二十九
「うっ……」
突然、料理を食べたであろう彼女が呻き声を漏らした。盛ってなどいないが、毒か異物でも入っていたかのような声だった。
「もしかして嫌いなものあった?」
僕が焦って尋ねれば、彼女はこちらをしっかりと見ながら否定するように首を振った。
「うまい……」
続く単語に安堵を覚える。
「それなら良かった」
彼女の健康を害する可能性も避けたいが、そもそも「不味い」と言われることが一番避けたい事項だ。料理はほとんど独学で得たようなものだし、家族や小林などの身近にいる人以外で誰かに食べてもらったこともなかった。不安が一切なかったと言えば嘘になる。
しかし危惧したどれでもなく「うまい」と評されたのなら、何を憂う必要がある。
――と思った矢先、彼女はまたもや突然に、今度は涙を落とした。
「えっ、ちょ……梓真さん泣いてる?」
「失礼。おいしくて」
僕は彼女がティッシュで目元を拭ったのを見て、本当に泣いていたのだと知った。
……『おいしい』って涙が出るものだっけ。
何か思い入れがあるとかならば理解できるけれど、ごく一般的な献立だし、僕が作った料理に思い入れがあるはずはない。
なら、彼女の発言をそのままの意味として受け取っても……良いのだろうか。
「そんなに喜んでもらえたなら光栄、だけど」
こんなに心臓へ負担のある食事は初めてだ。
普段は自分の料理に関して、改良点を探しながら食べている。だが味が分からなくなるというのは初めてだ。味覚は確かに機能しているのに、これが「美味しい」のか分からない。
僕はしばらく測らずとも分かる脈拍のまま、何も言えずにただ作ったものを胃の中に収めるという作業を続けた。
そしてまた突然に、彼女は爆弾を投げつけてきた。
「君は天才だ、尊敬する。グルメリポーターのような表現はできないが、とにかく大変おいしい。お金を払うので毎食食べたいほどにおいしい。無理なのは分かっているが」
爆弾は胸の中央で爆発した。
――毎食。
どこかで「毎日味噌汁を」というのは聞いたことがあるけれど、『毎食』――?
「そ……、かん――」
そん、そんなこと言われたら勘違いするでしょう⁉︎
喉まで出かかった言葉を必死で抑え込んだ。
「……いや、えっとありがとう」
何、なに。何なんだ。
『毎食食べたい』って何なんだ⁉︎
彼女はきっと「そういう表現」に近いものだと自覚してないんだろう? 純粋に、そのままの意味なんだろう?
場違いで不当な怒りが湧いてきそうだった。
「ところでこれらの料理名は?」
彼女の質問によって僕は冷静さを取り戻した。頭の端で、いつも彼女が即座に感情を切り替えていた姿を思い出し、少しだけ理解できそうな気がした。
「ああ、そうだね。シーザーサラダにオニオンスープ、ピーマンの肉詰めとリゾットだよ」
「ほお、なるほど」
どこか初めて知ったような雰囲気で返ってきた相槌に、こちらも不思議を返した。
「どれもメジャーな料理だと思うけど。全部簡単だから、すぐに作れると思うよ」
「……簡単なのか? これらが?」
「見てたでしょ?」
「いやあ、しかしだね、初心者をそう舐めてもらっては困るな」
彼女の言葉に僕は心から笑いが漏れていた。おかしな人だ。彼女がおかしいことに「嬉しい」と思う自分は、もっとおかしいんだろう。
流れで僕はまた料理の説明をした。そしてそんなことが楽しいと思ってしまう。
やはり自分はどこか壊れたんだろう。きっともう元には戻らない。けれどそんな自分でも良いと、なぜか彼女といると思ってしまう。
食事を終えると、「片付けはしてくれるな」と言った彼女がお茶を用意してくれた。
先程行ったスーパーで、以前に買ったほうじ茶らしい。味は分かるのに味が分からないという、意味不明な矛盾を再び抱えて、自分の手元に収まった白いマグカップを見た。内側で満ちている、オレンジ掛かった薄茶色い液体をただ眺めていた。
ふと、彼女を見る。昼の光を受けて艶めく黒髪は、真っ直ぐに流れていた。その先にある手は、自分と同じくマグカップを握っている、と思った。彼女が握っていたのは、眼光鋭く歯を剥き出した――赤い鬼の顔だった。
……何だあれは。
もの凄く睨まれている。
尋ねようとしたところで先に彼女から話を切り出され、自然と赤い鬼から意識は逸れた。
「さて、本題を話したいのだが」
彼女は先程までと変わらない温度で言った。どこか明るく、軽やかな声だった。
けれどその内容が、自分を現実に引き戻した。
夢は終わる。自分は、向き合わなければならない。
頭の中に様々な予感が巡る。僕は以前の自分を思い起こす。これは一つの防具だったのだと、壊れた仮面を付けて笑った。
「なにかな」
「君はなぜ私に話し掛けてくるのか?」
彼女の声は、温度の変わらないまま鋭さが強くなっていった。腹の上を滑る鋭さが、ワタを引き摺り出そうとする。
僕を暴かないでほしい。何も知らないままでいてほしい。醜い自分など、壊れてしまった自分など、何も知らず、何も見ないでいてほしい。
「話したいと思ったからだよ」
「契約を破り、やめろという私の主張を振り切ってまで、話したいと思うのはなぜだ?」
「仲良くなりたいからだよ」
虚構と事実が混ざり、灰色の言葉が並んだ。
「残念ながら、私の意思に反する行動を繰り返すことで、君への好感度は下がる一方だと伝えておこう」
彼女が告げた心情に、僕は乾いた声になった。
「料理は喜んでもらえたと思ったんだけどな」
小さな沈黙の後に、淡々とした声が返ってきた。
「学校での君と、ここでの君は別評価だ。合算したところでマイナスではあるが」
温度のなくなった声。先程までの笑っていた姿が胸を締める。喉が渇いていくようだった。
分かっていたことだ、と自分は嗤う。
「僕はあくまで梓真さんの意思を尊重したつもりだったんだけどね」
マグカップに手を伸ばした。味の分からない茶は、温度まで分からなくなっていくようだった。
「どの辺りが?」
険を含んだ眼差しと声に、笑顔を返した。滑るような言葉が流れていく。
「僕のことを『知りたい』と言ったのは梓真さんでしょ? 月二回話す程度じゃ、何年経ってもお互い分からないままだと思うよ。毎日話してたって分からないことは沢山あるのに」
彼女はあからさまに怪訝な顔をした。溜め息こそつかなかったが、呆れているのは見て取れた。
ここまで率直に感情を表現する人だったのだと、僕はずっと知らなかった。「知りたい」のはきっと、本当は僕の方だった。
「私が君に対して『知りたい』と思ったのは、雑談で済む日常のことや、好みだとか、そういう話じゃない。君の、考えを知りたい。君がなぜ、私と関わるに到ったのか、その理由を。そんなことは公共の場で話すようなことじゃないだろう? だから無駄なんだよ。無意味で、むしろ私にとっては不利益だ」
「僕の? 考えって?」
なぜか彼女は、穏やかに笑う。
「君は羽山さんと話したかったんだろう? そしてその目的は達成された。なら後は私と別れるだけだ。私は君のもてなしのおかげで充分利益を貰った。羽山さんに用があるなら私が打診しよう。だからもう無理に私と関わる必要はない。つまり別れないか? 契約を破棄して、お互い関わることがなかったであろう、本来の関係性になろう。君の正直な意見が聞きたい」
次々と流れ出てくる展開に、追い付くだけで精一杯だった。
彼女は全てを知っていて、僕の茶番に付き合っていただけだった? ならば羽山が暴露したのか。
『充分利益を貰った』だって? 『合算したところでマイナス』の評価である相手から? 何を貰ったと?
無理に関わらせているのは僕が貴女にだ、僕は貴女と別れたくなど――
……どうして。貴女はもっと、自身のことを考えてくれない。
「ど……、どうして。一度で構わないの? それで充分だって? 話を聞いただけで、身に付いてはいないでしょ。話だって、半分以上忘れたってさっき――」
「私の話は良いだろう。それより君の意見が聞きたい。今の話も違うなら違うで良い。本当でも良い。君はどう思っているんだ? 何を考えている? 私にはそれを知る権利はないか?」
彼女の質問には答えず、自分の質問を押し通した。
「その話は、彼がそう言ったの?」
彼女はどこか不思議そうに答える。
「羽山さんか? 羽山さんは何も話していないよ。全て私が勝手に考えたことだ。むしろ羽山さんには止められたぐらいだ。君が話すまで待つようにと」
彼女はその目で、全てを見通していた。
自分に湧き出す感情が何なのかも分からない。怒りなのかもしれない。怒りならば、何に対してなのかも分からない。全てに心当たりがあるような気がして、どれも当てはまらない気がした。
知ることのなかった激情が、壊れた配水管から噴き出すようだった。意識せずにいた、マンホールの下に広がる世界が、認知を求めるように動き出した。
自分の底にあったもの。
押し留めてきた感情の全て。それはこれまで棄ててきた感情の全てで、自らを守るために、犠牲にしてきたものの全てだ。
彼女がこじ開けようとしているのは、己さえも知らなかったパンドラの箱だった。
「なら、……僕は話せない」
これまで自分が出したことのない冷えた声だった。開けることなど許さない。僕の世界に、笑う以外の感情などいらない。希望など、いずれ落とすための高みなど、いらない。
「好感度が低いのは私の方だったか」
唐突に彼女がそう、自嘲するように呟いた。
思わず自分は目を見開いた。全身が力むようだった。彼女は何を言っている?
彼女は何を考え、何と比べてそんな答えを出したのか。「私」ならば比べたのは「僕」、それはつまり「マイナス」評価の相手だ。それよりも低い好感、だと。僕が、貴女に――?
この感情の全てが、同じマイナスならば良かった。伝わることのなかった感情の全てがマイナスならばきっと、何の問題もなかった。
僕は何も伝えられなかった。自分さえ知ることのなかった、分からないものばかりだったから。
彼女は不思議そうにこちらを見ながら質問をした。
「それで関係性についてはどうなんだ。断つ方向で構わないのか? 断つといっても事務連絡は受け付けるが」
「それは梓真さんの考えでしょう」
「なら君は続行したいのか」
沈黙が落ちる。彼女はゆっくりと、痛みの種類を聞き出す医者のように質問を続けた。
「迷っているのか?……分からないのか? それとも答えは出したくない、何も言いたくないのか」
全てが当てはまるようで、何一つ合っていなかった。迷っているし、分からない。答えも何も言いたくない。けれどそもそも、彼女の問題としていることが、自分にとっては問題ではなかった。
自分の抱えた問題が、彼女に当たることはない。当たってはいけない。ゼロに交わることのない反比例のように、彼女と僕が見ている世界は、限りなく似ていて、まるで対極だった。
「意思表示をしないのなら、私は都合の良いように解釈する。そう解釈した上での話だが、君がもし迷っていると仮定するならば、それは執着だろう」
聞こえた音に、体が反応を示す。
開いた目が、真っ直ぐな彼女を映した。
――執着。
ああ。確かに。符合することもあるだろう。
兄への執着が、今の自分を作り上げた。執着から生まれ、拠り所のなくなった自分が、次に求めたものは別の執着先か。それが「七瀬梓真」だと?
ならばこの激情の中から、執着さえを引き抜けば、全て消え去るとでも言うのか。
たったの執着だけで、全てをなかったことにできるのなら、それほど簡単な話はない。ならば、どうすれば良い?
「何に執着しているのかは分からないが、それはやめておいた方が良い。執着は疲弊しやすい感情だ。君の心と体の健康のためにもおすすめはしないな。では、特に面白みのない話をしよう。聞いていてくれるだけでいい」
彼女は一方的に話し始めた。
「どうやら『大切なもの』というのはなくしてから気付くものらしい。しかし私にとって、『どうでも良かったもの』というのは、なくしてみないと、手離してみないと気が付かなかった。私はそれをずっと、『大切なもの』だと思って大事にしていた。でもいつの間にかなくなっていた。そしてそのことに、ある日突然気が付いた。それから、ああ、あれは別に大事なものでも、何でもなかったんだと思い至った。むしろそれが有ることがストレスだったのだと、なくしてから理解した。それはたぶん心の空間コストを消費し続けていたんだな。もしくは思考の場所代か」
そして彼女は一度茶を飲んで続けた。
「なにがしかの渦中に居ると、自分の思いしか頼れるものがなくて、だから『自分が大切だと思っている』というカテゴリに分類してしまえば、それに則って行動することしかできなかった。でも、それが本当に『大切なもの』なのかももう、分かっていなかった。考えていなかったんだ。だから今では、何が大切なのか、何を大事にしたいと思うのか、なぜ大事にしたいのか、考えるようになった。面白みのない話というのは、それだけだ」
ならば僕にとって貴女は、「大切なもの」ではない存在だと思えと?
静かになっていく感情は、彼女の言葉にあるどこかに同調を示すようだった。
ゆっくりと思考が降りる。
「今日は、帰らせてほしい」
「分かった。近いうちに、答えを聞きたい」彼女は席を立った。「いや、私が要求してばかりだったな。だからこそ君の意見を聞きたかったのだが……そうだな、もし君に何か要求があるのなら――」
「それ以上、喋らないで」
続ければまた、彼女はいつかのように、自らの不利を差し出す提案をするのだろう。もうこれ以上は、沢山だ。
腹が立つような気もした。また激情が溢れてくるような気がした。
これ以上は、もう。
僕は彼女から逃げるように、別荘を後にした。




