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二十六


 二日ぶりの登校により、道中でも新鮮に声を掛けられ、教室に入れば周囲にいくらか人が集まった。適切に返事や挨拶を済ませて荷を自席へ置き、四組へと向かった。

 廊下を歩く中で感情を整える。……大丈夫だ。自分ならば、今までどおりに過ごせば済む。彼女がどんなつもりでこちらへ連絡を入れたのか未だ推測もできないが、逆にその内容を知りたかったからという建前を、理由にできるだろう。

 こちらの真の目的は、関係の解消だ。自分が会いに行くことは基本的に彼女から嫌がられる行為だ。それを後押しするように、契約内容には「校内での接触禁止」の項目がある。

 そんな状況で会いに行き言葉を交わそうとすれば、契約違反をしたこちらに対して、彼女は利益の提出を求め、ならびに関係を破棄すると告げるに違いない。

 そうして終われば、全てが解決する。きっとうまくいく。今まで想定外の対応はあれ、結果としては全てこちらの望みどおりに彼女は動いてきた。ならば多少の変化球はあったところで、最後にはこちらの想定どおりに事が運ぶはず。

 四組の教室に足を踏み入れると、普段よりも随分騒がしい声で再び人が集まった。邪険にしない程度に捌いて、歩みを進める。

 彼女はいつもと変わらず窓際の席で本を読んでいた。賑やかな教室に似合わない静かな横顔も、何も変わらない。自分も変わらない笑顔を湛える。隣に立ったところでようやく、彼女はこちらを仰ぎ見た。

 無表情から、少しだけ目が見開かれる。無言で彼女が立ち上がるのと同時に、僕は挨拶をした。


「おはよう梓真さん」

「おはようございます」


 彼女は真顔で軽く頭を下げて、すぐに教室を出て行った。自分はいつも、去った後ろ姿を見るばかりだ。彼女は作りあげた笑顔さえ見せることはなかった。それはつまり、自分には愛想を繕う価値もないという証左だろうか。

 いや、余計なことは考えるな。目的の達成、それが今までの自分がしてきたことで、これからの自分も同じことだ。

 自分も教室を出ようとすれば、女子生徒の人垣に塞き止められた。


「如月くん体調悪かったって本当?」

「大丈夫だった? 風邪とか?」

「病み上がりになんで七瀬さん?」

「どういう関係なの?」

「弱み握られてるとか」

「やってそ~、怖っ」


 くだらない妄言ばかり、鼓膜の振動も脳の処理も、無意識であれ使用するのが勿体ないほどだ。


「みんな心配してくれてありがとう。もう治ったから。でもごめん、用事があるから行くね」


 こちらが笑い掛けるだけで周囲は納得し、道が開いた。

 いつだって、簡単なことのはずだったのに。感情はままならない。

 廊下に出て、彼女が向かった先を探る。彼女が進んだ方向は、以前に訪ねたときと同じだった。ならば今回も、到着する場所は同じかもしれない。

 以前と同じ場所に向かえば、予想どおり彼女がいた。しかし彼女は階段を登った先の隅で、スカートで足を抱えるように蹲っていた。

 その姿に、不安が胸の内を過った。一体何があったというのだろう。体調が悪いのだろうか。上階の廊下では冷たい風が吹いていた。

 こちらが近付けば、彼女はしゃがんだままこちらを見上げた。覗き込まれるような瞳に、心音を自覚する。

 彼女は唐突に立ち上がると、廊下の端へ移動した。……体調不良ではなさそうだ。続くように自分も移動した。二人だけの空間に、寒風が立ち入る。

 彼女は何も言わずに腕を組み、真顔でこちらを見ていた。あくまで無言を貫くのは『校内では話しはしない』という意思表示だろう。分かっている。そんなことは、全て。

 けれど憎らしく思う。羽山に向けられた顔が、こちらに向けられることはない。僕じゃなければ、羽山だったのなら、こうして人目を憚るように逃げ去ることもしなかったんじゃないのか。

 ――違う、違うこれは、当たり前のことだ。全ては自分で招いた結果で、僕には彼女を咎める権利などどこにもない。分かっている、まずは会話をするべきだ。

 自分は今までと同じように笑って言った。


「どうして逃げるの、梓真さん」


 この台詞で正解だったのか?


「どうして話し掛けてきた如月」


 この関係を切り離したいから。違う、そんなことを今すぐに言えるはずはない。羽山に言った手前、一度であれこちらが利益を渡さなければ。相手から利益を求められるには、こちらが損害を与えることが一番即効性のある手段だ。もどかしいものを早く捨て去るには、これが最善だった。

 だから今は、疑問への答えを出せない。


「梓真さん。それは答えになってないよ」


 彼女は分かりやすく溜め息をついた。


「私には君と話す意思はなかった。だがあの場で主張するのは憚られた。だから君から遠ざかった。それで、君の答えは?」


 彼女の説明した行動理由は、全て想定の範囲内だった。ならばこれから導き出される行動もきっと同じようなはずで、つまり自分の目的は、簡単に実現するのだろう。

 物事が想定どおりに運ぶことも、自分にとっては愉快なことの一つであるはずだった。けれどどうして、想定外であってほしいと願う自分がいるのだろう。

 こんな時ばかり、彼女に不規則性を求めている。今までは思いどおりにならないことや、戸惑いを覚える行動に惑わされ、そんな彼女に苛立ちを感じることさえあった。

 だというのに、いざ思いどおりに事が運ぼうとすれば、それを望まない自分がいる。つまりはいつだって、現実を受け止めて来られなかった愚かな自分が、いつまでも蔓延っているだけだ。

 ならば焼却すれば良い。もうこれ以上、愚かな自分はいらないのだから。

 僕は自分の明るい展望にくすくすと笑った。


「昨日電話くれてたでしょ。何か用事だったのかなって思って」

「ならば折り返せば良いだろう」

「ごめんね、着信に気付いたのが今朝だったから」


 彼女は冷めた目でこちらを見た。


「何度も言うが、校内で話掛けようとするな。契約違反だ。繰り返すようなら契約を破棄する」


 そう、彼女だって水槽の中で遊泳する金魚と同じだ。

 想定どおりの言葉に、僕は満面の笑みを浮かべた。


「僕は良いよ。破棄しても」


 すると彼女は不可解そうな顔をした。


「……これは、君から持ち掛けてきた話じゃなかったか」


 どんな問いでも、箱庭の中であれば自分はいつでもどこでも都合の良い答えを引き出せる。


「はは、『契約』にしたかったのは梓真さんでしょ? 契約してもしなくても、僕に損失はないんだよね。簡単に言えば、梓真さんの利益がなくなるだけだよ」


 彼女は少し目を見開いたあと、顎に手を当てた。少しの間、眉を寄せて考えている様子を見せた。一度ゆっくりと瞼を落とし、次に開いたときにはいつものように感情をリセットしたような顔をした。


「ならば破棄すれば君は話し掛けてこないのか」


 問われたことで、仮定を組み立てていた。

 破棄してしまえば、彼女と負い目なく話せるのだろうか。この関係が彼女を傷付けるのなら、関係を消してしまえば問題は全て消えるのだろうか。

 けれど、初めから利用しようと、傷付けても構わないと振る舞ってきた自分が、今更普通であるかのように振る舞うことなど、もう無理だろう。

 関係が解消すれば、僕が話し掛けることはないだろう。その必要も意味も、何も持たないのだから、今までの自分ならそんな無駄なことをするはずはない。そしてこの自分に資格を与えられることもない。

 だから彼女の想定には「そうだ」と一言答えれば良い。そうすれば切り替えの早い彼女は、すぐにでも関係を終えるのだろう。そう……きっと、すぐにでも。

 ……ただ、理想を語るのであれば。


「ああ、何の憂いもなく梓真さんと話せるね」


 彼女は深く眉間に皺を刻んだ。


「何が目的だ」

「はは、それは梓真さんの口癖かな」


 訝しむようにこちらを見遣った後、彼女は少し遠くの景色を見つめた。そして再び目を閉じて、何の感情も宿さない瞳でこちらを見た。


「君はなぜ昨日と一昨日休んだ?」


 彼女は情報の入手には疎いと思っていたが、なぜ知っているのだろう。いや、先程の教室内での様子を見れば、彼女たちが噂をしていたとしても不思議はない。

 だが偶々流れてきた話を耳に入れる程度には、こちらに関心があったのだろうか。それとも。


「あれ、梓真さん知ってたの。僕のことを気にしてくれてたんだ?」


 彼女はただ黙ってこちらを睨んだ。無言のまま、じっと視線が続いた。

 ……どうやら違う、のは理解していたことだが。ならばなぜ彼女からそんな疑問を向けられるのか。

 そう、か。例え彼女であれ、健康には気を使うということか。前日に顔を合わせていた人間が欠席している話が聞こえれば、潜伏型の病気である可能性も考慮する。そしてそれがこの時期に罹りやすい伝染病の類であれば、我が身の危険と判断し、事実確認をしようと思うのはおかしいことではない。

 これが電話を掛けてきた理由だろうか。

 では、感染るものではないことは伝えておくべきか。


「気分が悪かったんだ」


 こちらの回答に、彼女は少し目を細めるだけに留め、違う質問をした。


「それは、日曜日のことと関係があるのか?」


 やはり本当は、こちらの事情など全て把握しているのではないか。そんなことを思うときもあるけれど、あの日の自分が上手く立ち回れたとはさすがに思わない。散々な結果だったと、後悔さえ覚えるほど悲惨だった。

 だから不審であった自覚はある。けれど彼女が、あの日の自分を気にする必要などどこにもない。


「体調が悪かっただけだよ」

「どこが悪かったんだ?」


 珍しく彼女から食い下がられ、不思議に思って笑う。


「やっぱり心配してくれてるの?」


 そんなはずはないと知りながらふざけて問うた。彼女は一度視線だけ上にやると、真っ直ぐにこちらを見て頷いた。


「ふむ、そうだな。疑問を持つことが心配というなら、それで良い。それで、どこが悪かった?」


 彼女が真面目に言い終えると、予鈴が鳴った。

 なぜ彼女に疑問を持たれるのだろう。何か見落としている項目があるのか。彼女がこちらに興味があるとでも? それとも「知れて良かったと、思えるように」なるための判断材料を集めているのか。

 「知れて良かった」とは、どういう状況で、どういう意味なのか。利用されたと知れば――彼女は既にそうではないかと予想しているのに、それが「良かった」などと言えるだろうと、僅かでも可能性を見出せるものなのか。

 それは自分と同類の愚行か、知ってやるのならばそれ以上の愚行で、始めから間違ったレールに乗ることと同じだ。


「頭が痛かっただけ。……もう戻らなきゃ」

「待て」


 僕は教室に戻ろうとして、彼女のいつにない強い語調に引き止められた。

 彼女はあまりに真っ直ぐにこちらを見つめた。


「ここでは――学校では、君と話したくないが、それ以外でなら、私は君と話してみたい。ちゃんと、友達になろう」


 純粋であり真っ直ぐな言葉は、ただの無謀だ。

 友達……。それが彼女の望む関係性だというのか。だが。

 だが、もう今更、その関係性になどなれない。

 僕は思わず冷笑した。


「……え?……いや、付き合ってるんだから、友達にはもうなれないでしょ」

「人として、付き合うことは不可能か? 私は、君を知りたい」


 いつもの、淡々とした声ではなかった。力強い感情を奥底に秘めた、惹きつけられるような、真っ直ぐに過ぎる言葉と瞳が、僕を貫く。

 それ以上、それ以上はもう。捨てるべき感情を引き止めないでほしい。これ以上この感情を引きずって得られるものもなければ、ただ虚しさが増幅するだけだ。

 どれほど己が愚かであれ、振り向くことがないと分かっている人の側に居続けられるほど愚かじゃない。そんな人の隣で「友達」として笑っていられるほど、正気を失ったわけじゃない。

 いやもう既に自分は一度壊れて、まともだと名乗れる部分など持ち得ない。僕はもうおかしくなってしまった。

 兄の真実と引き換えに、僕は僕を失くした。兄の次は、僕は僕を探さなくてはならない。


「やめてよ。……もう、戻れなくなる」


 とうに、もう戻れない位置にいるのに。知らなかった頃に戻れない。気付かなかった頃に帰れない。

 これ以上貴女を好きにはなりたくない。失うと定められているのに、こちらを取り残して一人で去って行くと知っているのに。

 彼女は少し驚いたように、そして嗤いを含むように淡々と言った。


「そうだな、すまない。生徒会長が廊下を走っていたら面目が潰れるな。引き止めて悪かった。戻ろう」


 彼女は足早に教室へと戻って行った。一人で進む、その背をずっと見てきた。時折困ったように笑って振り返った姿が蘇る。

 歩幅を合わせることを忘れるのだと言う。それほどいつも悩んでいた。ずっと何かを考えていた。自分は支えることができなかった。

 そんなことまで、自分はまた繰り返すのか?

 関係を解消しても、友として付き合って支えられたのなら。例え振り向いてもらえることなどなくても、側に居られる権利があるのなら、それを友だと呼べる選択肢を与えられているのなら。

 何が正解で、どれが最善なのか。答えだけを教えてほしい。

 チャイムの鳴る一分前にようやく、僕は教室へと戻った。



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