方へと追いやられ、全員に聞こえるようにしろと言われた。梓真さんと離れては本末転倒だ。僅かな救いを求めて彼女の方を見れば、彼女は名画の微笑みを湛えて小さく追い払うように手を振った。初めて手を振ってくれた。違う、そうじゃなくて。

 仕方なく黒板を使用して説明をしていれば、今度は状況を聞き付けた自クラスに引きずられて同じことを乞われた。完全に彼女と離れてしまった。――足元を見た報いか。素直にただ話をしていれば良かった。だがそうすると彼女は絶対に不審者を見る目で僕を見て逃げ去るだろう。分かっている。彼女が逃げなかったのはテストのためだ。

 自クラスでの説明は理由をでっち上げてほどほどで終了させたが、この状態で再び彼女の元へ行くことは叶わないだろう。「勉強を見る」以外の口実を考えるべきだろうか、と古賀の元へわざわざ自分でジュースを届けに行きながら思案していた。




 週の終わり、周囲は一様に浮き足立っていた。

 理由は単純で、バレンタインというイベントがあるからだ。そして自分もそんな周囲を責めることはできなかった。

 毎年は面倒だった。菓子であれ市販品ならばまだ気は咎めないけれど、いわゆる「手作り」と呼ぶものは同じ作り手として廃棄するのは躊躇した。しかし再形成だけのものだとしても、一手間介入していれば手作りと呼び、再利用はできない。それならばただ板チョコをそのまま渡される方がよほどありがたかった。

 兄も父も妹も同じくそれなりにもらっていたから、家族総出の上に小林や土屋なども加わり分別作業が行われた。メッセージカードなどがあれば取り出し、装飾を取る。条件を満たすもののみを選別し、フードドライブを活用した。

 といっても条件が合うものは僅かだ。僕は食べられそうなものだけは食べ、春香は「友人のものはいただきます」と言っていた。残りは土屋が回収していくのでその後の経路は不明だが、概ね彼女は胃の中へ収納しているのではないかと推測している。

 端的に言えばバレンタインとは大量の仕分けを行う徒労の日だった。


 しかしそんな自分が、誰かに徒労を与える日が来るとは思っていなかった。彼女にとってはまさしく徒労、いらない物かもしれない。

 けれど自分は、エゴだと分かっていても、独りよがりだと分かっていても、何かを残したかった。言葉はいつもどこかで歪んでしまうから、形が変わることがなく、何のしがらみもないただの『思い』だけを。

 日本では女性が主体的に動いているイベントだが、男性が動いてはいけないという暗黙のルールなどはない。だからこれは好機なのだと思わざるを得なかった。

 真に彼女を思うのであれば、彼女が好きなものを贈るべきだ。ならば選ぶのはバレンタインに相応しい菓子類一択だった。けれど最初で最後なのだから、消えないものでありたいという欲望は消せなかった。

 だというのに彼女の好みなど甘いもの以外に何も知らなくて、そんな基本的なことから間違っていたのだと再認識した。好みが分からないのであれば、せめて今の彼女に必要なものを揃えたかった。

 彼女が求めているものは料理だ。けれど料理に関する道具などはさすがに持って行けない。それに道具は自分で使ってみて、検討して購入するもの。本人に合わない物を贈ることになれば不本意だ。


 ――彼女はよく、寒そうにしていた。

 廊下で蹲っていたのも、寒かったからと思えば納得がいく。体をさすることもしばしばあった。その割に身に付けているマフラーは通気性が良さそうで、手袋は少し頼りない生地だった。

 不備のあるものを使い続けるのは物持ちの良さなのか、それとも形見か何かか――と考えもしたが、考えないことにした。そもそもが、受け取ってもらえないかもしれないのだから。

 それでも自分は手袋を用意した。心から誰かに何かを贈りたいと思ったのは初めてだった。自己満足の感情は伝わらなくて良い。ただ、一欠片でも届くことがあるのなら、僕はただそばにいたかっただけなのだと。

 今までの人生で一番、他人ひとの気持ちに共感できるような気がした。

 だから下駄箱を開けて雪崩れてくる品々に自然と笑みが溢れた。これを詰めた相手も皆、自分と同じ気持ちだったのだろうか。机の中に詰まった品にも、物を渡しながら思いを告げてくる相手にも、同じ笑みを返した。

 朝休みの教室では、人の波が落ち着いた頃に、植木と酒井がこちらの席まで近付いて来た。彼らは何かを喋っていたような気がするが、僕はただタイミングについて考えていた。


 昼休みは先に古賀の用事を済ませることにした。最後のジュースを渡せば古賀は顔をしかめた。なぜか「こんな日に渡してくれるなと言いたいところだがそれよりもその顔やめろ」と一気に捲し立てられた。

 人波と歓声に揉まれながらも、笑顔は自然と湧き出していた。いつも以上に甲高い声も耳には入らないが、懐には菓子が入っていった。さて、彼女は教室にいるだろうか。

 四組を訪ねれば、彼女はいつもと変わらない様子で席に座っていた。声を掛ければ、彼女はただこちらを真っ直ぐ見た。そして一度僕の手元を見て、再び顔へ視線を戻した。

 言おうと思った言葉は、彼女を見ると出てこなかった。うまく声も出そうになかった。けれど何か伝えたくて、喋る言葉が届かないのも嫌だった。

 少しだけ彼女に顔を近付けて、小さくはあったがはっきりと言った。


「これ、梓真さんに」


 僕は手にしていた箱を彼女の机上に置くと一歩後退した。

 すると彼女はこれ以上なく目を見開いた。ガタガタッと音を立てながら奥へ離れようとしたが、壁によってすぐに停止した。今までで一番大きい反応のような気がする、物理的に。

 彼女はそれ以降石のように固まったまま微動だにしなかった。僕はメデューサではないのだけれど……。

 変化しそうにない彼女に思わず笑って小さく「それじゃあ」と別れを告げたが、背後から湧く悲鳴で掻き消されたような気がした。石化した彼女の内心は全く分からないが、彼女は不要であれば突き返してくるぐらいはしそうだし、このまま去っても問題ないだろう。

 四組を出て自分の教室へと戻って行った。様にならなかった気がするが、今更だろうか。反応が知りたいのもあるが、石化の解けた彼女がもしも不要だと返してくるときのために、放課後にもう一度会った方が良いかもしれない。考えながら歩いていれば、またもや懐にはいくつか菓子が増えていた。


 放課後、生徒会はテスト前最終日ということもあって、慣習的な作業を終えると解散した。さらに呼び出された場所へ向かい、受けた告白も笑顔で断りを返して早々に終わった。

 自販機の前で長椅子に腰を下ろした。

 彼女の活動サイクルであれば、今日が部活最終日のはずだが活動内容が不透明なので終了時間が読めない。終了まで待っているのは迷惑だろうか。反応は後日改めて伺った方が無難かもしれない。

 ……そもそも、反応など知らないまま、別れることに早く頷きを返せば良い。そうすれば、全てが可能性の中で漂い、不都合な事実を知ることもない。分かっている、けれど。

 別れるという事実が胸を痛める。ここで手を離してしまえば、永遠の離別になるような気がした。晴天に吸い上げられる球体のように、一度手を離してしまえば、二度と出会うことがないのだと。

 突然、端末にメッセージの着信音が連続で鳴った。確認すれば、長谷見からだった。

 内容はどうやら、昼休みの行動について疑問の声が上がっているらしい。回答を求められている。長谷見も苦労する役回りだな。

 僕は適当な返事をした。


『お世話になったからお礼したんだよ』

『バレンタインに?』

『イベントの方が渡しやすいでしょ』

『そう。気を付けた方が良いね』

『何を?』

『渡した相手、何もなければね』

『具体的に』

『聞いてない。そこまでは』


 長谷見は意味深長なメッセージを残してやり取りを終えた。渡した相手――彼女に何かあったのか?

 僕は居てもたってもいられず、すぐに彼女の様子を見に行った。現時点で何事もなければ今、彼女は部室に居るはずだ。

 MJ部の部室とされる空き教室に急いで向かった。棟の違いが煩わしい。

 部室前まで来ると、ドア横の壁に背を預けた。ドアのガラスは不透明なので中に誰か(・・)いることは分かったが、誰が(・・)いるのかは分からない。

 耳を澄ませて、声を聞いた。数人、男女の声が混じっている。聞こえない部分も多いが、和気あいあいとした雰囲気は察した。

 そしてようやく、彼女の声らしきものを拾った。安堵の溜め息をついた。……多分、大丈夫だろう。

 僕は腕を組んだ。帰るべきか……しかし、長谷見は根拠や確信の少ないものを伝えるタイプではない。伝えてきたからには、長谷見が得た情報が何かあるはずだ。長谷見には帰宅してからしっかり尋ねるとして、今は彼女や周囲の様子を観察していた方が良い。

 一体何があるというのだろう。

 思案しようとしたところで、ガラガラとドアの開く音がした。

 思わず振り返ると、ドアを開いた人物と目が合った。

 ――梓真さんだ。

 入り口で呆然と立つ様子には、一目見たところ特に不可解な点はない。僕は胸を撫で下ろした。


「梓真さん、お疲れ様」


 彼女は目と口を開いて静止した。目と目は合っているが、彼女はまた微動だにしなかった。僕は……メデューサなのかもしれない。


「そんなに驚かなくても」


 僕が言えば、彼女の後方から声が掛かる。


「シジョウ、どした?」

「後ろ閊えてますがー」


 それぞれ男女の声だった。「シジョウ」とは何だろうか、呼び名……?


「すみません、何でもありません」


 彼女はそう言って石化を打ち破った。軽く頭を下げながら、こちらの方へとその身をけた。後方に気を取られていたからなのか避けた勢いは大きく、こちらとぶつかりはしていないものの、距離が近い。……近い。

 僕は一歩後退した。突然の行動は未だに慣れない。心拍数が上がりそうだ。

 中から数人が現れ、その内二人はそのまま自分とは反対方向へ行った。その場に残ったのは彼女を除いて三人だった。

 井門と八木はこちらをじっと見つめ、庄司はこちらと彼女を交互に見ていた。庄司は不思議そうに彼女に尋ねた。


「もしかして七瀬、入部届けを出してなかった、とかはないな?」

「いえ、私は出しました」


 彼女は否定するように首を振り、僕は補足を入れた。


「七瀬さんと個人的に話があるだけなんだ」

「そうか」庄司は教室の鍵を閉めた。「じゃあ、気を付けて」


 軽く手を上げて彼はその場を去って行った。二人も同じく帰るのかと思えば、なぜかその場に留まっていた。

 井門は先程から目を逸らさずにずっとこちらを見ていた。睨むまではいかないものの不審そうで、無言だがどこか何か言いたげだった。

 八木が彼女に何か耳打ちしている間も、僕と井門は互いに目を逸らすことはなかった。

 井門――彼が、彼女と「楽しそう」に話していた相手、だ。羽山以外に彼女が「笑い声」をあげていた相手。


「続き、楽しみにしています」


 高い声が割り入り、井門は突然後ろに進んだ。八木に手を引かれたようだ。そのまま井門は連れて行かれていたが、首の回る限界までこちらをずっと見ていた。

 およそ目を逸らした方が負け、とでも思っていたのだろうか。くだらない仮定と、それに対抗していた自分に僕は笑った。



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