二十八
彼女の要望に合わせた献立を考えた。無難な料理になりそうだ。主な材料は向こうで揃えるとして、出汁だけは予め準備しておいた方が良いだろう。
そうして前日に準備を済ませ、当日である今はただ車内で、想定できる事態を組み立て、その対処を考えていた。
……大丈夫だ、うまくいく。問題などない。
きっと、別れることになるんだろう。彼女はきっとそう切り出すはず。分かりきったことだ。
それなのに、掻き集めた一匙の期待を愚かにも求めようとしている。もしかしたら……たとえ僅かでも希望があるのなら、踏み留まっても許されはしないだろうか。
彼女にとって僕は迷惑なだけの存在なのだろうか。この関係は彼女にとって、ただの負担だけでしかないのだろうか。「利害関係を結びたい」と言ったのは、彼女にとって対等であろうとした意思表示ではなかったのか。ならば対等である間は、継続していても許されはしないのか。
けれど僕は……彼女が嫌がることを嫌がると知って行っている。そんな人間が、対等であるはずはない。
しかし嫌がられるとして、話し掛けるというだけのことが、それほど罪なことなのか。いいや、自分は彼女を利用しようとして、そして彼女をきっと傷付けた。だからそもそも資格がないのだ。
ようやく諦めを思い出したところで、最寄りのバス停に着いた。
降車し、羽山の別荘まで一人歩く。インターホンを鳴らせば、出迎えた彼女が屈託なく笑ったので、それだけで嫌に心拍数が上がった。あるはずもないものを期待してしまう。身に付けたはずの諦めを放り出したくなった。
彼女が笑ったのは、無邪気な理由だった。キッチンまで導かれ、彼女が「揃えておいたんだ」と言ったのは食材についてだった。
ならば買い出しに行く必要はなくなるか……? どこか胸を張る彼女はまるで、子供が初めておつかいにでも行って帰ってきたような姿だった。僕はそんなことに心の内で笑って、促されるまま冷蔵庫を開ければ、並ぶ材料を見て根本的な考え方の違いを実感した。
一通り確認すれば、まともに揃っているのは野菜ぐらいだった。野菜は彼女が一人で扱う分には持て余しそうな予感がするほど並んでいた。本当は菜食主義者か、もしくは精進料理を求めているのか、とも思えるほどだった。
しかし卵も肉類もあったので、ただ単に野菜が好きなだけなのだろう。ただし肉類といっても、あったのはハムとベーコンのみだった。他には納豆や漬物など、ご飯のお供と呼ぶべきものばかりだった。
ちなみに冷蔵庫以外にある食べ物の大半はインスタント食品で構成され、調味料の類いは最低限以下だった。「さしすせそ」なら「さしせ」しかないが、山葵だけはあった。辛子はない。
それでも冷蔵庫を占める総量は半分以下で、彼女にとって「揃えた」量がこの状態であるならば、普段は四分の一以下でもあり得そうだった。冷蔵庫そのものが大きいのも、印象に影響してはいるだろうが、彼女の食生活は健全とは言えなさそうだ。
何にせよ彼女の中で揃えた材料がこの状態であるならば、普段から口にするのはこれらの食材が多いのだろう。つまりはメニューを変更して、これらの食材からできる料理を提供した方が彼女のためになるのではないか。
――そうして彼女の利益を優先して行動したところで、何が変わるということもないのだけれど。
そんな思考の締め括りには、溜め息が必要だった。一匙の期待を全て諦めに変換するために、僕は冷蔵庫を閉めて息を吐いた。彼女を振り返れば、純真な視線をしていたので、一言だけ言いたくなった。
「料理は材料からだからね」
すると彼女は驚いたように僅かに口を開けた。そして初めてレシピを渡したときのように、目を彷徨わせては先程と打って変わって自信なさ気に言った。
「す、すまない。今から買い直してくる」
さらに野菜を買ってきそうな彼女に、僕はどこか言い聞かせるように言った。
「一人で行ったら何の意味もないでしょ」
「……では、一緒に来てくれないか」
一瞬のうちに切り替えたように、彼女はこちらに目を合わせて頼んだ。僕は内心驚いたが、笑って頷き返した。
ようやく少しだけ分かるようになった。彼女の切り替えの早さは、ときに素直さが影響している。けれど彼女はいつも、表情をなくしていた。それは感情の機微を発露させることを厭うようでもあった。
何が原因なのか、根本的なものは分からないけれど、僕は貴女を心から笑顔にできなかった。羽山や井門にはできたことが、僕にはできなかった。それはきっとこれからも変わらない。傷付けない保証はないし、幸せにもできないだろう。そんな関係ならば、羽山に言われるまでもなく、取り止めるべきだ。
だから、せめて今だけは。
――結局、全ては予想どおりになるのだから。
どうせ叶わないのなら、せめて今だけは都合の良いところを夢見させてほしい。
スーパーまでの道のりを彼女と並んで歩いた。たったそれだけのことで、少し緊張をしていた。一緒に歩いたことがないわけじゃないのに、こうして隣を歩くのは互いが対等である証のような錯覚をした。
不思議なものだ。本当に学校とそれ以外では、彼女の対応は違う。これではどちらが本心なのか分からない。学校では睨まれているのに、今ここでは何の隔たりもなく会話が続いている。こちらが冗談を言えば軽く笑って、彼女も冗談を返した。
そんなことが嬉しくて、反面苦しかった。どこまでも彼女の考えが分からなくて、未練がましく期待をしてしまう。今の彼女が本心なら、僕には本当に微塵も可能性はないのか。けれど学校での彼女が本心なら、きっともう無理だろう。
もし、どちらの彼女も本心ならば? では彼女の対応がこうも違うのはなぜなのか、と問いたくなるが、答えは分かり切っている。彼女は理由を告げていたし、自分はそれを承知していた。
……対応を変えているのは彼女だけじゃなくて、そもそも自分の振る舞いが違うんじゃないのか。
学校での如月夏樹と、それ以外での如月夏樹は価値が違う。「取り巻く環境が悪い」自分と、何もないただの自分。箱庭の蛙は睨まれるけれど、大海に放り出された蛙なら、彼女は笑ってくれるということだろうか。
いっそ好きだと言ってしまえれば、簡単なのだろうか。告白するときでさえ、はっきりと言うことのなかった言葉だった。――今、思えば。何もかもを間違えていた。あの時、例え嘘であれ告げていれば、今だって簡単に言えたのかもしれない。
けれど今の自分が言えばきっと、より彼女に不信を与えるだけで、迷惑を掛けるだけだ。
彼女とは別れるのだから。箱庭の僕と一緒にいることは、彼女には迷惑なのだ。
けれど今日だけは、浮ついていても許されたかった。いつか萎むと分かった玩具なら、せめて今だけは。
チープな音楽が流れるスーパーの店内で、僕はカートを押していた。ここが普段から彼女が利用している店か。利用したことがない系列だったが、どんな店であれ利用方法に大差はないだろう。
通路に余裕はないため、彼女は自分の後ろを歩いていた。時折立ち止まる気配を感じて後ろに目を向ければ、彼女は商品を手に取ることなくただじっと見つめていた。少しすると思い出したようにこちらを見て「すまない」と言って近付いた。
欲しいのかを問えば、彼女は違うと首を振る。
「普段は目的の物を買えばすぐ帰るからな。ゆっくり見たことがなかったと思うと、つい見てしまって。何度も通っているのに、知らない物や面白い物も多いな……と」
「はは、そっか。じゃあ何でも聞いて。基本的なことなら答えられるから」
彼女はまた少し視線を彷徨わせると、はにかむようにして小さく笑った。
「……そうか。ありがとう」
言われ慣れた言葉なのに、どうして彼女の一言だけは身に染みるのだろう。
彼女は早速行動に移した。
「じゃあ……この、『あごだし』って何だ?」
「ああ。『あご』っていうのは魚の名前だよ。トビウオのだしってこと。確か九州での呼び名から来てたんじゃないかな。基本的にはどの汁物料理でも相性は良くて――」
些細な会話を重ねながら、こういう未来もあったのかもしれないと、おかしな幻想が脳に飛来してくる。やめておけ、虚しい上に傍ら痛い。こんなことを考えているなど彼女に知られたら、恐怖でしかないだろう。つくづく自分が嫌になる。
紛らわせるように、食材の話をしていた。滔々と語る自分が滑稽でしかなかった。けれど知識を渡すことは、彼女の利益になるはずだ。そんな言い訳ばかりは、簡単に積み上げることができた。
店を出れば、冷たい外気に晒される代わりに、利用客や店員による不躾な視線から解放された。
自分は慣れたものだし今更何とも思わないが、彼女を見る視線だけはどうにも不愉快だった。振り返る好奇の目を一つ一つ潰していきたかったが、そんなことをすればリスクしかないので、止むなく笑って睨むだけに留めておいた。
大体、僕にそんな資格などないのだし。今は付き合っているという体裁はあるが、程なく消え去るものだ。今日にでもきっと、終わってしまうものだ。そんな関係を笠に着て、憤る方が馬鹿げている。
……惨めだ。もしも彼女に何かあっても、自分には駆けつけて良い資格はない。彼女がどこかへ去って行くのを、去った後で知ることしかできない。自分には何の力も資格もなくて、唯一できることは料理に関することだけで。それだって兄のことがなければ自分には身に付くことのなかった技術だ。
自分が自分の力だけで手に入れたものなど何一つないし、彼女にこちらから与えられるものもない。代金を支払ったことだって、大した助けにはならないだろう。自分の金ではあるが、元手は親からのものであったし。初めて二人で出掛けた先が、結果としてスーパーになったことに今更気付くし、何一つ格好が付かない。彼女の前では、自分で自分がままならない。
不格好な自分が思わず呟いた言葉に、彼女は何も言うことなく体を摩っていた。
彼女にとって僕の感情は、無意味でしかないだろう。分かっていたはずのことを、再認識して自嘲する。僕に可能性は、希望はないのだから。早く諦めを取り戻さなければ、これ以上無惨な姿にならないように。
いっそ自分から別れを告げるべきなのかもしれない。
浮ついていたものは、ゆっくりと空気が抜けていくようだった。
昼すぎに別荘へ戻れば、半ば機械的に作業を進めた。キッチンに立ち、無心で道具などの説明をしながら、具材の調理も始めた。
喋る内に、自分はいつの間にか説明に集中していた。自らの話に集中していたからこそ、彼女への気は逸れた。しかしふとカウンター越しに彼女を見れば、こちらをじっと見ていたのでどきりとしたが、すぐにその視線が微動だにしないことに気が付いた。
動揺を悟られたはずはないと、若干の安堵を持ちながらも、ぼーっとした様子が単純に気に掛かって声を掛けたのは間違いだった。
「だから見た目はもちろん味も変わるからね。……梓真さん、聞いてる?」
彼女は数回瞬きすると、思い付いたように返事をした。
「ああ、切り口一つで違うんだろう? しかし私はそこまでのクオリティを求めていないから、情報だけ得ておく」
どこか取って付けたような答えだったが、間違ってはいなかったのでこちらは黙した。
そして彼女は続けた。
「それに詰め込み過ぎだ。正直、半分以上は忘れてしまったな。情報には感謝しているが」
そう言って、困ったように笑った。
初めて見る表情に、僕は飽きもせず脈打つのを自覚した。
――その顔を、何度見てきただろう。自分はいつも、きっと沢山困らせてきた。
違う、違う。しっかりしろ、如月夏樹。
僕は思わず顔を逸らしていた。視線の先にあったスープの鍋から上る蒸気に、自分の顔も茹だるようだった。
こんな調子で、この心臓は保つのだろうか。
と、案じた側からまた、同じようなことを繰り返しては悪化させた。
料理を仕上げて机の上に並べると、彼女と対面する位置に着席した。
目の前にいる彼女は手を合わせると、これまでになく心から嬉しそうな顔で笑った。見間違い……ではなく、本当に嬉しそうだった。
心音は首から聞こえるものだっただろうか。
彼女が笑っているのは、この状況ではもう「料理が並んでいるから」という理由以外には考えようがなかった。そしてその料理を作ったのはといえば、自分で。
自分には彼女を笑顔にすることなどできないと思った矢先に、こんな表情を見せられてしまえば、僕は本当に、どうすれば良い? どう思うのが正しい?
「如月。ありがとう」
そして礼まで言われてしまえば。
もうどうしようもなく好きなのだと、口にできない。
彼女に好かれているのか、嫌われているのかも分からない。分かったところで、何もできない。何一つ、どれが正しいのか、もう何も分からなかった。
答えは分からないままずっと先送りにして、とにかく今を乗り切ろうとした。しかし眉に力が入るのは止められず、顔を合わせることはままならなかった。そして「どういたしまして」と小さく告げることだけが精一杯だった。
うまくできない。鼓動が、うるさい。




