二十五
帰宅した母にも「失恋か」と揶揄われ、春香と自分の三人で夕食を済ませた。それから食事を済ませてきた父と、最後に兄……だけでなく羽山も来た。
羽山が来たことにも驚いたが、リビングに現れた秋良さんの姿にも驚いた。短く無造作な髪に、黒い眼鏡を掛けていた。服装も無造作で、顔は同じなのだが、あまりにも雰囲気が違って戸惑った。自分はしばらく見ていなかったから知らなかっただけかと思ったが、その場にいた母と妹も驚いていたので、どうやら初めての姿らしい。羽山が来たことにも驚いてはいたようだが。
母と妹が顔を見合わせる中、自分と秋良さんと羽山の三人は兄の部屋に集合した。
部屋の奥に秋良さん、その正面に自分、二等辺三角形ができる位置に羽山が座った。示し合わせたわけではないが、全員が床で正座をしていた。
全員が無言のまま、しばらく時間が流れた。話がしたいと言ったのはこちらなので、自分から話を切り出すべきだと思ったが、羽山も来ているのだから秋良さんにも話しがあるはずだ。そんなことを思っていれば、珍しく話出すタイミングを逃した。
やがて、動いたのは秋良さんだった。彼は息を吸うと、こちらに深く頭を下げた。今までに聞いたことのない震えた声で、何度も何度も謝った。
自分は、謝ってほしかったわけじゃない。ただ、昔のように笑い合いたかった。秋良さんに顔を上げてもらうと、自分も彼に謝った。疑い続け、受け入れられなかった自分、うまく付き合っていけなかった自分、彼を苛んだ日々を、全てを謝った。
互いに歪んだ顔をしていた。そしてどちらからともなく笑い出した。泣きながら笑って、見ていた羽山も笑って泣いた。
もう、兄を探す必要はない。兄はとうの昔に死んだ。
兄の代わりに秋良さんがいる。秋良さんは本当は臆病で、とても不器用らしい。性格として不器用なのは理解できるけれど、臆病だとは全く分からなかった。
そして優しい人だった。長い間僕を苦しめたと、兄の顔をくしゃくしゃにして謝った。
互いに謝って、互いに許し合い、そんなことを繰り返して互いに謝り尽くしたところで、僕はようやく幽鬼のように自分の部屋に帰っていった。扉を閉めて、ゆっくりと膝から崩れ落ちていった。
高校生にもなって、こんなに大泣きをするとは思わなかった。涙腺が壊れているんじゃないかと思うくらい、昨日も今日も自分は泣いてばかりだった。
床に転がって歪んだ天井を見つめた。
自分はもう、自分の感情が分からなかった。彼に謝ってほしいわけじゃない。彼を許す許さないでいえば、許しているのだと思う。ものすごく満たされているのに、同時に胸の中心で風穴があいているようだった。
兄はもう死んでしまっていた。
秋良さんを理解してから、ようやくその事実に実感をもった。兄は死んでいた。もう、探さなくても良い。
秋良さんとだって、もう何年も過ごしてきた。あと数年もすれば、兄よりも秋良さんと過ごした時間の方が長くなる。受け入れるという以前に、既に自分の中に組み込まれていた存在なのだと理解した。
本当は秋良さんのことも好きなのだ。当たり前だ、慕っていた兄と同じ姿形をしていて、嫌いになるはずがない。自分だって、妹とのように話したかった。笑ってほしかった。疑いたくなんてなかった。少し性格が変わっただけ、そんな風に思って過ごしていけたのなら。
どうして自分は、こんな馬鹿なことばかりしているのだろう。自分の何がいけなかったのだろう。どこから間違えたのだろう。些細なことを覚えていなければ、今の自分は幸せだったんだろうか。
あるはずのない仮定と、後悔が浮かぶ。
どの想定でも辿り着く自分は、確実に今の自分とは違った。けれど僕は、今の自分でない自分は想像できないし、なれそうになかった。
解放されたような、重荷が取れた感覚とともに、使命を達成できずに失ったような虚無感があった。それらの感情がわけもなく往来した。
ぐしゃぐしゃの顔を拭った。
……これから、違う何かを見つけていけば良い。夢や目標、希望に満ち溢れたものを。見つかるのかどうかは、分からないけれど。いつか見つかれば、それで良いだろう。
すると唐突にノックの音が聞こえた。
「ツキ兄さん」
春香の声だった。
「ホシ兄さんのこと、聞いた」
ドア越しに聞こえた話に、ドクリと脈を打つ。
ホシ兄さんとは、冬治兄さんを指す春香だけの呼び名だったはずだ。
幼い頃はトウジ兄さんと父さんとがごちゃごちゃになって、言い辛かったといつか言っていた。省略しようとしてウジ兄さんと呼べば、響きが嫌だと怒られて、ジイさんと呼べば頭をゴリゴリと拳骨で締められ、わざとらしく泣いていたことを思い出した。
しかし本人の前では基本的にただ兄さんとだけ呼んでいたので、聞く機会は少なかった。
秋良さんは結局、家族に話したということだろうか。羽山は、話す必要がないのなら話さないと言っていたのに、それでも話したということは、話す必要があったということか。なぜなのだろう。そんなことを、ぼんやりと考えていた。
「入っても良い?」
春香は尋ねたが、僕はこんな状態を妹に晒せるはずはなかった。
しかし承諾していないにも関わらず、春香は勝手に部屋へ足を踏み入れた。鍵を掛けておけば良かったと後悔しながら、僕は咄嗟にドアへ背を向けるようにして座った。
「ツキ兄さん」
「何」
背後で、春香がドア付近に座った気配がした。
春香は秋良さんから聞いた話と、それを聞いていた自分たちの様子を説明した。両親は驚いたようではあるが、彼らを否定することもなく、納得していたようだった。春香にいたっては、何となくそうではないかと思っていたらしい。
彼を……秋良さんを受け付けられなかったのは、ただ一人僕だけだった。そんなことに虚しさを覚え、ただ一人悩み続けていた自分だけが馬鹿のようだった。
そんな馬鹿な兄を知りようもない春香は、変わらぬ調子で話を続けた。
「ツキ兄さんは兄さんのこと、知ってたんだね」
「……全て知ったのは昨日だよ」
「そっか。うまく言えないけど、不思議だな。私はずっと『ああ。ホシ兄さんは生まれ変わったんだ』って、そう漠然と思ってた。まさか生まれ変わったんじゃなくて、本当に別人だったとは思わなかったけれど」
春香の声が、少しだけ揺れた。
「でもツキ兄さんは、それでずっと苦しんでたって、私は知らなかった。どうして、せめて私には相談してくれなかったの?」
言えるものか。ずっとそう思ってここまで来たけれど、本当は誰かに言うべきだったのかもしれない。今更、そんなことを思う。
「言ったら、ハルを苦しめると思った」
「そっか。ツキ兄さんってとんでもなく馬鹿なんだね」
柔らかな声で流れるように出た侮辱に、僕はわざわざ腹を立てることはなかったが、驚きはした。
そして低く咎めるような声で言った。
「……春香」
「けど、馬鹿なくらい、もの凄くツキ兄さんが優しいんだって分かってるし、再認識した。ホシ兄さんもすっごく優しくて、秋良さんも、とっても優しい人だってまた分かった。……すごいな、私、お兄さんが三人もいるんだ」
そんな春香の言葉を聞いていれば、自分の狭量が情けなくなった。
「ハル。僕は……僕には、ハルみたいな度量もない。ハルの兄として、凄く情けない」
情けない姿に情けない声で、兄としての示しがつかない。馬鹿な、人間だ。
すると春香が僕の背をばちんと叩いた。正座を浮かすようにして隣に来ると、こちらを覗き込んだ。
僕は逸らした顔を立てた膝で隠した。
「ね。ツキ兄さんは私のために、みんなの為にずっと一人で抱えてたんでしょう? 私にはできないことだよ。私の兄さんだからだよ。そこが兄さんの強さだよ」
そんな言葉を聞けば、また零れそうになるものを押し留めようとして、眉に力が入った。
妹だけれど、敵わないと思うときがある。自分だけが子供のまま成長できなかったんじゃないかと、少し惨めになった。
けれど、自分を前へ向かせる温かさがあった。
「ハル、ありがとう」僕は一度春香に視線を向けて、同じことを言った。「……ありがとう」
「私も。ありがとうツキ兄さん。生意気なこと言ったけど、実はまだちょっと信じられないし、混乱してる。ツキ兄さんが先に知ってたなら、もう乗り越えちゃったかなって思ってここに来たけど、真っ只中みたいだったね」
春香でも、すぐに飲み込めることではなかったのか。理解できたように振る舞うところは、兄妹なのだと実感した。
表立って行動している自分はいつだって、物分かりの良い冷静な人間のつもりだ。けれど、その速度に付いていけない幼い自分がいたことに、気付いてしまった。置き去りにした自分がいたことを知ってしまった。
切り替えの早い彼女にも、そんな部分があったりするのだろうか。それとも、僕だけがこんな姿なのだろうか。
……馬鹿なことを考えている。僕は小さく頭を振った。
「僕は誰かと違って感情処理が苦手だからね」
「誰かって誰」
真っ直ぐに問われて、内心で動揺が生まれた。春香は、彼女のことを知らない。どうして引き合いに出してしまったのか。
動揺を悟られぬように恍けた。
「……誰だっけ?」
春香は顔を歪めた。味噌汁に入っているのが好物の大根ではなく、カブだと分かったときのような顔だった。
「大丈夫ですかぁ? しっかりしてくださいませね、お兄様?」
「……分かったよ。お風呂入ってくる」
「ダメ! 私が先ですから! それじゃ!」
言うが早いか、春香は一目散に部屋を出て風呂に向かった。
それから順に風呂を済ませると、僕は自室のベッドに入った。今使っているベッドと大差はないけれど、何となく懐かしさと安心感を覚えた。穏やかに眠れる気がするのは、秋良さんとの関係が解決できたからだろうか。
久し振りの自室は、童心にかえるような錯覚をもたらした。
目覚めると、普段の起床時間よりも少し早かった。
しかし今日もここからでは学校に間に合う時間ではなかったし、登校する気にもなれなかった。昨日と同じく体調不良で欠席の連絡をして、久し振りの実家を満喫した。
リビングで自分が作ったのではない朝食を食べ、穏やかな朝を迎えた。家族全員が揃った中にいて、自分は心から笑っていた。なぜか引き続き羽山もいたけれど。
兄はきっちりと服を着て、綺麗に髪を整え、眼鏡は掛けていなかった。それは僕が引っ越す前に見慣れていた姿だった。
目が合えば、兄は事故以来初めて、僕へ穏やかに笑った。その顔にまた、鼻の奥がツンと痛むような気がしたけれど、こちらも笑みを返した。
後々聞けば、昨日は高橋秋良としての最後の姿にしたのだという。「如月冬治」として、真っ直ぐに向き合って生きるのだそうだ。高橋秋良は高橋秋良として、別に良いのではないかと思ったけれど、逃避のためには使わないと決めたらしい。つまり羽山の予想は当たっていたということだろう。
――それから時折兄さんと連絡を取るようになったが、ふざけたスタンプを使うタイプだったことは少し意外だった。
朝はそれぞれに出て行く家族と羽山を見送り、一人残されると静寂を感じた。
折角実家に帰ったのだからと、自室の整理整頓をした。いらない本や資料をまとめた。これほど不要なものを集め、遠回りばかりした。自らの無能と愚かさが目に見えるようだった。
自分がしてきたことは報われたとも、報われなかったとも思う。疑問を晴らしたい自分は報われた。けれど兄を救いたかった自分は報われなかった。この事実に対する感情は、すぐに片付けられるものではなかった。
六年間に堆積したものの全てを、一度に処理できるはずはない。これから、ゆっくりと変わっていくしかないだろう。僕にはまだ、全てをすぐに切り替えることはできなかった。
捨てる物の紐を結んで運び終えると、最終処分を土屋に託して自分はマンションへと帰った。
残る問題は、七瀬梓真との関係だった。
兄との問題が解決したのならば、後は彼女とのことだけだ。彼女との関係が終われば、当面の問題は全て解決する。
これは自分で蒔いた種だった。だから自分で回収しなければならない。分かってはいる、けれど。この感情も、すぐに処分できそうにない。
風呂から上がり、端末にまだ蓄積していたメッセージや着信を適切に処理していった。そして着信の履歴に彼女の名前があるのを見つけた。
なぜ彼女から連絡があったのだろう。思い当たる事柄が見当たらず、折り返すべきなのかと迷う。目的が明確に定まっていない自分はこれほど、判断能力が下がるものなのだろうか。
まだ、まだ整理がつかない、全ての答えを用意できない。一晩で何が変わるとも思えないが、それでも少しだけ先延ばしにしたいと思ってしまった。
未熟な自分、愚かな自分、分かっているはずなのに、何もうまくできない。うまく生きてきたはずだった、大抵のことは予想ができて、簡単に対処できたはずだった。
どうして分からないことばかりで、処分できないことばかりなのだろう。もどかしいものは全て、早く捨ててしまいたかった。




