十九
仕切り直すように咳払いをした小林は、もう一度同じように「話しは」と尋ねた。こちらも同じ動作を繰り返し、小林は僅かに迷ったようだが隣に座った。
僕は少しだけ、深呼吸をした。ゆっくりと、話し始めた。
「以前に……調査を依頼した女性を覚えてますか」
「はい。『七瀬梓真』様、ですね」
小林は頷き、同じように僕も頷いた。
「僕はその際に『気になっている』と言いました」
「よく、覚えております」
僕はもう一度息を吸った。
「僕は彼女を好きになりました。それを……伝えたかっただけです」
小林は見る間に笑顔満開になった。そして勢いよく立ち上がった。
「ほ、本当でございますか! ああこれは是非皆さまに――」
「だからまだ、片思いですので。伝えるときは、自分から言います」
小林を止めたが、効果があるのだろうか。彼は今夜にでも赤飯を炊きそうな勢いだ。これで両思いなどになったりしたら、立食パーティーにでもなりかねない。――そんな未来があるとは微塵も思えないが。
小林はどこまでも嬉しそうに言った。
「色よい返事を期待しております!」
「話は、それだけです」
「これからも、どんどんお聞かせください!」
「いや……そこまで情報があるとは思えませんが……」
「夏樹君ならば何の心配もございません! 私は待ちますから!」
「話は……以上です」
僕が同じことを二度言ったと、気付いた小林は咳払いをした。微笑んだ小林は、いつもの洗練された小林に戻った。
「それでは、失礼いたします」
ようやく、小林は出て行った。
一人になると、ソファの座面に背を預け、足を放り出した。
自ら口に出して宣言しておきながら、本気なのかと疑う。僕が彼女を好き……? それが、本気だというのか?
こんな感情が、必要だと言うのか? いいや、全くもって必要ない。必要がないどころか、邪魔であり、持っていては不都合だ。支障があり、妨げとなる。そんなことは、分かっているというのに。
彼女に笑ってほしいなどと思うのは、当たり前だ。声を聞いて落ち着くのも、側にいる時間が削れるのに焦れることも。
あまりの愚かさに、過去の自分を刺し殺したくなる。
「好き……。梓真さんが、好き……」
腕で顔を覆う。
愚かな自分を、呪いたくなる。
なぜ……彼女を好きになってしまったのか。なぜ、こんな勘違いをしてしまったのか。僕は一体、どこで道を違えたのか。
そもそもが、相手に自分を好きになってもらうなど、自分には意図してできることではなかった。それをできると思い込んでいたのが、最初の大きな間違いだった。
彼女に振り向いてもらおうとして、彼女のことばかりを考えていた。そして因果が逆転していた。自分が相手に掛けようとした罠に、自分で嵌ったのだ。愚かしいこと、この上ない。
何度も彼女の名前を呼ぶことで、こちらが彼女を意識しているのだと、思ってもらおうとした。事実、そのとおりになったのは彼女ではなく僕だった。あまりに浅はかで、愚かで、どうしようもない。
役者が、演じている内に、その人物になり変わってしまうなど愚かしい。本当の役者であれば、演じ分けられてこそ、実力があると呼べるのだから。だからこそ三流以下、ズブのド素人が「できる」などと思っていたことが、いかに烏滸がましい痴れ者であることか。
ならばこの感情は、認知的不協和による勘違いであり、思い込みだ。自分は好きでもないのに、彼女のことばかりを考えていた。だから彼女のことばかり考えている自分は、彼女のことが好きなのだと思い込んだ。
つまり本当は、彼女のことなど、好きなはずがないのだ。
だというのに、好きではないと思えば胸が苦しくなる。ならば好きだと思っても、胸が張り裂けそうだった。脳が沸騰しそうで、全身が熱い。
もう、彼女のことなど考えたくはなかった。苦しい、あまりに苦しい。
感情を無視してきたのは、蔑ろにしてきたのは、優先してこなかったのは、彼女ではなく、何より自分自身だった。奥底に沈め、蓋をして、見て見ぬ振りを続けてきた。愚かな、あまりに愚かな自分、嘆かわしくて、八つ裂きにしてしまいたい。
彼女はただ鏡のように、こちらを照らしていただけだった。愚かな如月、如月夏樹、手に負えない、哀れな人間だった。
風呂で感情を吐き出せば、わけの分からない感覚は少し収まったようにも感じた。
食事に勉強、そして睡眠、日々の課題をこなせば、明日が来る。
布団に入れば、疲労を自覚する。自分の感情に振り回されるのは、もう懲り懲りだ。彼女が好きなのであれば、勝手にそう、思っておけば良い。勝手に自覚して、好きに思っていれば良い。
相反する感情を身に宿しながら、眠りに落ちた。
彼は嬉しそうに、穏やかに笑った。
「ここに来たことはあっただろうか?」
「いいえ。初めて」
自分は笑いながら、答えを返した。珍しい木や植物を取り寄せては育てている、植物園のような研究所だった。区画ごとに色分けでもされているのか、それぞれ葉の色が緑の部屋、赤、青、黄、その他にもオレンジやピンク、細かく区分していけば数えるのが面倒なほど、沢山あった。
彼は植物学など専攻していないのに、ほとんど毎日入り浸っているようで、個性的な人が集まる研究者たちから変人だと言われていた。自分もそう思う。彼と一緒じゃなければ、わざわざこんな場所に足を運んだりはしない。虫だって寄ってくるし。
彼になぜそんなことをするのかと尋ねれば、見るのが好きなのだと笑う。それほど好きならば調べれば良いのにと言えば、好きだから調べたくないのだと言う。彼は少し変わっていて、そんな彼を好きになってしまった自分も変わっているのだろうと思った。
最初はとても嫌いだった。話し掛けても無愛想な上にそそくさと逃げようとする。今になって聞けば、いつもこちらのエネルギーが活火山のように滾っているから、あんまり近くにいると火傷するんじゃないかと思っていたらしい。そんなことがあるわけないと笑えば、彼は眩しそうに目を細めた。
彼は人の心が見えるのだという。どんな風に見えるのかと問えば、詩人じゃないからうまく言葉にできないと言った。それでも懸命に言葉にしようとして、何度か舌が縺れていた。
色となって目に飛び込んでくることもあれば、文字として浮かび上がることも、言葉や音になって耳の中に入ってくることもあるらしい。だから人混みは敵わないと言って、自然を見るのが好きだと言った。自然を見ると、感じるのは自分の感情だけで、そこでようやく、自分がどんな人間だったのかを思い出すらしい。そんな感覚は自分にはないので、全く理解できないし、できそうもなかった。
自分といるのは苦じゃないのか、と問えば、あまりに色鮮やかで美しいので、ずっと見ていたいと思ったらしい。初めて、自分だけにしか見えない景色に美しいものがあるのだと知ったと、詩人のごとく流暢に語るので、こちらの方はすっかり彼の魅力に落ちてしまっていた。
そんな風にして、彼が住んでいるといっても変わりないくらい入り浸っている場所に連れて来られたので、好奇心と、植物に圧倒されていた。彼といればどこでも楽しかったけれど、彼と見る自然は、とりわけ美しかった。
見て回ったのは植物だけではなく、山や海、川、城跡や廃工場、違う国の街も見に行った。言語が違うと、半分くらいは集中しないと分からない部分もあるから、少し楽だと言っていた。
そんな風な生活がこれから先もずっと、続いていくものだと思っていた自分は、突然いなくなった彼にどうすれば良いのか分からなくなった。
悲しみにくれた。やがて怒りに震えた。わけが分からなくなって、発狂しそうにもなった。いや、何度か、発狂していたのかもしれない。
彼が書き置きのつもりで書いた遺書には、簡単なことしか書かれていなかった。
実験が成功すれば、いずれ人が過去や未来、違う世界に行けるようになるかもしれない。その第一段階として、人の魂を取り出すことに成功すること。成功すれば、別の体に魂を移して、活動できるようになること。そうすればいずれ、過去にある人の体を借りて、過去で活動できるようになること。過去に行けるようになれば、いずれ未来や違う世界にも行けるのかもしれない。
今の自分には、見える必要のないものも、沢山見えてしまう。その原因は、体なのか、魂なのか? ならば体が変われば、どちらが原因なのか、はっきりと分かる。
自分の原因を突き止めることができ、尚且つ人類の希望に貢献できるのであれば、こんなに素晴らしいことはない。もしも失敗することがあるかもしれないので、念のために記しておく。
そんな、夢物語が書かれていた。魂を取り出してしまえば死んでしまうなど、幼な子でも分かるようなことで、彼は簡単に死んでしまった。良いように騙されたに違いない。彼は側にいる人のことは分かってしまうから、報道や文献、遠くの人から送られてきた文章は簡単に信じてしまった。
純粋な人で、変な人、そしてとても不器用な人だった。でもそんなあなたが好きだった。
見た目で近寄る人々に、苛烈だと遠ざけられた性格を、花火のようだと笑って言った。活火山だと言っていたのにと言えば、溶岩が冷えれば鉱石ができると冗談のように笑った。
愛しい人だった。だから何の相談もなく、勝手に突き進んでいったのが許せなかった。相談もしてもらえない自分が、もっと情けなくて、許せなかった。
彼はきっと、相談するまでもなく、成功するに違いないと信じてやまなかったのだろう。そんな風に愚かで純粋で、そしてその実験に輝かしい希望を見出していた。
それは反面、彼にとって彼の能力は、常に悩みの種だったのだろう。
彼は数人の教授にも相談していたようだ。彼が今後その能力を活かせるように、研究所へと取り計らってくれたらしい。卒業すれば、順調に働けるように、その分野に少し箔を付けていたそうだ。それがつまりは学科の成績を吊り上げることで、自分が一番を取れない原因だった。
彼自身の成績も優秀であるから、ほんの少しだけ足していたのだという。惜しい人材をなくした、とどこかの教授が呟いていた。
そんなことを知ったのも全て、遺品整理をしていた家族からの連絡で、それまで結局、どれほど調べても、そんな簡単なことにも全く気付かなかった自分が嫌になった。
彼が自分に付き合ってくれていたのは、本当は後ろめたさからだったのではないかと泣きそうになった。本当は自分のことなど何とも思っていなかったから、何の相談もなかったんじゃないのか。
そんなことを思いながら、未練がましく植物の研究所に行けば、研究員の一人に一枚のポストカードを渡された。もしも彼が来ずに、自分一人だけでここに来たら渡してほしいと言われたらしい。そのポストカードは近年開発された、脳で強く思い描いた映像を印刷できる機械を使用して印刷されたものだった。
印刷面を見れば、鮮やかな色をしていた。詩人や作家でなければ、表現できない美しさを放っていた。そしてその中心に、自分がいた。これが、彼が見ていたもの。
その後のことはもう、あまり覚えていない。彼の希望を追い掛けたような気もするし、記憶に残らない一生を送ったような気もした。
そんな、どこかで見たような記憶が駆け巡った。
感情の波に翻弄され、自分を見失うような気がした。
『一切関わり合いのない方から呼び出されて、訝しまない方が不思議でしょう』
『私は賎民となり、君のような主を恨みながら、日々寝首を掻くことばかり考えて生きているのが精々さ』
『何が目的だ』
『貴様に賎民の気持ちが分かるまい。……失礼、うっかり本心が』
『私の望みは、貴様と今後一切関わり合いを持たないことだ』
嫌味たらしくて、憎らしい人。
『ものの見方は人によって違う、その人だけの見方があると思う。だから君のその感想も素晴らしいものだと、私は思う』
『先程の表情が素晴らしかったと、申し上げたのです』
『すみません。不躾でしたね。綺麗だと思いまして、つい』
『いいや、大好きだ。ありがとう』
『夏樹さん』
しなやかで、真っ直ぐな人。
心を掻き乱していく人。
真っ直ぐな言葉が、瞳が、こちらを見つめる視線が、苦しくて、もどかしくて、もう、好きであると表現する以外に手の施しようがなかった。
その全てに気が付かなかった、愚かな自分。如月夏樹、愚かな僕は、これからどうしていけば良い。
どうすれば良いの、梓真さん。




