十七
登校中のバスで端末を確認した。既に長谷見から中間報告が入っていた。
共に下校したのは井門で、なぜその状況になったかは現在調査中とのことだった。昼休みまでには回答が挙がるだろうとの追記があった。
長谷見は仕事が早く的確で頼もしい限りだ。しかし昨日の黒澤を思えば、長谷見を重用するのも検討すべきか。長谷見に限ってそんな感情は湧かないだろうと思ってはいるものの、自分は昨日までの黒澤に対して似たような感覚ではあったし、少し様子を見るべきかもしれない。
こちらはただ依頼をして、成功報酬を渡しただけの真っ当なる関係だと思っていても、相手もそう思っているかは別だということが判明した。それが、歯痒く感じる。
対して七瀬梓真は、こちらが好意を示したところで気付いているのかいないのか、そして気付いたところで睨み返して不快を露わにする。最初は礼も受け取ろうとしなかった。そんな態度であったのに、受け取れば、嬉しそうに……ありがとうと笑った。
――嗚呼、ようやく腹立たしさを思い出してきた。思い出すべきでは、なかったけれど。
下校相手は井門か……。井門は……確か、同じMJ部だった。ならば、多少の想像はつくか。同じ部の仲間であるから、こちらよりも警戒の値は低かった。
いっそ、自分も同じ部活に入ってやろうか。生徒会に在籍していれば、強制的な入部が免除されるだけであって、部活動に参加してはいけないというものではない。
……いや、この状況で入部すれば、余計に警戒心を上げるだけだろう。やはり、最初から間違っていた。狂ったピースの修正を怠った失態だ。あの時、自ら彼女の元へ赴き、校舎案内をして共に下校し、不良との関わりから庇いだて、食事に行こうとでも誘っていれば、確実に、今とは違った関係になれただろう。
全てはもう過ぎたことで、今更どうすることもできないけれど。
今まで、後悔などする必要のなかった人生だというのに。彼女との歯車だけが、どうしてこうも噛み合わないのか。根本的に相性が悪いのだろうか……。悪かったとして、ただそれだけで、こんな結果になってしまうのか。
登校すると、下駄箱には紙面が入っていた。取り出して、ポケットに仕舞った。
「あれ、また例のラブレター?」
横から尋ねてきたのは酒井だった。僕は靴を履き替えながら答えた。
「多分ラブレターじゃないよ。前回も違ったからね」
「じゃ何書いてた?」
僕は歩きながら杜撰に答えた。
「ファンレター」
「ハハッ! ほんとか〜? 見せろ見せろ」
「だめだよ、折角僕にくれたんだから」
「いーじゃんちょっとぐらいさ」
酒井がポケットへと手を伸ばそうとしたのを見て、咄嗟に手首を掴んで捻り上げた。一瞬、ここまで必死に防衛した自分に驚いたものの、直ぐに離して、状況が悪化しないように努めた。
自分はわざと被害者ぶって言った。
「ヘンタイ! セクハラ!」
ふざけることで、こちらが真剣ではないと悟らせる。酒井は一瞬驚いて手首を抑えていたものの、こちらなりの冗談だと理解して笑って不平を言った。
「おい、ヘンタイって言う方が――」
「小二か」
背後からゴッ! ゴッ! と二人揃って手刀を受けた。見れば手刀の主は藤村だ。あんまりだ、行ったのは正当防衛で、僕は被害者だというのに。
「ほんっと朝から元気だね〜男子」
横から近付いてきた声は、有北だった。合いの手を入れるように、その隣にいた白鳥がさえずった。
「だからいつまでもオモチャ付きのバーガーセットを頼むんですって」
「あらやだ、だからまだ筆箱にミサイル鉛筆がおありなの?」
「あらあら」
「まあまあ」
二人はオーホホホ、と次第に高笑いまでし始めた。どこの王朝貴族だ。
と、油断していれば、右腕を白鳥に、左腕を有北にがっちりと掴まれた。……非常にまずい状況だ。酒井などと違って邪険にできない。
にたにたと有北が酒井を挑発した。
「付き合ってあげてる如月君が可哀想だワ〜」
「はあ⁉︎」酒井が素早く反応した。
「悔しいのなら早く大人になりなさいな」
さらに白鳥が煽った。酒井と藤村は顔を見合わせていた。
庇われたのは有り難いとも思えるが、このまま彼女たちに従えば、やがて手紙について尋問される未来が見える。
どこの貴族かというような口調で二人はふざけていたが、込められた腕の力は全くふざけておらず、被害なしに振り解けそうにはない。
ここは、相手と同じ土俵に立つしかない、か。
「ではお嬢様方、あの二人にエスコートについて教えてやってはくださいませんか」
「まあまあ如月様! なんと慈悲深いこと!」
有北は言ったが、淑女に任務を託している時点でこちらは慈悲深くはない。しかし気付かぬ白鳥は同意した。
「そうですわ! 男性諸君には見習っていただきたいものです!」
大袈裟な反応を示した二人の隙を見て、そっとを手振り解いた。急いで数歩距離を取って振り返った。
「それでは、失礼します。御婦人方」
演劇めいた礼を取ると、直ちにその場を去った。
遠くで「逃げたな如月〜!」と酒井の声が聞こえたが、付き合っていられない。朝から無駄に体力を消耗させないでいただきたいものだ。
いつものように生徒会室へと逃げ込もうとすれば、鍵が掛かっていた。そうか、最近は開いていたから気に留めていなかったが、朝は大抵、黒澤が開けていた。
思わず溜め息をついた。
次から次へと、心労が飽きもせず訪れるものだ。
今更鍵を取りに行くのも面倒で、汚れるのも気にせずドアの前に座り込んだ。ポケットから紙を取り出せば、安心した。良かった、変に折れたりはしていない。
静まり返った廊下で、紙を広げた。前回よりも手紙らしい長文が目に入り、思わず笑いが滲んだ。
『如月様
わざわざの差し入れを頂きまして誠にありがとうございました。大変恐縮ですので、今後このようなご配慮はお気持ちだけ頂戴します。
お問い合わせいただいた件について確認いたしましたところ、羽山様からお返事は、今週の日曜日に別荘にて面接をしたいとのことでした。日程に不都合がお有りの際はお申し付けください。善処します。
つきましては、期限の延長のほどをご検討いただければと存じます。
また、電話受付時間を下記のとおりに追加いたしますので、ご理解いただければ幸いです。
追加時間 火、木、土 午後十時から十一時まで
並びに、月、水、金も午後十一時までを適用いたします』
笑っていたのは最初だけで、その後の内容に衝撃を受けた。
――「面接」とは何だ? 羽山と会えるのか? それとも代理の誰かか? もしくは彼女が何かを聞き取るのか?
喜ばしいことのはずなのに、不安ばかりが過る。羽山に対する対策は何もできていない。羽山への対策を含め、これから彼女との交流で、情報収集していく予定だった。
それがたったの一週間後、いや、すでに一週間もない。どう、立ち回れば良い。どうすれば良いのか。
「えっ先輩、大丈夫ですか?」
顔を上げれば、現れたのは信者岩田だった。即座に紙を折り畳み、ポケットに入れた。
「おはよう。鍵が開いてなくてね。取りに行く前に、ちょっと休憩してた」
「おはようございます! 良かったです、すれ違わなくて。今開けます」
僕は立ち上がり埃を払った。岩田が鍵を開け、二人で中に入った。鞄を机に置いて適当な椅子に座り、力を抜いた。岩田も椅子に座った。
しかし朝から岩田が来るのは珍しい。尋ねようとしたところで、彼の方から口を開いた。
「黒澤から、代わりに開けて来てくれって頼まれたんですよ。知らなかったんですけど、朝開けるのって庶務の担当だったんですか? あ、それとも一年でしたか? そしたら俺、黒澤とかに任せっぱなしでした……」
嗚呼、黒澤……本当に、勿体ない人材だ。
僕はゆっくりと岩田に説明した。
「全部違うよ。朝は連絡しない限り、来なくて良いからね。朝にここへ、わけもなく来るのは僕だけだよ」
「え、と。つまり……」
「黒澤さんは僕の行動に合わせて、善意で開けてくれてただけってこと」
その事実に気付いたのは、今更になってからだが。
……先日までは、責任感が強いか、阿っているだけか、だと思っていた。だからこそ善意と判断していたし、何とも思っていなかった。しかしどうやら違っていたのだろう。生徒会長へではなく、如月夏樹に対する行動だと、自分は理解していなかった。
正直に言えば、彼女の心情には全く気付かなかった。
「なーんだ焦りましたよー! 一瞬、情報来てなくてハブられてんのかと思いました!」
「わざわざ悪かったね、ありがとう。朝に集合する場合は前みたいにグループで直接連絡するから。用事もないだろうし、帰ってくれて大丈夫だよ」
岩田は立ち上がって元気良く応えた。
「はい! 先輩のお役に立てたのであれば! 光栄でございます!……あれ。でもじゃあなんで黒澤は……」
黒澤のためにも、真実は言わない方が良いだろう。
「用事があったんじゃない? 彼女はもしかしたら今の岩田君みたいに、自分の仕事だと思ってたのかもしれないね。でも明言した取り決め以外の、暗黙のルールとかはないから。だからもし彼女が気にしてるようだったら、大丈夫って伝えといてくれる? 僕は自分で開けるから」
「はい! 分かりました! お任せください!」
岩田は胸を叩いて、張り切って出て行った。……全く、朝から面倒な対応ばかりさせられるものだ。
まさか黒澤はこれから生徒会に出席しないなどという事態にはならないだろうか。しかし鍵のことを気に掛けているぐらいだから、拒絶するような、出席拒否などはしないだろう。……と思いたいのだが。
だからこそ恋愛感情など煩わしいというのに。役割や業務に私情を挟まれるのがいかに面倒であることか。
そして恋愛感情を持ってほしい相手には響かず、ままならなさに辟易する。
もう一度紙を取り出して広げ、眺めた。彼女は、この文章を書くだけに、どれくらいの時間を掛けたのだろう。あの文字を知ったからには、この字がとても丁寧に書かれているのが分かる。それだけでも、少しは時間を割いてくれたということだろうか。
……いや、彼女がどのような時間配分でこの文章を書き上げたのかなど、考える必要はない。考えるべきなのは、羽山への対応だ。時間がないのだから、悠長なことはしていられない。
だというのに、どうすれば良いのか、何をするべきなのか、何も分からなかった。こんなことは初めてで、戸惑いばかりが浮かんでいた。
昼休みになれば、同じ教室に居たものの、端末で長谷見から報告が入った。人に聞かれて美しい話ではないので、これが最善であるのだが。
内容は、七瀬梓真本人からの主張曰く、「ただの部活帰り」であるとのことだった。同じく端末で長谷見に礼を返した。
昨日は早々に切り上げて向かわせたのに、黒澤曰くギリギリだった。あの部は彼女を含め計六人だ。「部活帰り」なのに二人だけが同時に帰宅するのか?
……いや、この問題に関しては、これ以上の詮索はやめよう。とにかく井門の存在を気に留めておく。他の部員も気に掛けておくべきか。庄司と轟……。轟などは害がなさそうにも思えるが、どうだろうな。
黒澤の感情を理解できていなかった自分だ、もしかすると重要なことも見逃したりするかもしれない。気に掛けておいても損はないか。まったく、心労ばかり増えるのに実入りが少ない。いや、羽山に会えるかもしれないのは僥倖だが……。七瀬梓真、費用対効果の悪い相手だ。
記載されていたとおりに十時を過ぎてから七瀬梓真に電話を掛けた。内容に対して問い合わせれば、面接をするのは羽山秀繕本人のようだ。そしてそれぞれに確認などを済ませ、最後に彼女からの提案があった。
明日にでももう一度話し合いができないか、とのことだった。生徒会は明日も早めに解散させようか。こちらは承諾し、再び寂れたファミレスに集まることになった。
通話を切った後、自分を不思議に思う。
彼女の声を聞いていると、腹が立っていたことなども綺麗さっぱり消え失せるほど、落ち着いている自分がいた。彼女の口調なのだろうか、声なのだろうか。聞いていると、心が凪いでいった。
女性の中では少し低い声で、淡々とした語りが、こちらを冷静にさせるのかもしれない。別に電話をする以前の自分が、冷静じゃなかったわけではないのだが。
切った通話を名残惜しく思うなど、どうかしている。会おうと思えば、いくらでも会えるし、話そうと思えば話せる。接触禁止令など口だけのものだ、こちらを真に拘束する力などない。
だというのに、明日、彼女と直接会って話しができるということを思えば、わけもなく胸の内側から体温が上がる気がした。
これまで精緻に整えてきた歯車を、端から彼女に壊されていくようだった。




