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三十


 彼女から逃げた足でこんな所に向かうのはどうかしている。

 彼女のバイト先であるカフェのカウンター席に座り、コーヒーを飲んでいた。この周辺で、すぐに一人ではなくなる場所が思い浮かばなかった。テーブル席には疎らに人がいた。

 一人になるといつも、良くない方へと考えが転がっていく。始まりはあの日に、布団の中で眠れない夜を一人きりで過ごしたからなんじゃないかと、今になって思う。

 今日の店員は男性二人だった。以前の女性は見当たらず、二人とも一目見た印象は寡黙そうだった。特に、若い方の彼は必要最低限しか喋らなさそうな雰囲気を漂わせていた。自分よりも少し年上に見えるので、大学生辺りだろうか。バンダナによって剥き出しになった顔は、目尻の鋭さが強調されている。横を向けば後頭骨の下で一括りにされた髪が窺え、存外長髪なのだと知った。


「俺の顔に何か付いてる?」


 意外にも、向こうから声が掛かった。良い機会だ。

 近い年上には少し幼く、けれど敬意を感じさせる口調で。


「いえ。ついコーヒーを入れる姿って格好良いな、と思ってしまって。不快でしたらすみませんでした」


 彼は「ふうん」と言って作業をしながら再び質問をした。


「バリスタとか憧れてんの」

「はは、そんなんじゃないですよ。趣味程度ですけど、美味しいコーヒー淹れられたらなとは思います」


 男性は少し目を細めてクク、と笑った。


「情報盗もうってわけ?」

「滅相もない」


 こちらが笑って否定すれば、彼は口の端だけで笑った。

 見た目の印象よりは喋る人だった。こんな場所で接客業をするとなれば、多少の営業努力はするか。 


「アン……君は、もしかしてあそこの高校の? 櫂青、だっけ」

「はい、そうですが……制服じゃないのに、どうして分かったんですか?」


 彼の鋭利な視線がこちらを突き刺した。


「前に来てた」


 以前に彼もいたとして、一度見ただけの客を覚えているのか。完全記憶能力でも持っていると?


「僕は一度しか来ていませんが、まさか覚えてらっしゃるんですか」


 静かに小さく頷いて、彼は理由を告げた。


「美春ちゃんとしっかり話してたから。ここのバイトとおんなじ高校とこだって?」


 理由があるならば、意識的なものか。

 ミハルちゃん……、それが以前会話をした女性だと察する。バイト(・・・)は三人称か。


「盗み聞きしてらしたんですか」

「人聞き悪い。あの時は顔を見た。後で美春ちゃんから話してきたから」


 能動的に聞いたわけではない、と。

 しかし客の個人情報を話すのはどうなんだろう。別段、他人に言われて困るような情報は渡していないけれど。


「そう、ですか。すみません」

「俺も言い方が悪かった。聞きたかったのはその……バイトのことで」

「七瀬さんのことですか」


 彼は静かに頷いた。そして鋭く目を細める。

 なぜ彼が彼女のことを。もしかして彼は……。可能性がないとは言い切れないが、どうなのだろう。結論には早計だ、様子を見るべきか。

 少し良い辛そうに彼は言った。


「個人のことを他人に聞くのは悪いと思う。だが、どうしても気になって。すまない」

「僕は構いませんけれど」


 自ら尋ねておきながら、彼はしばらく黙っていた。そして作業の手を一度止めてから口を開いた。


「――学校でもあんな変なのか?」


 少しだけ拍子抜けした。


「……変、とは具体的にどういうことです?」


 変……か。確かに彼女は変だとは思う。けれどあの変な姿を、所構わず見せているわけではなかった。校内では基本的に大人しく、周囲の目も気にしていた。


「こう……意味不明な行動だ。突然意味不明な質問をしてくるとか、ロボットみたく行動が切り替わるとか、何考えてんのか分かんないのとか……」


 彼の語る彼女の姿は奇人だった。否定できないのは事実だ。

 もしかすると明らかな警戒や不信、不満を表現している時点で、彼女の中でこちらは他とは違う相手だったということなのだろうか。


「まあ、何を考えているのか分からないところは多いですねぇ」

「だろう⁉︎ 良かった、俺は普通だ」

「普通って……、何か気にされてることでもあるんですか?」


 再び彼は長く沈黙した。

 強調のためのというよりも、ただ逡巡しているだけのようだ。

 敢えて口にしているということは「尋ねてほしい」という意味だと思ったが、どうやら強く意識している事項がまろび出ただけのようだった。コミュニケーションにおいては不器用なタイプなのかもしれない。

 先程とは打って変わって、彼は不安定な視線で小さい声を出した。


「実は……その」


 まだ言葉に迷っているようだった。当人にとって重大な悩みであるなら、一介の客に言うべきことではないだろう。

 迷っているということは、本当に言えないことではないけれど、安易に話したくもないこと。……聞かない方が良かったかもしれない。


「少し……女性が苦手なんだが。彼女はそれ以前にこう……人として奇妙で。それが……」


 彼がゆっくりと語るのを、僕は静かに聞いていた。先程までの眼光は消えていた。


「まるで年下に怯えるようで、自分がまた情けなくて……」


 ……なるほど、彼の心中は概ね察した。

 年下に怯えるのは情けなく、年下に弱みを告げることは情けなくないようだ。しかしその辺りも含めて迷っていたのかもしれない。

 それでもこちらに告げた点を考えれば、僕が信用に足りた、ということだが。そう、普通は信用されやすいのだ僕は。相手が普通なら。

 僕は彼を安心させるように微笑んだ。


「大丈夫ですよ。彼女に付いていけないのは、きっと誰でもです。ほんとに、いつも振り回されるばかりで」

「尻に敷かれてる?」


 死角からの射撃に危うく咽せかけた。


「し――⁉︎ そっ……、そんなんじゃないです、僕は、ただの……同級生ですから」


 気管の調子を戻そうと咳払いをした。

 丁度振られたばかりだというのに。ただ、きっぱりと告げられたわけじゃない。選択権はこちらにある、けれど。

 彼は愉快そうに口を曲げていた。


「――ク。エスプレッソ、どう?」

「唐突ですね?」

「苦いと紛れる」

「何がですか」

「色々」

「そういう商法をするんですね、ここは」


 彼はクツクツと笑っていた。

 悔しくて、僕はエスプレッソを頼んだ。最早売られた喧嘩を買う心地だった。




 何も進展することのない月曜日、いつものように生徒会の業務をこなした。

 本日も役員で仲良く雑用である。


「それで如月殿、メンタルは大丈夫なのか」


 阿部が作業をしながら突然に尋ねてきた。


「何、急に。阿部さん」

「いやあ、この前廊下で蹲ってたほどだから、よっぽどのことがおありでと思いましてね? あれから回復なされたのかと我々は心配しているんですよ」

「先輩ってよく廊下に座ってますよね」岩田が言った。

「そんなことはない」


 僕は真剣に否定した。まるで不良な生徒ではないか。

 ……しかし阿部、別れ際の笑みはそういう意味だったのか。厄介な相手に見つかったものだ。

 すると古賀がつんけんした態度でわざわざ横槍を入れてきた。


「人間サマがどこ座ってようが俺ら犬には関係ないさ」

「おいおい私を一緒にしてくれるな」


 即座に阿部が線引きをした。

 古賀はまだ引きずっているようだ。相当怒らせたと見るべきか、もしくはただ粘着質と見るべきか。どうでも良いけれど、ここはこちらが折れておくか。いつまでも子供に合わせているのも労力がいる。

 僕は古賀をしっかりと見て言った。


「あー。古賀くん。ごめんね?」

「はあ?」


 古賀は声に険を含んでいたが、突然何を言われたのかは分かっていないようだった。

 僕は丁寧に謝罪の内訳を説明して、頭を下げた。


「繊細な古賀くんを冗談によって傷付けてしまったようで、僕は申し訳ないと思う。ごめんなさい」


 古賀は顔を歪めながら逸らした。


「けっ! 俺は会長サマがぼっちになろうがメンタルボコボコになろうが関係ないんでね!」


 僕は下手に出るようにして、鞄から二百ミリリットル紙パックのジュースを取り出した。


「まあそう仰らずに。これは古賀くんの好きなフルーツオレだ。いくらでもあげよう」


 言いながら、彼の前にジュースを三つ並べた。

 古賀は机の上に並んだジュースを一瞬不思議そうに見ていたが、すぐに眉根を寄せて元通りになった。こちらを指差して憤慨した。


「お前ほんっとそういうとこだぞ!」


 僕は殊更悲しそうな表情をした。


「そっか……。僕は古賀くんには許してもらえないほどの大罪を犯してしまったようだ……」

「だ・か・ら!」


 古賀の怒りは収まらなさそうだったので、黒澤に目配せをした。

 頷いた黒澤は、机の上にあったジュースを一つ手に取り、丁寧な仕草で古賀に差し出した。


「まあまあ先輩、このオレでも飲んで気を休めてください」

「お、おう……」古賀は言われるがまま、ストローを挿して一口飲んだ。「ってこれコイツが!」

「まあまあ」

「どうどう」


 黒澤と阿部が宥めた。古賀が叫ぶ。


「何か俺が悪いみたいになってねえか⁉︎」

「まあまあ」と岩田。

「どうどう」と大場が杜撰に言った。

「よし。古賀の会長好きが分かったところで、さ、仕事仕事」


 阿部が一度手を打つと空気は一変し、古賀以外が作業を再開し始めた。

 僕は顔を上げて、少し離れた大場に向かって声を掛ける。


「大場さん、ちょっとその資料こっちにくれる?」

「はーい会長〜」

「先輩こっちの枚数って――」


 大場は軽い返事をし、岩田が紙をヒラヒラとさせながら阿部に尋ねていた。

 古賀は頭を抱えながら、天井を仰ぐように背もたれに背を預けていた。


「もうツッコむ気にもなれない……」


 古賀は深い深い溜め息をついた。阿部が「仕事しろ」と机の下で彼の足を小突くように蹴っていた。

 やがて作業が終了し皆がそれぞれ解散すると、古賀がこちらを呼び止めた。


「如月」

「なに?」


 僕は笑って聞き返した。彼は少し踏ん反り返って、フルーツオレをどこぞの印籠のようにこちらに突き出した。


「一週間。毎日昼休み、これ。献上」

「分かったよ。他は?」

「他ぁ? いや、これだけで良い、けどさ……」


 確かに古賀は僕の悪辣を悪いようにはしないようだ。

 僕はそういう相手に無意識で甘えていたのかもしれない。それは文字どおりただの甘えで、非生産的かつ損害だ。相手を怒らせたところで生産性が上がるはずはない。

 自身の不出来を自覚し、改善する。つまるところ人間の一生などは、ただただそれの繰り返しだ。

 今、僕にある不出来は。


「そう。じゃあ今週一週間、よろしくね」

「お、おう」


 古賀は少しだけ不思議そうに頷いた。違和感には気付いているが、原因が分かっていない顔だった。

 今週であれば今日はもうすでに終了しているので残るは四日だ。明日が休日としてカウントされていれば三日にまで減らせたのだが。

 僕は笑って古賀に別れを告げた。古賀はまだ不思議そうにしながら返事をした。




 一人、帰宅のための廊下を歩く。一緒に帰ろうと誘う相手に笑顔で頷きを返した。

 投げ掛けられる会話に杜撰な返事をしていたが、気に留める者はいなかった。

 彼女とは別れなければならない。

 あとは僕が承諾を返すだけ。それで全てが終わる。今までの無駄足が全て、無意味として完成する。

 ……けれど。本当に無駄だったのだろうか。彼女と過ごした時間は全て、無駄だったというのだろうか。

 彼女と過ごして、彼女を知った。彼女は常に一人で、どこか危うさのある人だ。

 少しでも彼女と関わった人なら、変な人だと認識する。だが変な人以上に、とても真っ直ぐな人なのだと、誰が知っているのだろう。

 本当はとても懸命で、どこか献身的だ。ただ、とても不器用で、きっと本人も自覚がない。

 僕は知ってしまった。知らなかった頃には戻れない。

 目を逸らしてきた、けれど……――彼女の側にいたいのだ。今、隣を歩くのが彼女なら。

 本当は、別れたくなどない。叶うことなら、くだらないことで笑うような、ただ普通の話がしたい。何の打算も敵対心もない、ただ普通の、何気ない会話を。

 彼女とは別れる。けれどその前に少しだけ、本当に最後の、悪足掻きを許してほしい。



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