二十二
ゆっくりと、そして真剣に彼は尋ねた。
「君にとっては、酷い話をしなければならない。とても……傷付くことになると思う。覚悟は、ある?」
予感めいた感覚が頭を擡げる。最悪の想定、それは兄が戻ることは永久に有り得ないということ。しかしその可能性を考えてこなかったわけではない。常に、その可能性は兄に対する意識の中に半分あった。それでも残った半分の可能性を、希望にするしかなかった。
しかし羽山の、苦渋を表へ出さないようにしている姿を見て、分からないわけはない。もう既に、彼は答えたようなものだった。
静かに、ただ状況が確定する言葉を待つことしかできなかった。結局、何もできなかった自分は、できることはただ、裁定が下るのを待つことだけ。
僕はゆっくりと頷いた。
「僕は、問題ありません」
「分かった」
羽山は頷き返したのに、なかなか次の口を開かなかった。目を伏せて、数回静かな呼吸を繰り返した。浅い色の髪と肌と服は、あまり現実味がなかった。幻めいた存在感をしていた。彼の前に居るという現状も、同じようなものだろう。
そしてようやく、羽山は決意したようだった。
「……結論から言うと、彼は別人であり、君の知る以前の彼――お兄さんは、既に死んでいるということ。つまり彼は、お兄さんの皮を被った赤の他人であるということ。そしてそれが、お兄さんが変わった原因なんだ。君の大好きだった、優しかったお兄さんは、あの事故で既に亡くなっていたんだよ」
彼が嘘をついているようには思えなかった。
――兄は既に死んでいる。
その事実だけが、知りたくて、知れなくて、もがき続けてきた。兄は、既に死んでいた。
彼の言った全ての意味が分かっているわけではないのに、言葉の一つ一つが、自分の体に染み込んでいくようだった。想定していた事項が、符合していく。自分の望まなかった方へと、全てが揃い、自分の立ち位置を示した。
足下には何もなかった。自分が必死に掻き集めたものもなければ、登ったはずの山でもなく、一面が真っ白の、何もない場所だった。
どこかで分かっていたことだった。分かっていた……分かっていた。それでも涙が溢れ、頬を伝っていった。
「……ふふ、おかしいですね。そんなはずはないと、否定したい気持ちと、やはりそうだったのかと、ようやく納得できて、胸を撫で下ろしている自分とが、混在している。はは、馬鹿みたい……馬鹿みたいだ。自分は一体何のために駆け回っていたのか。はは、あはははは。うう……本当に……」
笑った僕を、悲しそうに彼は見つめた。
「ごめんなさい。この話は、本当は彼がするべきことだったと思う、けれど。今の君との関係性で、伝えることは難しかったとも思う。先に言い訳をして、ごめんなさい。同時に、君の人生を本当に狂わせてしまうまでには、間に合って良かったとも思っている」
羽山の言葉は、どこか遠くで鳴り響いているようだった。
もう、……僕は狂い始めている。
――だが、間に合うのか? まだ、狂わずに済むのか。自分は、一体何が壊れた。何なら、取り戻せるのか。どうすれば、元に戻れるのだろう。それとも兄と同じく、自分もとうに消えてしまったんだろうか。
まだ羽山の声は続いた。
「本当のことを、もっと早く言うべきだったとも思っている。そして、君が本格的に調べ始めたのには間に合わなかったけれど、何か重大な事を起こす前に、間に合って良かったとも」
重大な、事……。
「復讐を……するとでも?」
「可能性を全て、否定することはできないでしょう。間違ったように伝われば、我々が君のお兄さんを殺めたとでも勘違いされかねない。この時代ならば人によっては、死者を愚弄しているとも。それを否定はできないけれど、だからこそ、調べられるのは困る、そして余計なことを知られることも。求められた情報だけをこちらから提示したかった。これは相手の存在と、我々の存在、そのどちらをも守るために必要なことだった」
ならば兄は本当に、事故があったときに、事故で死んでいた。死者の皮を被る、というのは全く理解できないが、脳ではなく感覚が理解していた。そういうこともあるだろう、きっとそういうことなんだろう、と。
先程からずっと、自分にはなかった感覚や感情が去来している。そんな自分に驚くこともなく、僕はただ流れに身を任せているだけだった。
「我々の都合ばかりを並べてごめんなさい。君の心を傷付けてしまったこと、事実を早急に伝えられなかったこと、そして私は彼を説得できなかったこと。本当にごめんなさい。長い間、君を苦しめて追い詰めてしまった。本当に、本当にごめんなさい」
ついには羽山も涙を拭った。
僕は小さく頭を振った。ぐちゃぐちゃに絡まった糸を解いていくように、一つ一つ、心にあった言葉を口にしていった。
「もう……いいです。謝罪されたところで、兄は返ってこない。僕はずっと、兄が生きていると思っていたから、未練が燻っていた。その結果として、あなた方を責めていたことになった。けれどもう、ずっと昔に死んでいたのなら、未だに死者に囚われ続けて、自分を苛むような日々を過ごす必要もない」
自分の感情とは関係ないとでもいうように、沢山の涙が流れ落ちた。ハンカチで拭ったところでまた次が湧き出していった。
言葉にしたことで、あるべき場所に収まった感情は、今やこれほど穏やかなのに。もはや何も感じていないに等しいほど、心は凪いでいた。それでも訳もなく泣き喚く子供のように、涙だけは止まることがなかった。
僕はまた小さく首を振った。
「もう、分かりました。もう良いんです。苦しんでいたのは僕だけじゃなくて、彼もでしょう。僕や両親と、うまく接することができなかった。唯一、妹とはうまくいっていたようですが。……本当は分かっていたんです。ぶっきらぼうだけれど、兄とは違った優しさのある人だと。心のどこかで理解していました。けれどやはり彼の存在そのものを認めることは、僕にとって難しかった」
僕はゆっくりと深く息を吸った。
「彼を認めるために、これだけの年月が必要だったのでしょう。当初に教えられていた方が、余計に混乱して、二度と修復できない関係になったかもしれない。だから……これで良いんです。あと数年もすれば、僕としては兄よりも、彼との時間の方が長い付き合いになります。兄は死んでしまった、けれどその代わりにずっと彼がいてくれた。その事実を見ようとしなかったのは、僕自身です」
羽山もまた、涙を一つ落とした。
僕は分かっていた、分かっていた、分かっていた。
全て、全て、どうしようもないことで、どうしようもないことを、どうにかしようとしていたのだと、僕は既に知っているはずだった。今まで足掻いてきたことは全て、意味のない無駄なことなのだったと。
――だが、本当に分かっていたのか?
死人の皮を被って動いていたなど、生きているのは死体なのだと、誰が理解できた? そんなこと、予想も、それどころか発想にすらない。分かり得ることのない事実だった。僕は何が分かっているのか。いいや、何一つ、分かっていなかった。
兄のことも羽山のことも、そして――彼女のことも。
羽山の言う「我々」とはどこからどこまでを指して、どのような状態の組織なのか。なぜ対象が兄だったのか。それらを知らずして、分かったなどとは言えないだろう。
ようやく、冷静に動けるはずの自分が戻ってきたような気がした。
「羽山さん。まだ、お尋ねしたいことがあります。貴方の指す『我々』とは一体誰で、どのような組織なのですか。『皮を被る』とはどういうことなのですか。なぜ兄、いえ、如月冬治だったのですか」
羽山もまた、深呼吸をした。ゆっくりと、話していった。
「我々とは……君が知る範囲には、私と君のお兄さん――『如月冬治』さんだけ。そして我々は『皮を被っている』集団であり、『皮を被る』とはつまり我々の魂を、こちらにある魂の抜けた体に憑依させているということ。それはもしかすると、『転生』という言葉に近いかもしれない」
彼の言葉を順番に噛み砕いていこうとした。言葉の意味は全て理解できるのに、本質的な意味は一瞬で理解することはできなかった。
「魂……憑依……転生?」
つまり、兄だけではなく、目の前にいる彼も、『羽山秀繕』という被り物を被った、別の誰かだということ。
僕の知る範囲にいないだけで、一体どれほどの人間がそんな存在なのだろう。本当は沢山の人間が、人間の皮を被った別の生命体であるのかもしれない。下手なホラーよりも、そんな現実の方が、背すじの冷える思いがした。
目の前にいる彼だって、言われなければ分からないし、言われたって意味が分からないだろう。知らずの内に、他の生命体に侵略され、気付けば元の人間などいなかった。そんな事態も、彼の話を事実とするなら、いずれは有り得るのだろうか。
きっと突然それらのことを言われたとしても、頭のおかしい人間だと一蹴されるだけ。事実、有り得ないと思っている自分もいる。けれど、置かれたこの状況で、信じる以外の道はとれない。
答えが欲しかった。けれど得た答えは現実的に有り得ない。だというのに、その答えにしか、僕はもう納得することができなかった。
それ以外の答えはないと、心が信じていた。
「魂だけを移動させること。具体的なことは何一つ言えないけれど、それが我々がいた世界で生み出されたばかりの技術であり、だからこそ不完全な点も多い。その結果として、君を傷付けてしまったことは、本当に心苦しく思う」
羽山の話を聞きながら、どこか、何かが気になった。けれどどこの何なのか。
何かが分かる直前のような、切迫した感覚が脳までせり上がってくるようだった。
「君のお兄さんも、一人で生きているはずの人だった。家族のいない、天涯孤独の身。君のお兄さんを選んだのは、そういう条件であるはずだったから。こちらの都合と合致したはずの存在だったから。そういう人の体を借りて、こちらの世界を生きていく、そういう計画であり、実験であり、目標であった」
――実験。どこかで聞いた響きだった。
単語として聞いたことがあるのは、当たり前で、ありふれた言葉であるのに、自分には特別な言葉に思えてならなかった。
知っている、僕は知っているはず。その言葉を、意味を、何をしたのかを。
「けれどこちらで得た情報と、実際の状況は違った。憑依後に、彼は家族に囲まれていると知った。一度意識を取り戻した人間が、再び意識を手放すには、相応の理由がいる。我々は、うまく立ち回ることができなかった」
羽山の話を聞きながら、自分の脳内に電流が走るように、一つの記憶が蘇った。
『実験が成功すれば、いずれ人が過去や未来、違う世界に行けるようになるかもしれない。その第一段階として、人の魂を取り出すことに成功すること。成功すれば、別の体に魂を移して、活動できるようになること。そうすればいずれ、過去にある人の体を借りて、過去で活動できるようになること。過去に行けるようになれば、いずれ未来や違う世界にも行けるのかもしれない』
それは、誰の言葉だったのか。どこで見た記憶だったのか。
――映画? ドラマ? いいや、違う。もっと曖昧で不確かなもの。
どこで得た記憶だった。鮮やかな色、植物に囲まれた場所、延々と泣いていたのは。
……夢。夢だった。あれは何度か夢で見た記憶、そしてこの場所でも一度……何かを、感じた。
何かを見落としているような感覚が、体中にざわめいた。僕は再び尋ねた。
「貴方と、彼女とはどういう関係性なのですか。七瀬梓真さんが貴方の指す『我々』に含まれていないのなら、彼女は一体誰で、何者であるのか」
「梓真ちゃんはね」羽山は一転、穏やかに笑った。「私のお兄ちゃんだった」
「…………はい?」
自分でも、気の抜けた声が出たと思った。それを見た彼は破顔した。
「ふふ、おんなじような顔してる」
「何の……話なんですか」
羽山はくすくすと笑った。兄……だった?
僕が言葉を見つけられずに黙っていれば、彼は語り出した。
「不思議なものでね、君と少し似ているかもしれない。私の小さいときに兄は死んだ。事故だったと聞いているけれど、正直、あんまりはっきりとは覚えてないかな。でも何となく、優しい人だったことは覚えてる。大切な人だったことも」
均整の取れた顔が、穏やかに笑いを滲ませた。どこまでも慈愛で作り上げたような表情は絵画のように完成されていて、作り上げられたように現実味がなかった。
「でも技術はまだ確立していなかったから、兄の魂は離れていった。その離れた魂がここに来たのかどうかは分からないけれど、梓真ちゃんの魂は確かに私の兄と同一だよ。証拠を君に見せることはできないけれど」
どこまでも根拠はなく、ただ信じるしかないという。とても信じられない話だった。
けれども、自分には信じることしか選択できない状況だった。
「だからね、幸せになってほしい。私にできることは、この家に住んでもらうことぐらい。それ以上は、彼女が嫌がるから。今の私と梓真ちゃんは赤の他人だよ。客観的に見れば、本当に何の関係もない他人」
分かりそうだった何かが、一つだけ分からないまま、消えていくような気がした。




