表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/114

二十四


 話し合いを終えると、先に羽山が部屋を出た。後に続くようにして、自分も部屋を出ると、洗面所へと向かった。

 彼の忠告に従い、洗面台を借りて鏡を見れば、確かに顔の状態は芳しくなかった。この顔で人前には出られないし、帰るのが実家であれば誰かに何か言われただろう。今の家で良かったと思うのは、一人で暮らすようになった恩恵だろうか。

 顔の調子を整えると、荷を取りにリビングへ向かった。羽山が、自分を送り届けてくれるらしい。室内にずっといたので時間感覚が曖昧になっていたが、時間を確認すればもう夕方だった。

 また彼と二人になるのは気不味いとも思ったが、こちらが断れる立場にないのは明白だった。リビングの手前まで来ると、ドアを開けようとした。

 すると突然人影が現れ、接触する直前で停止した。人影は、先程まで羽山と交わしていた議論の中心人物だった「梓真」さんだった。


「荷物はこれで全てだったか?」


 彼女からの問い掛けに何も返すことなく、自分は彼女を見ていた。貴女を見ていて湧き上がってくるこの感情は、一体何なのだろう。「好き」だとか「嫌い」だとか、感情としての名を与えられたものに、分類できる気がしなかった。

 だというのに、ずっと「何」であるのかを探そうとしている。そんな矛盾を、ずっと抱えてきたような気がした。

 誰かを傷付けたかったわけではないけれど、兄のためという名分で、貴女だけは傷付けざるを得ないと進んできた。

 貴女や羽山秀繕が、兄を変えてしまったのだと思った。そして自分も、貴女によって狂わされていくのだと思った。けれど全ては思い込みで、貴女は関わりがなかった。

 貴女は傷付けてはいけない人だった。例え関わっていたとしても、誰であれ傷付けて良い道理はなかった。

 そんなことも分からなくなるほど盲目で、冷静でいたつもりの自分が、冷静であったときなどなかったのだと再認識した。これまでの愚行が全て、贖罪の矢となって降り注ぐような気がした。


「どうかしたのか、如月……?」


 問い掛けに、こちらを仰ぎ見る彼女を見た。心配そうに覗き込む視線も、珍しく不安を帯びた声も、自分に向けられるのは居たたまれなかった。身に余るもののように思えた。

 なぜ、彼女は自分を気にかける?

 貴女は傷など付かなかったのか。僕と関わりを持った程度で、傷付くような人ではなかったのか。ならば自分は、彼女にとって瑣末な人間なのか。

 自分には資格などないと思いながら、それを自覚することは胸が痛むようだった。それでも条件反射のように僕は笑った。今までの自分がしてきたことは笑うことだけだったから、今の自分も笑うことしかできなかった。

 離れた場所から、そんな自分を一笑に付すような声が聞こえた。


「自分で言うのも変な話だけど、彼、よっぽど私と話したかったみたい」


 取り繕われた話を、否定はしなかった。嘘ではない。話したかったのは、確かな事実だ。ただ、彼女が持っているであろう疑問の答えと一致しているのかは、分からないが。

 彼女からの成否を問うような眼差しに、僕は思わず頷いた。こちらを覗き込んでいた視線を外すと、彼女は少し考えているようだった。

 そして再び純粋に、不思議そうにこちらを見上げる彼女にどきりとした。鋭くも美しい眼差しは、こちらの全てを見通すようだった。その視線に何度当てられ、何度心を乱すのだろう。僕はいつまで如月夏樹を飾り立てれば良い?

 彼女が全てを知っているのなら、自分の行動は全てが無意味で。けれど彼女への利益を差し出すために、まだ欺瞞は必要だった。

 彼がいるからだろうか、今日の彼女からは邪険な空気が一切なく、人としての慈悲を与えられているような気がした。


「良かったな、如月」


 軽く放たれた言葉は、驚くほどに自分の心情を貫いた。慈愛が頭から降りかかるように、全身を浄化されたような気分だった。彼女はきっと、違う意味で言ったのだろう。分かっている、分かっている。それでも今までの自分が、報われたような気がした。これまでの全てが、彼女のたった一言で、全て報われた気がした。

 無意味だと思った。兄が生きていなかったのなら、自分の行動は全て意味がなかったことだと思った。

 けれど、兄の変わった理由を、原因を知れたことは、自分がもがいたからこそ得られた情報だった。もう、兄を探す必要はない。自分は、自分のために如月夏樹として生きていけば良い。

 兄のことなど知らない彼女に「良かった」と言われたことが、自分への客観的な評価のように思えて、それが慈愛のように思えた。

 収まったはずの涙が、また溢れてきそうになった。確実に、今声を出せば嗚咽になるような気がして、何も言えずに差し出された荷物を受け取り、出口へと歩き出した。

 羽山と彼女の挨拶を耳の端で聞きながら、何とか気持ちを落ち着かせた。彼に続いて、自分も出て行こうとした間際に彼女へ言った。


「ありがとう、梓真さん」


 じゃあと言った別れの言葉も、自分が思っていたより小さな声で頼りなかった。出て行こうとしたところで突然、右腕に衝撃があった。こちらに駆け寄った彼女が自分の腕を両手でぎゅっと掴んでいた。それは以前と違い、鋭さはないが、しっかりとした握り方だった。これは、引き止められているのだろうか。

 彼女は俯いて、少し何かを考えているようだった。顔を上げ、数秒こちらを見た。


「如月、その、君は……この関係は、本意じゃなかったかもしれない。私も本意じゃなかった。だが、君を知れて良かったと、思えるようになりたい。それは、本心だ」


 言葉にならないものを懸命に言葉にしようとする姿は、遠いどこかで見た姿のような気がした。

 何度、心を揺さぶられるのだろう。

 どうして。どうして貴女はこちらに歩み寄るのか。どうして貴女は分かった上で、それでも自分を許容しようとするのか。……わけが分からなかった。

 けれど自分は、彼女を好きだと言えるわけでもなく、傷付けないと確約することもできない。これからは、彼女と別れるべく行動をしていくのだから。そう思うと彼女の言葉は鉛のようで、その期待には応えられないと謝りたくなるような、雁字搦めの感情を抱いた。

 こちらを引き止めたのは過ちだったというように、彼女の両手が離れた。どこかまたその両手が、名残惜しく思う。自分を想って掴んでくれた、両の手が、これほど。


「引き止めて悪かった。では、……また」


 そう言うと彼女に玄関から押し出され、気付けば外に締め出されていた。最後は表情を見ることも、何かを言うこともできなかったが、彼女に後悔させてしまっただろうか。普段の自分ならばせめて、最後まで笑うことができたかもしれなかったけれど。

 ……彼を待たせている、車に乗らなければ。彼に送り届いてもらい帰宅すると、日課を終わらせて泥のように眠った。






 目覚めたのは、ギリギリ朝のホームルームが始まる手前の時間だった。今更支度をしたところで、間に合うはずはない。ガラガラになっていた声で学校へ体調不良だと連絡を入れて、今日は休むことにした。

 鏡を見れば、こんな顔で登校できるはずもないと笑った。寝ながらも泣いていたのか、あまりに酷い顔だった。冬場なのに汗もかいていたようで、体中ベタベタとして不快だったので朝からシャワーを浴びた。

 朝食をとることもなく、しばらくベッドに座り、ボーッと目の前にある無彩色の壁を見つめていた。

 心はとても軽いのに、地の底にいるようだった。地縛霊のように、どこへも進めずに漂うだけの存在になってしまったような気がした。

 ベッドへと背を投げて、両手を広げた。

 邁進してきたはずの目標は、達成感もなく唐突に消え失せた。これから自分は……僕はどうしていけば良いのだろう。

 まずは兄と――「秋良」さんと話してみるべきだろう。そして彼女……梓真さんとも話しをするべきなのだろう。こちらが利益を提供して、そしてあとは別れるだけ。それらが全て終われば、僕は自分のために、これからを……生きていくのだろう。

 けれども「自分のため」という言葉が、自分に響くことも潤いを与えることもなかった。本質としての意味を理解できそうになかった。

 兄のために生きてきたのに。その必要はなくなった。ならば自分の存在意義も同時に、消えてなくなったのと変わらない。これから何をして、どうして生きていけば良いのだろう。

 誰か、何が正解なのか、その答えを教えてほしい。解き方も過程も知らなくて良いから、結果だけを、結論だけを教えてほしい。もう何も、考えたくなどなかった。

 手元へと手繰り寄せた端末で、兄へと話しがしたい旨の文章を送った。もう一度眠った後、昼過ぎに実家へと向かった。




 実家に帰れば、廊下で出会った土屋が驚いた顔をした。


「どしたんですか! 学校は?」


 雇い始めたのは近年だが、彼女がこちらで暮らしているのは随分になると聞いたのに、独特なイントネーションだけは馴染まないのは相変わらずだった。むしろ言葉も発音も混じって彼女独特の言語に仕上がっている可能性はあった。

 僕は杜撰に答えながら自室に向かった。


「ずる休み」

「えええ、そんなのありますかあ」


 第二の疑問には答えることなく、自室に最低限の荷物を置いて、一通り家の様子を見て回った。特に変わりはなく、今までと同じだった。

 個人の部屋は見なかったが、最後に兄の部屋だけは覗いた。変わらない上に、生活感の薄い部屋だった。この部屋も、兄と一緒にその役目をほとんど終えたのかもしれない。秋良さんはまだ、実家で暮らしているはずなのに。

 扉を閉じてリビングに向かった。ソファに転がれば、上から覗き込むようにまた土屋が尋ねてきた。


「どして帰ってきたんですか。嫌なことでもありましたか」

「自分の家に帰ってきちゃいけないですか?」


 こちらが笑いながら冗談粧して言えば、土屋は丸い両手を素早く振った。


「いや・やや、そうではないですけど。心配したらいかんですか」

「ご自由にどうぞ。でも質問に答える気分にはなれません」


 彼女は腰に手を当てて、自慢気に胸をそらした。


「はあ~。したら失恋ですねえ。面白いこと聞きました」

「秘密保持」

「本当じゃないことを言ってたら、本当の秘密は守られてます」


 とんちのような回答はつまり、真偽不明の事実は事実ではないので大丈夫なのだとの主張だろう。

 けれど嘘を吹聴するのも問題行動である。


「名誉毀損」

「可愛げないですねえ」

「良いですよ。なくて」

「あーはー。分かりました、お昼まだですね?」


 僕は彼女の相手をするのも面倒になってきた。


「……正解」

「可愛げありましたねえ」

「いらないですよ別に」

「お昼も?」

「いります」


 土屋は「分かったらこっちのもんですわ~」と袖を巻いて、遅くなった昼食を特別に用意してくれた。




 夕方には妹が帰宅し、土屋も自身の家に帰った。春香はリビングの随所に荷を置きながら、こちらに気が付くと言った。


「あ、おかえり。ツキ兄さん。失恋?」

「ただいま。おかえりハル。なんでみんな失恋って言うの」

「ただいま。顔が『失恋顔』してる」

「意味わかんない」


 あはは! と笑って春香は自室へと引っ込んだ。自分の鞄やらを自室に持っていかないのは相変わらずだった。我が妹ながら不思議でならない。

 ソファに座りながら、内心不貞腐れていた。何なんだ寄ってたかって人を笑いものにして。こっちはそれどころじゃないというのに。

 大体失恋など……――。

 考え始めたところで、思考が躓いた。

 失恋……。これは、失恋なのだろうか。

 失恋を、叶わない恋だと定義するなら……自分は叶わない恋をしているのか? そもそもこの感情は恋なのか?

 恋、か。一緒に居たいと思うのかといえば、今は居たくない。一緒に居ても苦しいだけ。話すのも、見ることも、きっと痛いだけだ。好きなのか嫌いなのかという問いも、砂嵐の中に投げ込まれたようだった。

 好きだから苦しいのか、嫌いだから苦しいのか、どちらでもあって、どちらでもないような気がした。けれど彼女は僕を嫌っているのだろうと思うだけで胸が痛い。もしも好かれているのだと仮定しても、胸が締め付けられるような気がした。

 彼女の言った『君を知れて良かったと、思えるようになりたい』という言葉は、どういう意味なのだろう。嫌われているわけではないのか。けれど好かれているとも思えない。

 彼女は何を考えて、自分のことをどう思っているのだろう。自分は、どうあるべきなのか。

 ……違う、自分が帰った目的は秋良さんと話しをすることであって、不毛な問いを量産することではない。

 春香が同じ空間でテレビを見始めた気配を感じながら、兄の帰りを待った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ