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十八


 生徒会を早めに解散させようと思えば、こういう時に限って用事を放り込まれる。別に今日じゃなくて構わないだろうに。各自に作業を割り振り、抜ける埋め合わせは次回にする、と告げて出て行こうとすれば、背後から接近した古賀に羽交い締めにされた。


「会長殿ぉ、またえらくお急ぎのようで?」

「ああ、急いでるね。離してもらえるかな」

「正当なる理由を聞こうか? 会長が何度も一人で遊びに行くようじゃあ、俺たちは納得できないね」


 こちらが答えるよりも先に、古賀がずるずると後方へ引きずっていく。チッ、この場が古賀一人ならば足を踏むか、鞄をぶつけてやるのに。


「先約があるんだ」

「誰と? 働く俺たちを放っておいて?」

「――古賀は働いてないだろ。よし、じゃあみんな今日は解散! これは金曜にしよう」

「『やれる時にやれることをしよう』って言ってる当人がそれじゃあ、全くもって説得力がありませんなあ?」


 ……こういう時ばかり口のまわる奴だ。こうなればぐだぐだと言い訳を並べるよりは、さっさと終わらせてしまう方が早い。


「分かったから離してくれる?」


 数秒の沈黙はあったが、古賀は大人しく離し、自分は席に戻った。いつも邪魔に邪魔と邪魔ばかり、古賀にだけは必ず仕事の総量を増やしてやる。ああ、早く文化祭よ来れ。我が報復を一身に受けてもらうからな。

 心の海底に怒りを鎮めながら、にっこりと笑みの帆を上げる。


「諸君、爆速で。終わらせよう」

「はい!」


 岩田の元気な返事とともに、それぞれが作業に集中した。黒澤もちゃんと出席しているし、誰一人欠けていない。自分も集中はしているが、ただ数を数えたりだとかのこういう作業は、労力の割に達成感を得られず、疲労感が募る。

 ああ、どうでも良い作業のために七瀬梓真との時間が削られるなど、げに腹立たしい。羽山秀繕への対策も考えねばならないし、こんな、地味な作業をしている暇はない……。

 急いで仕上げたつもりだったが、四十五分も消費していた。


「じゃあ、お疲れ様!」


 作業が終わると杜撰な挨拶をしながら、僕はその場にいた誰よりも早く、生徒会室を飛び出していた。

 バスに乗り込んでも逸る心を、落ち着かせようとした。バスの速度は変えられない。七瀬梓真にはちゃんと遅くなると伝えている。彼女ならば何らかの書籍でも読んで待っていることだろう。

 こんなことで焦るなど、自分らしくない。彼女と連絡が取れないばかりに、もしもこちらの到着を諦めて帰ってしまっていれば。いや、真面目な彼女であれば、閉店間際まで待っていることだろう。そんなことは理解しているのに。

 バスを降りれば、駆け出しながら念のため後方を確認した。他に降りた乗客はおらず、古賀などが付いて来ている様子はなかった。まあ彼は自分の労力を割いてまで好奇心が勝る方ではないか。

 目的地の手前までくると、速度を落として呼吸を整えた。冷たい空気が肺に染みる。

 平常の呼吸に戻ったところで、丁度入店した。相変わらず人の少ない店の奥まで進めば、七瀬梓真――彼女がいた。僕は声を掛けた。


「お待たせ、梓真さん」


 机の上を見れば、何かを食べ終えたあとの皿があった。何かを完食させるほど、待たせてしまったのは間違いない。僅かに残る甘い香りに、茶色い線と白い跡はチョコレートソースと生クリームだろうか。ならばデザート、だろう。


「お疲れ様です。どうぞ」


 首だけを動かしてこちらを見た彼女は、軽く頭を下げると、前席を手で指し示した。

 彼女の意に従い、真正面に座ったが、いつも以上に表情のない彼女に不安を覚えた。やはり長時間待たせてしまったのだろうか。


「怒ってる?」


 彼女は視線だけをぴったりとこちらに合わせた。


「いいえ。全く。本日はお時間頂きまして誠に――」


 彼女は座ったまま再び頭を下げようとしたので、僕は慌てて止めた。


「いやいや良いよいいよ、そういうのは。……僕たち二人の(・・・)問題だしね」


 こちらが笑えば、彼女は目だけを細く動かした。……どうやら嫌がっている。のならば、先程のは真実だ。こちらの遅刻に対しては何の感情もないらしい。一つ安堵を得た。


「では早速本題に……」

「あ、ごめん注文だけ先に済ませるね」


 切り替えるように話し始めた彼女を制し、ドリンクバーを注文した。コーヒーを入れて着席すると、彼女がまじまじとこちらを見つめていた。

 ……何か不具合でもあるのだろうか。途中まで走って来たので、埃か何かでも付着していただろうか。純粋な疑問を投げた。


「梓真さん? 僕の顔に何か付いてる?」

「……いや、すみません。不躾でしたね。綺麗だと思いまして、つい」


 ――き。

 何て言った?

 き、綺麗……?

 なぜ? この……顔が? 綺麗だと?

 構造として整頓されている自覚はあるが、それに対してなぜ彼女に綺麗などと言う感想が湧き、そしてそれを口にしたのか。


「梓真さんの……それは、どういう意味で言ったのかな」

「え? っと、言葉どおりの意味で、他意はなく、単純な感想です。不快でしたら、すみませんでした。たまに、思ったことを吟味せずに発することがございまして」

「いや……ごめん、怒ってるわけじゃないから」


 怒っているわけではない、と口にしながらも、渦巻く疑問は怒りに似ていた。

 「綺麗」は肯定的な言葉であるはずで、綺麗という感想が湧く程度には彼女の中で肯定的な感情が存在しているのならば、なぜ彼女からは微塵も恋愛感情やそれに属する感情が発生しない?

 彼女の感情発生機構は一体どうなっている? 価値観との相互作用が取れていないのか? 肯定的に捉えている顔が目の前で笑っていても何とも思わないのか? こちらは貴女が笑ったと思えばこんなに、こんなに――……。


 一瞬、思考が停止した。

 こんなに、感情が。

 ――鼓動が強く。

 感情が、乱されていた。

 ――乱されていたというのに。


 奥底に沈めてきた全ての怒りが、海面へと持ち上がる。抜錨した船は緩やかに航海を始めた。

 自覚した事実に、今すぐ頭を打ち付けて死んでしまいたくなった。

 この大馬鹿野郎の、あまりにゴミの詰まった脳味噌に、思わず唇を噛み締めた。


「それは原案で、定義に関しては貴方の意見も取り入れるべきだと考えました。話し合ってから正式なものを渡します。条件に関しては、貴方が明らかに不当と感じるもの以外は、変えるつもりはありません。御確認ください」


 彼女は普段と変わりなく、淡々と説明をした。

 この脳味噌は、あとで清掃する。今は相対する人物との会話をつつがなく終了させる必要がある。

 彼女は依然、無表情だった。テーブルを見ると、いつの間にか書類が目の前へ置かれていた。自分はほとんど反射的に、書類を手に取っていた。

 書かれた文章を読み始めれば、次第に落ち着いて、気持ちが切り替えられていく感覚があった。これが、普段の自分である。

 取り戻した自分で、ゆっくりと思考を調整する。この交渉が終われば、次に羽山秀繕と相対する。常に余裕を持つことが大切で、それは、彼女に精神的負担を掛けることに繋がる。そして自分のために、僕は彼女に少しでも嫌悪されなければならない。何かの歯車が、噛み合わなくなった気がした。

 交渉が始まる。読み終えたという主張の代わりに、こちらは疑問を投げ掛けた。


「定義に関しては僕の意見も反映されるんだっけ?」

「はい。ただし、考慮はしますが、必ずというわけではないので。そのままにする可能性もありますが」


 彼女はその言葉どおり、ほとんど内容を変更することはなかった。疑問を重ね、対話を繰り返し、双方の考えを出し切ったところで、話し合いを終えた。



 気付けば、辺りは既に暗くなっていた。

 迎えの連絡を入れて、彼女とバス停までの道を歩いた。

 突然に、自分の態度を変えることはできない。

 ……今までの自分は、どんなことを言ってきたのだっけ。彼女が、嫌がるだろうと知っている、だからこそ関心を持たれるだろうと判断した言葉。それは、あまりに幼い思考と何ら変わりない。それでも今はまだ、過去の自分を続けなければ。


「今日は、梓真さんが僕との関係を真剣に考えてくれてたみたいで、嬉しかったよ」


 彼女は、変なものを見る目をした。これも、概ねいつもどおりだ。


「左様ですか。喜んでいただけたノデアレバ何よりデス」


 如月夏樹はくすくすと笑った。たぶん、こんな時はいつも笑っていた。


「やっぱり答えは決まっているようなものだったね」


 そう思っていた。だからこの台詞は間違っていない。


「そういう呪いをお掛けになったからでしょう?」

「あれは言葉の綾だよ。そんな能力はないから。梓真さんは、優しい真面目な人だって信じてたから」

「ええ。お望みどおりであったのであれば。良かったですね」


 いつも通りであったはず。しかし彼女の声には、いつもの淡々とした芯が取れていた。先程よりも小さな声だった。

 僕は、何か間違えたことを言った。


「違うよ。ちゃんと考えてもらえれば、僕は必ず梓真さんの利益になるはずだから、受けてくれると思ってた」


 今までの自分を否定するように、発言を訂正した。彼女は少しだけ、動揺を見せたように思えた。


「……そうですか」


 彼女の返事を聞き届けると、そこで会話が終わった。

 あまりに愚かな自分を、どう処理すれば良いのだろう。

 バス停に辿り着くと、二人並んでバスを待った。時折流れる冷たい風に、彼女の髪が小さく動いていた。覗く耳も頬もとても冷たそうだった。


「基本的に接触は禁止と表記いたしましたが」


 手首への衝撃とともに、彼女からの言葉が届いた。

 自分の手首が、彼女に掴まれていた。自分は、彼女に触れようとしていた……?

 ならばそれは、あまりにも最低だ。こんなときは今までの自分なら、何と言っていた。


「でもまだ契約は結んでいないよね。それに今触れているのは梓真さんだ」


 彼女の握力が一層強くなった。


「いたた。ごめん、髪に埃が付いているのが見えたから」


 最低な行動に、最低な言い訳だった。

 彼女は即座に手を離した。


「失礼しました。しかし口頭注意で済ませてください。髪も人体の一部ですので」


 彼女の言うとおりだ。自分の愚かさが身に染みる。

 ようやく、バスが訪れたようだった。

 掴まれた手は少し痛んだので、反対の手を振って笑った。


「分かった。気を付ける。それじゃあまた」

「……申し訳ありませんでした。失礼します」


 悪いことをしたとでも言うように、彼女は申し訳なさそうに頭を下げ、バスに乗って去っていった。小さくなっていくバスの背を見送った。謝るべきは、こちらだというのに。

 掴まれた手首に触れる。僅かに凹凸を感じるのは、爪か何かが、引っ掛かったのかもしれない。あまりに愚かな自分には似合わない、小さな傷だった。

 ほどなくして、迎えの車が到着した。乗り込んで決まり文句を告げ、前を見れば、運転手は小林だった。


「小林さん……」

如何どうされました?」


 小林は車を発進させながら聞き返した。


「いえ、珍しいなと思ったので」

「本日は伺う予定でしたので。好都合でしょう?」


 そういえば、そうだった。……そんなことも忘れていたなんて。僕は小林に尋ねた。


「今日、お時間はありますか? 少しだけ、聞いていただきたいことがあります」

「ゆっくりお伺いしましょう」


 小林はどこか嬉しそうに答えた。




 こちらは帰宅し、小林は到着すると、速やかに作業を終わらせた。そして小林はにこやかに尋ねた。


「それで、お話とは」

「どうぞ、座ってください」


 僕は自ら座っているソファの、空いた部分を指し示した。すると小林が驚きの声を上げた。


「如何なさったんですかこの傷は!」


 小林が取り上げた手首の内側には、照明の下で見ると、赤い線が一本入っていた。ただのミミズ腫れだろう。寝て起きれば治るものだ。


「さっき、うっかり自分で引っ掻いたようです。問題ありません」

「いけません! 少しお待ちになってください!」


 こちらが引き止める間もなく、言うが早いか小林はすぐに姿を消して、またすぐに姿を現した。小林が手にしているのは救急箱だろう。

 一瞬痛みを感じたと思えば、次に見たときにはすでに絆創膏が貼られていた。可愛らしい、うさぎのイラストがドットのように印刷された、オレンジ色の絆創膏……。

 小林を見れば、彼はやりきったとばかりに満足そうにしていた。


「この絆創膏は……」


 こちらが問おうとすると、小林はハッ! と息をのんだ。


「も、申し訳ありません、すぐに!」


 またもや即座に行動しそうになった小林を、今度は制した。

 先程一瞬、端からめくろうとしたが、全く剥がれそうな気配がなかった。びったりと隙間なく皮膚にくっ付いている。つまりこの絆創膏は、貼った直後だとしても、剥がそうとすると滅茶苦茶に痛い種類のものだ。少しだけ経験がある。

 二、三日経ってもまだまだ痛い。四日後ぐらいにようやく、我慢できる痛さになる。そのぐらい、強力な粘着を持つものだった記憶がある。

 つまり今剥がされると、大変痛いので困る。


「いや、大丈夫です。貼り替えると勿体ないですし。お子さんのために、ですか?」


 確か、小林には幼い娘がいたはずだった。


「お恥ずかしながら……」


 小林は少し顔を伏せた。娘を思う小林を見て、自然と笑顔になった。



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