十五
登校して生徒会室で過ごしていると、中島からの連絡が入った。
『七瀬ちゃん飲み物買いに行くって言って出てったよ。話があるならチャンスかも~?』
自然と笑みが生まれた。やはり、人間関係においては、無駄なことの方が少ないのだから。謝礼の返信をし、彼女の様子を見に行くことにした。
自販機が設置されている校舎の一角に向かえば、情報どおり彼女がいた。既に飲み物は手にしているようで、設えられたベンチの端に座っていた。今日は少し風があるのに、教室には戻らないのだろうか。自分としてはどちらでも構わないのだけれど。
もしもまだ購入していなければ、こちらが買って彼女の苦手な「借り」が作れただろうか。それともそういう日常的で些細なやり取りでは、何とも思わないんだろうか。
少しずつ近付いていく。警戒心も不快も宿していない、敢えて作っていることもない真顔で、彼女は虚空を見ていた。やはりとても穏やかそうに見えるのに、慢性的な悩みの種を抱え込んでいるかのように、疲れているような顔をしている。その姿はよく、似ている。
――……誰に?
彼女に近付き、隣に腰を下ろした。甘ったるい香りがする。彼女が握っているのは、ココアの缶だった。
彼女の隣にいる、たったそれだけなのに、僅かに緊張している。彼女が一体どんな反応を示すのか、うまく予想できないからだろう。
「おはよう、梓真さん。ここって寒くない?」
彼女はこちらに顔を向けると、目を見開いて、またもや小さく口も開いている。そんなに驚かなくても。
彼女は徐々に不審なものを見る目付きになったが、何も言うことはなかった。彼女が答えてくれる質問は何だろうか。
「ああ、ココアで温かいんだね。梓真さんは甘いものが好きなのは間違いなさそうだ。それで、契約書はできた?」
少し間を置いて彼女は答えた。
「いいえ。ご用件は以上ですか」
静かに返された言葉で、ふと己を振り返った。進捗を尋ねる以外に、取り立てて用はない。様子を見るのも、別に遠巻きでも良かったはずだが……いや、会話でこそ得られる感触というものがあるのだから、この行動は間違っていない。
悟られることのないように、笑った。
「用件って言われると、何もないけど。ここに向かってる梓真さんが見えたから」
彼女の瞳だけが、変なものを見るように動いた。やがて彼女は正面を向いて、何も言うことはなかった。
「好き」であるならば、用もなく会いたくなるだとかと聞く。ならば逆説的に「用もなく会いに来た如月夏樹」に対して「如月夏樹は七瀬梓真に好意がある」のだろうという種を蒔いたつもりだったが、全く効果はないようだ。言い方が悪かっただろうか? アプローチとしては婉曲に過ぎる、か。大体即効性のあるものでもないだろうし。
それにしても、今日は昨日に比べて何だか彼女から覇気が感じられない。鋭さも、意味不明な部分も、不快や嫌悪も持っていない。
風で彼女の髪が吹かれた。再び漂う甘い香りはココアだけではなく、清潔感を連想させる花の香りがあった。甘い、香り。
「……あ。梓真さん、良い香りがする。シャンプー?」
こちらを見た彼女の顔は強張り、目だけが強く開かれた。彼女の顔は白いが、いつも以上に白く、唇も色がない。こんな所にいるから、冷えたんじゃないのか。
予想を出すよりも先に、彼女の空いた手を握っていた。酷く冷たい手だ。
「あれ、どうかした?……梓真さん、大丈夫? もしかして何かあった?」
驚いたように見返す彼女は、何も言わなかった。ただただ、こちらを見つめ返していた。
やはり、普段と少し様子が違う。隣に座っていただけで不快を示した彼女が、こちらが手を握っても何も言わない。抵抗もしない。何か不調があるのか?
「顔色良くないよ。こんなに手も冷たい。冬場は特に体を冷やさない方が良い」
その頬も冷たいのだろうか。触れることはないけれど、何とはなしに気になった。手がこれほど冷えているのだから、考えるまでもなく同じだろう。
するとようやく彼女は手を振り解いて立ち上がった。豪快にココアを飲み干すと、こちらを鋭く見下ろした。良かった、少し調子は戻ったようだ。
「次に、校内で接触することがあれば、契約は白紙にします。それでは、失礼します」
彼女は一礼すると、缶をゴミ箱に捨てて去って行った。
こんな時でも、残った真面目さが面白い。笑いが滲む中、彼女の背を見送った。
契約を白紙に、か。それは困るので、直接的な干渉は控えよう。しかし接触したところで、繰り返し訴えれば折れるような気がするのは傲りだろうか。
自らの手を握った。そろそろ自分も冷えてきたか。それとも、彼女から移った冷たさが残っているのか。とても、冷たい手だった。白く、疲れたような顔だった。
背凭れに背を預け、灰色の校舎を見つめた。
彼女に干渉することは、彼女にとってストレスなのだろうか。僕がストレスであるならば、目的としては喜ぶべきことだ。しかし同時に、人として申し訳ない気持ちがないわけではない。僕だって本当は、人に迷惑を掛けたいわけじゃない。ただ、彼女にだけはどうしても迷惑を掛けざるを得ない。
本当は、彼女に嫌われたいわけじゃない。叶うことなら、ただ一人の生徒として、何かのきっかけがあったのなら友人として、笑いあえたのなら。そんなことを願ってしまうのは、役目を果たし切れない、愚かで、未熟な精神構造だからだ。
進むと決めてしまったからには、もう後戻りはできない。彼女を傷付けてでも、兄を取り戻したい。
温かく、優しい兄だった。仕事が忙しくなると、両親がなかなか帰って来なくて、不安や寂しさを抱えていた僕たち兄妹を、笑って元気付けてくれた。料理が得意で、よく振る舞ってくれた。兄の作る色んな具材の入った炒飯が好きだった。時には玉子でくるんでオムライスにしてくれた。兄のようになりたくて始めた料理も、いつの間にか自分の趣味になっていた。
事故で変わった兄も、一度だけ作ってくれたことはあった。見た目はそっくりで、味もそのままだった。それが、事故前の最後に作ったものとそのままそっくり、全く同じだった。あまりにも不気味で、それ以上は食べられなかった。
兄が作る料理は、いつも違った。入れる具材が毎回違うからだ。それでもいつも美味しくて、兄妹三人で笑って食べていた。家事をする人は小林以外にもいたが、時間になるとそそくさと兄が帰していた。超過しても構わないと言う人々にも、遅くなってはいけないとすぐに帰していた。
だから夕方以降は大抵三人で、年の離れた兄が僕たち二人に付き合ってくれていた。優しい、優しい兄だった。
あの人は、性格が変わっただとか、そういうものではない。もう、別人なのだ。何もかもが違う。記憶を共有している、誰かなのだ。
このままこの道を進んでも、兄が見つからない可能性も充分あるだろう。むしろ、見つからないのではとさえ思う。それでも前へと進みたい。彼女を傷付けてでも、必ず、何かを見つけ出したい。兄を、知りたい。
兄を知るために羽山秀繕を、そして七瀬梓真を、僕は知らなければならない。だから、彼女を知りたい。しかし、本当に意味などあるのだろうか。
「先輩?」
声の方へ振り向けば、黒澤がいた。メルヘン黒澤。いや、メルヘンなのは自分だったか。
「黒澤さん、お疲れ。どうかした?」
黒澤は数歩こちらに寄って説明した。
「いえ、なかなか戻ってこられないので、先輩こそ何かあったのかと。鞄、どうしようかと思いまして。部屋は鍵掛けたので……」
「ああ、ごめんごめん! どこにある?」
僕は背を離して謝罪すれば、黒澤は真面目に答えた。
「教室までお運びしたのですが。連絡もしましたし。私はぽかっとレモンが欲しかったので……だからえーと、会ったのは偶然ですね?」
「はは、ありがとう」
僕は立ち上がると、自販機に硬貨を入れ、「ぽかっとレモン」を買った。落ちたペットボトルを取り出して、黒澤に手渡した。
「はい、運送費」
黒澤はペットボトルを両手で握り込み、驚いたようにこちらを見上げていた。
「あ、ありがとう……ございます……」
黒澤は今来たばかりだからだろう、血色の良さそうな頬はいかにも健康そうである。彼女にもこういった温かい物を差し入れたら……いや、接触禁止令が出ていたっけ。
そもそも自分が冷えてきたし、何か温かいものを買うか。
「それって美味しい?」
「私は……好きです」
「へえ、じゃあそれにしよう」
もう一度自販機の前に立つと、黒澤と同じぽかっとレモンを買った。まさかメルヘン味ではあるまい。
蓋を開け少し飲んでみれば、味はただのホットレモネードだった。蜂蜜か砂糖が多いのか、少し甘い。原材料を見れば、多いのは水飴だった。……まだまだ、だな。いや、何の遊びだ。
蓋をして教室へ戻ることにした。
「では黒澤クン、ごきげんよう」
すれ違い様に黒澤の頭に手を置いた。離れると、そのまま同じ手を振った。
「せ、せんぱい!」
呼ばれたので、黒澤を振り返った。彼女はまだ同じ場所にいた。こちらは返事をせず、首を傾げた。
「えっと、あの……その、ありがとう、ございました!」
目一杯の感謝を告げられ、僕は笑って手を振り、教室へと戻って行った。
ああ、七瀬梓真も、黒澤のように従順であれば。もしかすると、僕と彼女が同い年なのも問題なのだろうか。彼女が年下であれば、色々と簡単だったのかもしれない。
しかし悲しいかな、実際は厳密にいえば彼女の方が年上だ。意識することはないけれど。僕と彼女は、そもそもの相性が悪かったりするのだろうか?
四柱推命だとか星がどうとか、一度調べてみた方が有効だろうか。しかしアテになるのかどうか。大抵はバーナム効果を利用しただけの、お悩み相談室だろうし。いや、経験料と思えば、一度だけなら面白いだろうか?
いやいやいや、自分が占いに手を出してしまえば、もう、わけが分からなくなる。占いは、迷いがある場合において、背中を押す道具なのだ。自分は、迷いがあるわけではない。関係性の発展を望むのは、彼女とだけなのだから。
昼休みは所用で職員室へ訪れ、帰りがけに久保野に声を掛けた。
「こんにちは先生」
「あら如月君、どうしたの」
「生徒会の用事で。終わって帰るところですが、あれから七瀬さんの様子はどうなのか、少し気に掛かったので」
「……如月君。あなたは本っ当に」
「はい」
「偉いんだから! どーして今どきこんな子が育つのかしら! 本当やんなるわ!」
「えっと……すみませんでした」
久保野は「違うのよぉ~」と言いながら首を振っていた。そして咳払いをすると、姿勢を正した。
「あーもう、聞いてほしいんだけどね」
そうして久保野は半分愚痴のようなものを混ぜながら、彼女の様子や全く関係のない久保野個人の話をした。有用だった情報は七瀬梓真が入った部活とその在籍者を知れたことだ。
話が終わるとすぐに購買へと向かった。それにしてもMJ部か……、またわけの分からない部を選んだものだ。部長は庄司だったか。そういえば彼も珍しい名だ。いや、あの部はそもそも個性的な名前を招集していた部だったか。
ということは向こうからスカウトされたのか? いや、さすがにそれはないか。ならば偶然、か。とすると彼女はやはり変な人だ、自ら変な部を選んで入ったのだから。
購買では菓子を見繕った。安価で定番の菓子も多いが、栄養食品も多い。ビタミン、ポリフェノール……総合栄養価が高いものにしておこう。あとはチョコレートであれば安全牌か。
いくつか購入して、放課後は生徒会へと足を運んだ。今日は特に差し迫った用事はなかったので、早々に解散することにした。それぞれ解散していく中で、黒澤を呼び止めた。
「黒澤さん」
足を止めた黒澤がこちらを振り返った。
「はい」
「もう一度運び屋やらない?」
「……はい?」
黒澤は眉を寄せ、まだ残っていた古賀が横槍を入れた。
「おいおいカイチョーさん職権乱用ですかー、いけませんねえ、実にけしからんです。先輩としてアルマジキ、です。くろさわ~、こんなん断って良いぞ~」
僕は古賀を睨みつけた。
「提案だから義務じゃない。彼女の意思を尊重しているからこその疑問形だろう? ああそれとも古賀クン、君がやりたかったのかね?」
「俺お前のそういうとこ大っ嫌いだからな」
「好かれたところで気持ち悪いけど」
「そういうとこだぞ、そういうとこ!」
すると黒澤が言いにくそうに言った。
「あのー、仕事は引き受けますから。続きは後程でお願いします」
「いや続きも何もねえから! 黒澤ちゃん、いちおー俺、君を庇ってあげたのね? そこんとこヨロシクしてほしいもんだね! じゃあ帰る!」
古賀は憤慨して帰ったので、幸いとばかりに配達業務を黒澤に任じた。黒澤は僅かに頬を染めると、大きく頷いて出て行った。
あれほど素直で簡単であれば。自分は何度そう思うのだろう。




