二十
目覚めれば、普段より三十分も遅い時間に起きた。登校時間までには間に合いはするが、朝は幾分慌ただしくなった。
家を出る直前になって、自分の手首に並ぶうさぎが目に入った。剥がそうとするが、驚くほど取れそうにない。仕方なく包帯を取り出して、バス停に着くまでに厚く巻いて隠した。
長袖であるから、絆創膏が見つかる可能性は低いだろうが、安心はできない。これ以上古賀や植木、酒井などに面倒な部分を作りたくなかった。
廊下でも、教室でも、いつもより遅いことに周囲から少しだけ驚かれた。一番信じられないと思っているのは自分なのだろうけれど。
自席に座り、一息ついた。
「如月くん、おはよ。ここ、寝癖」
自らの頭を指して言ったのは伴野だった。
「あはは、おはよう。ありがとう」
僕は笑うと、該当箇所と思しき部分を手櫛で整えた。
しかし「違うってほら」と言いながら、伴野が自前の鏡を取り出して見せてきた。寝癖の位置は斜め後ろなのか、少し見え辛い。
「やったげるよ」
こちらの承諾も得ずに、伴野は勝手にこちらの頭を櫛で梳かし始めた。その櫛は、彼女が普段使用しているものであれば、彼女の皮膚細胞などが付着しているのではないだろうか。寄生虫の類いが存在していないとの証明も受けてはいないし、許可なく唐突に行動するのはありがた迷惑だとしか評価できない。
彼女の動きを阻んだ。
「良いよ、伴野さん。たまにはこういう髪形でも、面白くてさ」
「でも……」
「如月君が良いって言ってんだから良いじゃん」
会話に入ってきたのは立尾だった。その彼女の後ろに矢津もいた。今の二人は少し不機嫌そうな空気を持っていた。
立尾が続けて非難した。
「本人が良いって言ってることを無理にするとか最低でしょ」
「む、無理になんてしてない」
伴野は身を縮めながらもはっきりと言った。確かに「無理に」はしていないが「許可なく」したのだ。
「どうだか。理由こじ付けて触りたいのが見え見えだっての」
「ほーんと。伴野さんっていっつも腕組んだりして触ってるもんねぇ」
矢津も便乗して非難した。争うのは構わないが、本人のいないところでしてほしい。
自分は笑って、それぞれの顔を見た。
「三人とも気を使ってくれてありがとう。僕は大丈夫だから。そろそろ休み時間終わるよ」
立尾は一度伴野を睨むと、そっぽを向くようにして教室を出て行き、それに倣って矢津も出て行った。もうすぐ休み時間が終わるのに。対する伴野は少し立ち尽くしていたが、小さく震えるように自らの席へ戻った。
一部始終を見ていた植木に酒井、藤村がこちらの机に集合した。
「いや〜いつ見ても怖いね、女子は」と植木。
「女子っつーか『ぐりとらり』がっしょ」
酒井が訂正すると、藤村が小さく笑う。
「言えてる」
立尾が恵理で矢津が陽良莉であり、大抵二人は一緒なので陰でそう呼ばれていた。
植木はにたにたと笑って言う。
「にしても如月サンは魔性だ?」
魔性、か。笑えるものだ。効いてほしいところで効かないのなら、ただの不用物でしかない。
「どうかな。みんな気遣ってくれただけだし。それ以外ならあとは、時代との相性が良かったんじゃない? 平安ならまた違うでしょ」
「言うねぇ!」
けらけらと植木は笑う。酒井もにたりと笑う。
「お前は平安でもアウトだな」
「はあ?」
「お前もだろうが」と植木が荒れ始めたところで、藤村が付け足した。
「お前に追い付ける時代はないってことだよ」
「あー、先取りしすぎ?」
植木は一瞬で鎮火した。
「そうそう」「よく分かってらっしゃる」
酒井と藤村が杜撰に肯定した。植木はそんな二人の背にドッドッと拳を当てた。
「よしお前ら、今日俺より点数低かったら奢りな」
「はあ〜?」
二人が声を合わせた。植木の言う点数は、小テストなどではなく、ゲームセンターでのスコアを指しているのだろう。音楽ゲームならば三人の中では植木が一番得意だ。格闘ゲームなら酒井、シューティングゲームなら藤村、レースゲームなら似たり寄ったり、といったところだった。
植木はこちらに尋ねた。
「今日休みだったよな? お前も来んだろ?」
……ゲームセンターか。羽山への対策を考えるべきだと思うのに、何も考えたくなかった。
きっと、違うことばかり考えてしまう。今は、考えたくなかった。何か違うことに集中していれば、考えなくて済むのだろう。
僕は頷いた。
「そうだね、偶には体動かさないと」
「うし、決まり! 放課後!」
植木が言ったところで、見計らったかのように予鈴が鳴った。皆は解散して、それぞれの席に座った。
朝の教室に、似合わない何かが胸の内で黒く渦巻いていく。この感情は何だ。自分はどうすれば良い。自分はこのままで許されるのか。
何のどこをどう変えれば良い。どこから手をつければ良い。
彼女に好かれる必要はあるのか? 情報を引き出すだけならば、必ずしも揃えなければならない条件ではない。このまま契約さえ問題なく結べれば、幾らでもあの別荘へ訪れることはできる。そうすれば、わざわざ好かれる必要もない。
付き合えることができるのなら、当初の目的は達成しているようなものだし、つまり何の問題もないはずだ。何を悩む必要がある。何を憂う必要がある。
何の問題もない、順調じゃないか。
だというのに、どうしてこれほど胸が苦しい。僕は彼女を好きで、付き合うことができれば、それは一般的に見てもおめでたいとでもいう程度の、よくあることだ。
だが、そこに彼女の意思は尊重されていない。彼女は僕を嫌っている。無理矢理こじ付けた関係だ。これからも、彼女は嫌っていくのだろう。
欺瞞に満ちた関係は、自分が手に入れようともがいて得ようとしているもの。そしてもう後戻りはできない。進んで行くことしかできない。
これ以上、彼女を傷付けたくはない。嫌われたくない。もう、彼女に嫌われたくなどなかった。けれど兄を望むのか、彼女を望むのか。どちらが、何が、正しくて、間違っているのか。
昼食を購買で揃え、生徒会室へ行こうとしたところで古賀と鉢合わせた。古賀は少し驚いたようにこちらを指差した。
「あれ? 珍しくね?」
「今日寝坊したから」
「エーッ⁉︎ お前が⁉︎ ありえねーっ」
こちらは証拠とばかりに少し大人しくなった寝癖を示して見せた。
ケタケタと笑う古賀は、こちらの肩を叩いた。
「おっし俺も今日は生徒会室で食べんよ」
「来なくてよろしい」
僕は古賀を放って生徒会室の方へ進んだが、彼はこちらの隣を歩いた。
「休み時間までお前の言うことは聞かんぞ」
「いつ僕の言うことを聞いてくれたのかな?」
「いっつも大人し〜く聞いてるだろ」
当然のように言う古賀を、僕は冷めた目で見遣った。そんな古賀などいない。
一度古賀を川に落とせば金の古賀、銀の古賀が出て来てくれるだろうか。その時僕は「自分が落としたのは、人の言うことを聞かず邪魔ばかりする業務怠慢の古賀です」と説明しなければならないな。
とはいえ金の古賀も銀の古賀も、いらないけれど。
「古賀って双子だった?」
「どういう意味だよ」
不思議そうにする彼を、僕はクスクスと笑いながら階段を上っていった。
「君は弟君だ? 兄さんが智だから弟の君はサトル君かな? 智お兄さんに伝えといて、生徒会長さんが『文化祭では覚えておくように』って言ってたって」
「おい。おいおいおい。どういう意味だどういう意味だ!」
僕は声を出して笑った。
生徒会室では、いつものように適当な椅子に座り、購買で手に入れた惣菜パンを食べた。古賀も近場に座って同じように食べていた。
先程までは、こちらが先に到着したので、内側から施錠して古賀を締め出していたが、あまりにもうるさいので仕方なく鍵を開けて入れた。他の生徒や教員への迷惑になりかねなかったからだ。
そんなうるさい古賀は落ち着いた調子で尋ねてきた。
「で、昨日の用事は何だったんだ?」
「なんで?」
「なんか必死だったろ」
……必死、か。笑えてくる。古賀にそんな風に見られるほど、客観性を欠いた行動をしていた自分が、愚かであり耐え難い不愉快を持つ。
「なんで話さないといけない?」
「聞いちゃ悪いか?」
古賀はいつになく真面目に返した。こちらは真っ直ぐ前を向いたまま答えた。
「人の予定を妨害したのに聞く権利はないだろうね」
「俺は当然の主張をしたまでだ」
「結果として妨害になったんだから、主張の正当性は関係ないね」
古賀はこちらを睨んだ。
「俺お前のそういうとこほんと嫌い」
「自分にとって都合の悪い部分を、他人に『嫌い』としてなすり付ける人は、僕も好きじゃないね」
勢いよく立ち上がって、古賀はこちらを指差した。
「だ・か・ら! そういうとこだ!」
「この話はもう平行線だから議論するだけ無駄だよ」
「議論とかじゃねぇ〜! お前友達いなくなるぞ!」
「古賀クンに友達になってくれと頼んだ覚えはないな」
「は〜〜ん? 良いんだな? 如月サマはぼっち生徒会長で良いんだな?」
「一人減る程度でぼっちとは呼ばない」
「一人を蔑ろにする奴が他を尊重できるかー!」
喚く古賀を僕は笑った。
「ああ、単位を間違えてたよ。一匹減った程度で」
「ブワーーカお前なんか全人類に嫌われちまえばーーーか!」
古賀は罵りを叫ぶと、残りのパンを全て口に詰め込んで、勢いよく生徒会室を出て行った。喉に詰まるだろうな。
静かになったところで、食事を続けた。やはり慣れた弁当の方が良いと、ぼんやりと思う。弁当ならば反省点を分析しながら、自分の力で次回へと繋げていけるのに。
……やはり、今は一人でいる時間を設けるべきではない。食べ終えたら、早く教室へ戻ろう。
放課後は約束どおりゲームセンターへと足を運んだ。
静かな場所とうるさい場所はどちらも得意ではないが、選べと言われれば静かな場所を選ぶ。しかしゲームセンターはいつでも騒音でできていた。だというのにそれが今はありがたく感じた。
狭い通路を移動しながら、それぞれの好きなゲームを順にプレイしていった。自分も久しぶりに音楽ゲームをプレイすれば、珍しく植木より得点が高かった。これで自分は奢らなくて済むわけだ。
二人で競える種類のもので植木と酒井が争っている間、自分と藤村は近くにあった椅子に壁を背にして座っていた。
音に溢れてはいるが、慣れてしまえば近くにいる人との会話は、問題なく聞き取れた。藤村は笑って言った。
「今日珍しいじゃん」
「確かに、調子良かったね、珍しく」
「良いことあった?」
「いいや、ないね」
「じゃあ逆か」
「はは……そうかも」
杜撰に肯定すれば、藤村は珍しく目を見開いた。何かあったのかと、思わず僕は尋ねた。
「どうかした?」
「いや、それも珍しいなと思って」
「それ?」
「如月ってあんまり自分のこと話さないだろ」
「そうかな? 藤村たちに聞かれることも少ないし」
……自分の話とは、何だっただろう。どの自分の、どんな話をすることなのだろう。
藤村は一度こちらの手元を見たような気がしたが、前を向いて話した。
「確かに根掘り葉掘り聞いたりはしないし、興味もないけど、本当に困ってるやつを突き放すほど、俺らも血が通ってないってわけじゃない」
彼なりの心配なのだろうと、遠くの自分が思った。
藤村は笑いながら、落ち着きをもって話した。
「わざわざ手を差し伸べたりはしないけど、掴まれた手をはたき落としたりもしない」
困ったことがあったなら、自分から助けを求めろ。強く、そんな風に言われた気がした。けれど、自分がその選択肢を選べるのは、全てを終えた後だけだろうと思う。今の自分に、助けを求める権利など、あるはずがない。
しかし藤村がそういうことを言うタイプだったとは、知らなかった。
「誰を掴むのかは本人の意思だから、後悔しない相手を掴むべきだな……って何偉そうに言ってんのかな」
自嘲気味に藤村は笑った。僕は、偉そうだとは思っていなかった。意外だとは思っていたけれど。
「ものの見方も感想も、本人だけのものだって誰かが言ってた。だから別に、傷付ける意図じゃないなら思ったことを、好きなことを言えば良いんじゃない」
「……いい人だな。まあ、俺なら植木には言わない」
自分を褒められたわけではないのに、体温が上がる気がした。僕は笑って同意した。
「そりゃ大抵の人はそうじゃない?」
「今俺の悪口が聞こえたんだが?」
植木の声だと顔を上げれば、対戦を終えた二人がこちらに来ていた。植木は腕を組んでこちらを睨んでいた。藤村が言い返した。
「自意識過剰」
「耳がちゃんと機能してる証明ができて良かったね」
藤村の発言を台無しにするように、僕が笑って言えば、植木は激昂した。
「テンッメェ、俺よかスコア良かったからって調子乗んなよ!」
「もう一回やる?」
「ハ! 後悔しても知らねぇぞ!」
「お互いにね」
その後ギャアギャアと喚く植木と何度か対戦した。引き分けに近かったが、総合的にはこちらが勝った。
今日一日は、何も考えることなく終えることができた。
これはただの逃避で、直面の問題に向き合うべきだと思っていた。それでも今考えてしまえば、自分の中で僅かに残る何かが、全て壊れてしまう気がした。いらないと吐き捨てたはずの、時間が必要に思えた。
しかし羽山との接触は、成す術を手にできないまますぐに訪れた。




