二十七
自分の中で、ゆっくりと自分が分裂していくようだった。
これまでずっと自分の考えに従って生きていた。けれどその自分が間違っていた。意味のないことに足掻き続けてきた。いや、意味がなかったわけではない。
……意味はあった。しかし、意味のない部分がなかったわけでもない。
ずっと、同じことを考えている。それは今までの自分が、ずっと同じことだけを考えて生きてきたから。たった一つのことに縋って生きていた、それが希望だったから。
しかし希望は砕けた。そしてその中には何も残っていなかった。
全ての感情を清算したい。全てをなかったことにしてしまいたい。けれど、彼女のようにうまく切り替えることができない。
頭では理解している。過ぎてしまったことを悔いる間に、生産的な活動に身を投じるべきだと。それができないのであれば、今までどおり全ての感情を無視して、目的を達すれば良い。
そのどちらをも、遂行できそうにない。できないと嘆く自分と、早く終わらせようと苛立つ自分がいる。僕はどちらの自分も選べずにいた。
しかしもう既に進み始めているのだから、最後まで進まなければならない。例え針路が間違っていたとしても、沖で停滞するわけにはいかない。自分は引き返すことはできない。だからまだ惰性で動くことができる自分で、少しでも進んで行くべきで。
今以上に嫌われれば、関係を終わらせられるだろう。違反行為を繰り返せば、すぐに終わる。償いとして、彼女にとっての利をこちらが差し出せば良いだけ。
だから校内では、彼女を見掛ける度に話し掛けた。周囲に人がいる所では、彼女はただ黙って頭を少し下げてそそくさと去っていく。たまたま人が居ないときは、「話し掛けるな」と言ったり「やめろ」と眉を寄せて足早に廊下を歩いて行った。
全ては順調だ。建前として、詫びる印にと彼女の利であるはずのレシピを渡した。初めて渡すときは周囲に誰もいない廊下の隅を選んだ。だからだろうか、不審そうにこちらを見た彼女は、普段ならばそのまま立ち去るように思えたが、その場で封筒の中身を確認した。レシピだと認識すると、今までになくまごついたような様子で言った。
「わざわざすまない、が……で、できれば、もっと簡単で、その……本当に単純で、すぐにできるような、けれど美味しいものであれば、ありがたい」
彼女は言いながら、封筒で顔を覆うように全て隠した。なぜ、と思えばそれはきっと羞恥心で、彼女は料理ができないことに対してのコンプレックスが強いのかもしれない。
しかしゆっくりと封筒を下げ、上目だけがこちらを覗いた。僅かに眉尻を下げて、こちらを見つめた。
普段ならば真っ直ぐな視線も、今だけは小さく揺れる。それでも覗き込まれるような、こちらを見通されるような感覚は変わらない。黒い瞳は水晶のようであり、ブラックホールのようでもあった。
「無茶は承知しているので、可能な範囲で検討いただければ、非常に助かる……」
自信のなさそうな、小さな声だった。
こちらは大丈夫だと告げると、彼女は視線を泳がせながら何度も瞬いていた。目を合わせることのないまま、少し慌てた調子で更に言葉を付け加えた。
「君の善意に注文を付けてすまない。あ、そうかこれは違反行為の――、とにかく失礼した、ありがとうそして失礼する」
彼女は最後にこちらを一瞥し、頷くように頭を下げて去っていった。その背を見送ると、僕は廊下の片隅に寄り、壁に右肩を預けた。そしてゴツ、と側頭部が壁に当たった。
これは、重症なのかもしれない。普段は意識しない心音が重く響いていた。いつの間に心臓がロックバンドのスピーカーと入れ替わったのか、なんて馬鹿なことが浮かぶ程度には余裕があるけれど。どれほど振り払おうとしても、可愛いという単語が浮かんでしまう。思わずしゃがみ込んで、ハァーーッと深い溜め息をついた。
「もう嫌だ……」
なんて単純なのか。こんな自分が嫌になる。脳味噌が綿菓子になりでもしたか。
ちょっと照れた様子を見られたからといって、動揺しすぎなんじゃないのか。睨まれたり、不審なものを見る目を向けられたり、寄るな触るな話し掛けるなと言われる相手に、ちょっと願いを告げられたからと、それだけで心を動かしているなど、馬鹿の極みだ。馬鹿だ、あまりにも愚か、阿呆の脳味噌綿菓子製造機だ……。
無意識で抱えていた頭をくしゃくしゃに掻いた。
けれども今まで一切、こちらが何をしたって、あんな様子を見せることなどなかったというのに。それがたったの紙切れに負けるとは。それとも余程料理がコンプレックスだという裏付けなのか。
ああ本当に、こんなことで胸が締め付けられるだとか、そんないかにも典型的な症状を引き起こすなんて馬鹿みたいだ。早鐘を落ち着かせるように何度か深呼吸を繰り返した。もう、嫌だ。情けない。あまりに。
脈が落ち着きを取り戻し、立ち上がろうとしたところで声が掛かった。
「もしかして如月君? どうした、大丈夫か?」
振り返れば阿部がいた。どうして生徒会の面々は、僕が座っているときにばかり出会うのだろう。
僕は立ち上がると、笑って彼女の方を向いた。
「……阿部さん。大丈夫、何でもない」
阿部は不審そうに一度こちらの足先から頭までをザッと見たが、口に出した内容はこちらを気遣うものだった。
「まだ不調なら養生しておくべきじゃ? 今日も会長なしでやっとくから」
「いや、本当に体は大丈夫なんだ。ただ、ほら、気分の方がちょっと疲れたなって」
「まさか古賀のことで」
言われて思い出したが、アレとは最近必要以上の会話はしていない。こちらは特に何とも思ってないが、目を合わせるとあからさまにフンとかヘッとかハッとか言いながら顔を逸らすので、わざわざ相手をしたいと思わなかった。
「いやいや、アレに割く思考のパーセンテージは余裕で小数点以下だから安心して」
「ああ、良かった。意外と好かれてたんだな、古賀は」
「誰が」
阿部はからからと笑った。
「如月君は悪辣を向ける相手を選んでる。それはある種の信頼に見える」
「信頼してるから悪辣に振る舞うなんて、ただの最低な人間でしょ」
阿部は更に笑った。
「如月君は最低な人間の一人では? 類が友を呼ぶのなら、私も最低だから、それを引き寄せた会長も最低で間違いない」
彼女の無茶苦茶な話に僕も笑った。
「ははは、面白い理論だ」
阿部はゆっくり笑いを収めながら言った。
「まあ、アレはアレなりに反省してるから、許してやってほしい」
反省しているのにあの態度なのか? 全くもって理解できない。まあ人間と違う思考回路を理解できると思う方がおこがましいだろう。
しかし、本当に反省すべきなのは僕だ。どう考えても悪いのは僕だった、分かっている。阿部はこちらが謝りやすいように「アレも反省している」と言っただけだ。それが事実なのかどうかは、こちらが謝らない限りは判明しない。けれど。
「いや、悪いのは僕なんだ。分かっているけど、別に謝りたくないかな」
「ふっ。意外と子供っぽいところもあるんだ」
「コミュニケーションでは相手のレベルに合わせるときも必要だからね」
「それ合わせ方間違ってるでしょう」
「そうかな」
阿部はくつくつと笑ったあと、笑った顔のまま真面目に言った。
「如月君は、完璧にすぎるな」
「え?」
「優等生というレッテルが貼られれば、人は粗を探したくなる。その粗さえも、如月君は自らプロデュースしている」
その言葉に僅かな動揺を感じた自分がいた。意識的ではなかった、けれど……彼女の指摘する事柄が全く存在しないと言い切ることはできなかった。
それでも――それとも、自分が本心だと思っていることは、本心ではなかったのか。本心だと思って接しても、本心だと思われることがないのか。
気付いてしまえば、また一つ壊れそうな何かから目を逸らした。
僕は今までの自分で、会話を続けた。
「そんなことはないよ」
「だから古賀を信頼していると言った。アレは如月君の晒す粗を、評判として悪いようにはしない」
「別に、そんなこと考えて行動してないよ」
こちらから出る乾いた笑いに、相手も嗤いを返した。
「如月君を好きになってしまう人は可哀想だな。見えたはずの本性がちっとも本性じゃないんだから」
阿部の声には実感があった。もしかして黒澤が彼女に何か相談したのかもしれない。それとももっと別の噂か何かだろうか。
けれど他の人にどう思われたところで構わないと思うのは、それが作り上げたものだからなのか。だからこそ、届けたい相手に響くことがないのか。
「ちなみに私は同族を好きになることはないので安心してくれて良い。それとも、如月君が誰かを好きになったときの方が悲惨なのかな」
「阿部さん……」
口の端だけで面白そうに笑う彼女へ、自分はただ何も悟られないようにした。事実、悲惨だ。手の打ちようも、正解も分からない。
いつだって守ってきたのは体裁というプライドだけだった。そのプライドが、今は。
「如月君には良くも悪くも人をひき寄せる力がある。それなら良い人が寄ってくるように行動することは、悪いことじゃないと思うな」
いらない、と捨てようとして反転、擁護された自分を嘲笑した。
「はは、どうだろうね」
――寄って来る人間の選別。聞こえは悪いのに、阿部は悪いことじゃないと言った。それは現状の如月夏樹を保つためか。
けれど、今までの自分が上手く効果を発揮したことはない。ならば自分は、変わるべきで。変わった自分なら振り向いてもらえるのだろうか。
……でも。振り向いてもらえたところで、どうなる。今まさに別れるべく行動して、その償いをしたばかりで。
本当に好きになってもらえたのなら、別れなくても良いのか。けれど、でも、嫌われると知って行動した人間が、好かれる道理などなくて。
「ククッ、恋愛相談なら乗っても良いけど? もし相手が異性なら私は同性だし。それとも……違うのかな?」
提案を受けて、阿部を見た。
これはちょっとした誘導尋問だ。相手がいる前提の話に、素直に肯定か否定を返しては、相手がいると確定してしまう。
それ以前に「そういう悩みを抱えている」と思われていること自体が奇妙だ。やはり黒澤であっても、告げるべきではなかったのかもしれない。
それとも僕がまた「失恋顔」でもしているというのか。もしくは巷に聞く、女性は勘が鋭いという特性によるものなのか。
「僕の恋愛対象は女性だよ」
「なら、期待しとこう」
「僕に好きな人がいたとして、生徒会役員には相談しないな」
「ふう~ん。へえ~え」
「……何」
「面白いもの見つけたかな~。それじゃあね~」
阿部は「ひゃひゃひゃ」と笑って去って行った。
こちらは一切面白くなかった。嗚呼、また、頭を悩ませるタネが増えた。
人を見通している姿は、阿部も彼女とよく似ている。けれど何かが決定的に違う気がする。それは一体何だと言うのだろう。
阿部が人をよく見ているのは自分のためだ。得た情報を自分にとって都合の良いように活かすために。確かにそれは僕と同じで、そういうところを同族だと言ったのかもしれない。
けれど彼女の真っ直ぐな視線は、根底から何かが違う気がする。彼女は活用するために得ようとしているのではなく、ただ純粋に情報を得てしまうのか。だからこそ、人との関わりを減らしているのだろうか。
一人でいようとするのは、得たくない情報まで得てしまうから。『時折風景を眺めながら、長時間ボーッとしている』のは、『自然を見ると、感じるのは自分の感情だけで、そこでようやく、自分がどんな人間だったのかを思い出す』から?
そんな仮定に、正常に戻ったはずの脈が、再びどくどくと走り始めた。やはり彼女は、彼なのだろうか。あの日々を過ごした自分は、僕なのだろうか。
愛しいと思うのに、離れなければならない。別れるために、彼女に近付かなければならない。相反する感情と行動が、ぐちゃぐちゃに混ざっていくようだった。
ふとした視線、小さな会話、些細なことで不治の病による発作を自覚しながら、それでも彼女と無理矢理関わった。教室に向かっても彼女が逃げ出したり、幾つかの攻防を繰り返したりもしたが、結局はこちらに軍配が上がるようなものだった。
けれど彼女は注文や脅しはするものの、実行には至らない。利益を渡しているから、こちらは免罪を受けているのだろうか。
そんなことで許してしまうのか。わざと嫌がると知っていることを繰り返しているのに。それが許されるというのか。
それとも、絞り足りないということだろうか。こちらが出せる利益を出し尽くせば、ようやく関係を解消するのだろうか。
彼女が何を考えているのか、分からなかった。
けれど終わるときが来た。彼女は日曜日に羽山の別荘まで来いと言った。
きっと、校内で話せないからと我慢していたのであろう。ようやく、残っていた問題が片付く。全てがきっと元通りで、僕が干渉することのなかった関係に戻る。だから自分が進む未来に彼女はいない。
全てが分かり切っていることだ。分かっているのに、胸の中は歪んでいった。




