二十一
バスの車窓から降り始めた雪を見ていると、ゆっくりと溜め息が出た。手に入れた羽山の情報を復習しただけで、本当に何もできなかった。何から尋ねれば、何から話していけば良いのか。
降車すると、傘を差した彼女が立っていた。挨拶とともに、もう一つ持っていた傘をこちらに手渡された。彼女の鼻は赤くなっていて、たぶん冷えたのだろう。自分も折り畳み式の傘は持っていたけれど、笑って彼女の善意を受け取った。
黒い無地の傘だった。彼女が差していたのも、紺の無地だった。なぜ彼女は折り畳みの傘なのだろうかと思えば、彼女が持っている傘がこの二本だけなのだろう。
彼女の静かな善意に、胸が温かくなる反面、疑問もあった。嫌いな相手に傘を差し出すだろうか。単に、自分は差して、相手が差していないのは変だから? もしくは、羽山に言われて? それとも、羽山に見られるから?
全ての疑問を、頭を振ることで消し去った。どうだって良いことだ。考えたところで仕方のないことだった。
二度目に訪れた別荘には、持ち主である羽山秀繕がいた。玄関でこちらを迎え入れた彼に、彼女が互いを紹介した。彼は一瞬、瞠目した。過去に覚えていないかもしれないと言ったのは、本心だった。一度会ったきりの、如月冬治の弟というだけの存在なのだから。何も知れず、何もできなかった存在を覚えているはずはない。何もできないのは、今も変わりないけれど。
彼が覚えていたかは定かではないが、名前でこちらが弟だということは理解しただろう。弟という情報は、どのように作用するだろうか。
羽山は、次に見たときにはにっこりと笑って迎え入れたので、こちらも笑って手土産を差し出した。
そうしてリビングでは、二人と対面するようにして椅子に座った。彼女と羽山が二人並んでいる姿は、その必要もないけれど、きっと見慣れないのだろうと、漠然と思った。
机の上には既に彼女が作成した契約書が乗っていた。法的拘束力などない、ただのお遊びと変わりないものだ。
それでも、自分はこの紙に縋ってしまいそうになる。彼女に不愉快を与えながら、仕上げさせた書類だけが唯一、自分が足掻いて手に入れたものだった。
この契約を結ぶために、羽山との面接があるはずだった。しかし面接などはなく、ただ彼が見ている前で契約を済ませるだけだった。ならば一体何のために、彼はわざわざ訪れたのか。こんな笑えない遊びを見届けるために?
自分は、一通り目を通して名前を書くだけだった。一項目だけ追加され、以前確認したものとほとんど変わることはなかった。異論はなかったため、サインを済ませた。……自分も羽山も、たったこれだけのために、ここまで来たということだろうか。
前を見れば、彼女が羽山と顔を見合わせていた。彼はまるで安心させるかのように、彼女に笑い掛けた。それを見た彼女は、穏やかに小さく笑った。
その光景を見た瞬間、胸の内側がバキリと音を立てて壊れていく気がした。
信頼している相手なのだと、彼女の下がった眦が告げた。今までに一度たりとも見たことのない表情、そしてそれ以上に、彼といる彼女の雰囲気が、心から安心しているように柔らかい。まるで見せつけられているかのような全てに、黒い衝動が込み上げてくるようで、感じたことのない感情に困惑した。
彼女が好きなのは羽山だ。そこに自分が入る余地などどこにもない。始めから、無理だったのだ。始まる前から終わっていた計画だった。愚かで滑稽な猿芝居の一人相撲は、何一つ笑えなかった。笑えない、笑えない。
始めから全てを間違えていた。彼女は羽山が好きなのだ。ならばなぜ、僕とこんな契約を結んだ? これが慈悲だとでも? 憐れみだとでも? 何のために?
――もっと冷静に考えれば、分かることがあるだろう。冷静になるべきだ、そう思うのに、今にも狂い出しそうだった。必死で、体面だけを保っていた。
彼女と関われば、自分はおかしくなっていく。だからきっと、兄も変わってしまった。僕たち家族は、この二人に歪められていくのだ。もう僕はすでに、頭が半分おかしくなってしまった気がした。
「夏樹君、私と話をしましょう」
降り掛かる声を見上げれば、羽山秀繕が笑っていた。悪魔の余命宣告だった。自分は今日ここで、全てが変わってしまうのかもしれない。もう、元には戻れないのかもしれない。それともずっと前から、少しずつ何かを変えられていたのだろうか。
唯一手離すことなく守り続けていたプライドだけを手にして、彼の言葉に従った。
彼が客室と定めた会議室で、彼と向き合うようにして座った。先程と違うのは、部屋が変わって彼女がいないだけだ。
無音の部屋に、自らの鼓動だけが鳴っていた。これから何を話す、僕はどうなっていくのか。
羽山秀繕はくすくすと笑った。
「驚いたよ。梓真ちゃんの言う子が君だったとはね。まさかここで会うとは思ってなかった。元気だった?……って、聞けるような間柄じゃないのかな」
確かに、そんな気安い間柄ではないだろう、少なくとも僕にとっては。兄の友人――今はそう仮定する――というだけなら、本当は自分も親しくはできたのかもしれない。けれどもう全てが、始まりから、何もかも間違っていた。
羽山秀繕は穏やかに笑いながら、ようやく繋がった気がする、と小さく呟いた。
自分の心臓は機械的に鼓動を繰り返した。普段の自分を思い起こす。こんな時に、自分は一体どのように対応していただろう。今の僕には到底、まともに対峙できる気がしなかった。
「お久し振りです。覚えていらっしゃるとは思わなかったので。先程は失礼しました」
「いいよ、そういうのは。それじゃあ順番に、聞いていこうか」
「……それが面接、ですか?」
「そうだね、面接かな。呼び名は何でも良いけど。どんな子であれ、梓真ちゃんが決意していたのなら、それを覆すつもりはなかった。ただ、やっぱりどういう子なのかは確認しておきたかったから……なんて、保護者面する権利もないんだけど」
「……保護者、ですか? あなたが? 彼女は自分を管理人だと言っていましたが」
彼が保護者と言ったことを、不思議に思う。彼女は自らを管理人と呼び、規則は厳守していると言った。それはまるで、取り引きをした間柄のようで、だからこそ、義務的な関係だと思っていた。
しかし先程並んで座る二人を見て、ある程度親密な関係であることは見て取れた。ならば先程は、あくまで疑似的な親子関係としての姿だったのか。ただ、年齢から言えば羽山は兄と同い年で、彼女とは十違うだけなのだから、親子と呼ぶには歳が近い。ならば兄妹として? でも彼女が羽山をどう思っているかなど、分かりようがない。
羽山は笑って答えた。
「それも間違ってはいないかな。さて、聞いた話によると、君が『この別荘を気に入ったので、自由に出入りできるようにしてほしい』と頼まれた、ってことになってるけど。実際はどうなのかな」
彼女はそんな風に伝えていたのか。始めに演出した表向きの筋書きから見れば、問題はない。彼女はそれを信じているのか? それとも、そう言わざるを得なかったのか。
どちらであれ、自分にとっては好都合であること。だが彼から見れば、違和感はあるかもしれない。
「間違いはありません」
「そう。じゃあどうして直接私に言わなかったの?」
「言える立場ではありませんし、住んでいるのは彼女ですから、まずは彼女に尋ねてみるべきだと思いました」
言い退けた自分に、羽山は苦笑した。
「なるほど、最もらしい。じゃあここで、本来ならどこを気に入ったのか、とかを聞いていくんでしょうけど、そういうのは面倒くさいのでナシにしましょう。君が答えを用意しているのは分かるから。私が聞きたいのは、私が分からないこと」
羽山はこちらを真っ直ぐに見た。彼女と似た視線、けれど鋭さのない、どこまでも静かな瞳だった。
「――なぜ君は私や冬治を調べているのか。何を隠しているのか」
きっと、自分は驚くのだろうと思った。だというのに、心臓は変わらず、同じ間隔で脈を打った。
知っていた。羽山は調べられていることを知っていた。しかしそれさえも、自分には分かっていることのようだった。情報が出てこないことも、きっと知られていたから。そしてそれを、自分は感覚的に理解していた。
それでも自分は、兄を探すために、今ここで兄を調べていると、理解されてはいけない。
「すみません、何のお話なのか、仰る意味がよく理解できません」
「君は何のために私たちを調べている? 知って何をしたいのか。どうしたいの?」
「だから、何の話ですか。まるで僕が調べていると確定していらっしゃるような口振りですが、なぜ僕が調べる必要があるのですか。その証拠はあるんですか」
「証拠が必要?」
「それは、もちろん――」
当たり前だろう、と思ったところで動揺が生まれた。無音の空間は、彼のまっすぐな瞳が引き起こしているのか、自分が張り詰めているのか。
「私たちは、君が我々を調べていると知っている。ならば私たちは、君の目の前から消えるしかない」
「どういう、ことですか」
目の前から、消える――?
「無闇矢鱈に、勝手に知られて、吹聴されては困るから。ならば知られる前に、姿を消すほかにない。もしくは、こちらが適切に情報を開示するしか」
「意味が、分かりません。何の、話なんですか」
「だから答えてほしい。君が望む情報は何なのか。私は答えを返せるし、君が知りたいことは、君が血眼になって探しても出ないはずの答えだから」
今は本当に、彼が何を言っているのか理解できなかった。いいや、理解している。理解しているにも関わらず、何一つ分からない。それはあの時聞いた、兄の言葉と同じ響きだった。
「仰っていることが矛盾していませんか? 探しても出ない答えを、勝手に知ることはできないでしょう。知られるはずのないことで、姿を消すなど」
「いいえ。『疑われている』という時点で、我々には身を消す理由になる。もう一度、根本的な計画の見直しと、精度の向上を――」
思わず自分は机を叩いた。
「だから、何の話なんですか! 消えるというのなら、一人で消えれば良いでしょう! 兄は関係ない!」
声を荒らげた自分に、自分で驚いた。会話の中で大声を出したことなど、覚えている範囲にない。
「いいえ。関係がある。それは君も分かっているからこそ、調べているのではないの」
どこまでも静かな羽山は、彼女とよく似ていた。相手の静かさで、自分が冷静さを取り戻した。
「確信を持たれているのであれば、その推測を仰ってください。聞きましょう」
「それは卑怯でしょう、夏樹君。脅したいわけじゃないけれど、君が求める情報以外を話すことはできないし、君が今ここで聞かないのなら、私たちは君の前から消える以外の選択肢を取れない。未来永劫、話すことはできなくなる。だから、正直に、全てを話してほしい」
規則的に動いていた歯車は、軋み始めた。緩やかに不都合が生まれていく。動揺せず、余裕を持って、如月君であって。
――だが、それはいつまで?
「……容疑者から、正確な証言が取れるとでも思いますか? 犯人であれば嘘をつき、違うのであれば確信には辿り着けない。ならばもっと違う角度から証拠を集めなければ、話にならない。違いますか?」
言い切った自分に、なぜか羽山の方が泣きそうな顔をした。
「……そう。だからそこまで頑なだったんだね。……ごめんね。彼との溝がそこまで決定的だとは、予想していなかった……いや、したくなかったから、考えないようにしていた。君は本当に、本当にお兄さんが大好きだったんだね。ごめんね」
彼が言っていることは、理解しているのに、理解したくなかった。なぜか謝る彼に、自分はどう対処すれば良いのか分からなかった。
僕は、もう既に壊れている何かから、わけの分からない感情が溢れていくのを、ただ見守ることしかできなかった。
「何の……話なんです」
「本当に良いの? 後悔しない? 君が疑問に思っていることの全てが、疑問のまま、目の前から消えても良い? 君はそれで本当に、自分の人生を歩んでいける?」
「ま……待ってください、意味が分かりません。そんなの、いきなり言われたって、僕は」
まるで余命宣告のように、重たい秒針が動き始めた。
「君が知りたいと思う気持ちを、我々は咎めることはできない。そう思わせてしまった、こちらの落ち度なのだから。だからこそ我々は、全てを」
「待って、待ってください! 意味が分かりません! 兄を、兄をもう連れていかないで」
口に出したときには、既に涙が落ちていた。とめどなく溢れていく、強い感情は、どこから来たのか、どこにあったのか、自分では分からなくなっていた。
僕はもう、何かが壊れていた。そんなこと、とうに自分は知っていた。分かっているのに。
分かっているはずの全てが、ままならなかった。
「君が、知りたいことは何?」
「兄の……全てを。兄が、変わった理由を。事実を、真実を……全て」
ゆっくりと世界が反転していった。
「兄を調べていると理解されてはいけない」と思っていたはずなのに、僕は全てを曝け出していた。それはまるで助けを求めるようであり、懺悔のようでもあった。
羽山は一つ頷くと、神父のような穏やかな笑みを浮かべた。




