十四
「……そういう類いか。分かった。君がそれ以上の頼みを請求してこない限りはその条件で手を打とう」
またもや彼女はあっさりと受諾した。ここまで傾向を把握してしまうと、逆に心配になるほど単純だ。
結局彼女は受け入れてしまう。その習性は良いように利用されるだけなのに。
「良いんだ?」
「金が減るわけではないし、労力が要るわけでもなし。精神的負荷以外の苦労はないだろう。第一、許可を得られなかった場合だしな」
こちらが考えていた単語を彼女がそのまま口にしたので、少しだけ緊張が走った。偶然の一致だと理解しているが、脳内を覗き込まれでもしたのかと錯覚しそうになった。
自分の、醜い部分を全て見透かされているような感覚、そして分かった上で受け入れられているような、本当は自分とは比べものにならないぐらいの、途方もない場所にいる人のような、足元を掬われるような感覚がする。
――彼女にのみ込まれてはいけない。常に余裕をもって、手放してはならない。
「……ふうん? ますます彼の返事が待ち遠しいね?」
「ますます君は変な奴だな」
「梓真さんこそ」
変な人に「変な奴だ」と言われるのは心外だが、その心情は彼女も同じようで、しばらくギラリと睨みつけられていた。
そして彼女は無言で「出て行け」とばかりに親指をドアの方へ向けた。
今日のところは大人しく、ここで彼女の意思を汲んでおこう。収穫はあったのだから、帰っても問題はない。
僕は笑って帰り支度をした。
彼女はこちらが「確実に帰ったと確認できるまで目を離さない」という意思がありありと伝わってくるほど、しっかりと睨みながら、自分の背後に一定の距離を保って付いてきた。それほど睨まれずとも、ちゃんと帰りますけれども。
玄関では、靴を履くために腰を下ろした。
それともこれが、彼女を怒らせた状態なのだろうか。そうと思えば、いかに可愛らしい表現であるか。もしも本当に怒らせてしまえば、僕は一体どうなるのだろう。
笑いそうになったので、代わりに喋った。
「彼の返事がどちらであれ、答えは決まっているようなものなのにね」
貴女は必ず、最後には受け入れる。
その自覚はあるのだろうか。あれば、こんなことにはなっていないだろう。いいや、あったとしても必ずこの道へと引きずり込んだ。それが自分の為すべきことだ。
呆れとも怒りともとれる感情の滲む声が、背後から降り掛かった。
「どこから来るんだその自信は」
こちらは靴を履き終えると、立ち上がって彼女の方を振り返った。同じ目線は新鮮だ。いや、彼女の方が少し高いか。彼女の顔がよく見える。黙っている彼女は仏頂面なのに、不思議なことに物静かで穏やかそうな人柄に見える。
視線はいつも鋭いが、目元はどこか疲れが滲んでいる。真っ直ぐな鼻筋、引き結ばれた唇、強張った頬、その表情が変わる様を見てみたいと思うのは、好奇心だろうか。
多少の高揚か、動揺なのか。気付けば自分はすでに笑っていて、鼓動を僅かに自覚した。
「呪いをかけておいたから」
――梓真さん、梓真さん。
自覚はないでしょう、梓真さん?
「はあ?」
彼女は心底意味が分からないという顔をして、それがまた愉快だった。こちらが笑っていれば、彼女に追い出され、門の前まで出ていた。
「じゃあ、また。楽しかったよ。ありがとう。それとケーキもご馳走さま」
振り返って言った言葉は、全て本心だ。彼女に伝わっているのかどうかは分からないけれど。
「ああ、さようなら」
手を振ったあと門の外に出て歩き出せば、背後で閂を掛けた音が聞こえた。
楽しかった。楽しかったとも。これから、好転していくのだから。必ず見つけ出す。絶対に。
坂を下って道路へ出たところで、端末で検索を掛けた。カフェ、ロボウ。どうやらそう遠くはないようだ。まだ陽はあるし、彼女はあのまま別荘にいるだろうから、丁度良い機会だ。
ルート案内を頼りに辿り着けば、あまり目にとまらないようなカフェだった。一応来た道を振り返ったが、彼女が来る様子はない。安心して観察させてもらおう。
入店すれば、より強くコーヒーの香りを感じた。穏やかなジャズが流れ、綺麗に整えられた銀髪をした女性が、気さくに声を掛けてきた。
案内されたカウンター席に座り、注文を済ませた。店内には数人いて、皆テーブル席に座っていた。ドアとは反対側に窓があり、庭が見える。丁度別の庭を見てきたところだからだろうか、同じ木がいくつか植えられているだけで、少し質素に見えた。
よく見れば、どうやら花壇を作っている途中のようにも思えた。花が咲けば、もう少し華やかには感じるだろう。
ここが……彼女の行きつけ、なのか。
コーヒーが運ばれるとともに、先程の女性が話し掛けてきた。顔を見れば若く感じるが、敢えて脱色でもしているのだろうか。カウンター越しに世間話などをし、有り難いことに向こうから、いくつか七瀬梓真の話があったので聞いていた。同じ高校の同級生という偶然性から「運命」とやらを感じて、話さずにはいられなかったようだ。そう、彼女が櫂青へ来たのは偶然であるが、僕がここへ来たのは偶然ではないのだけれど。
話を統合するに、彼女はここでアルバイトとして働いているらしい。……ものは言いようだな。
端末で迎えを頼んでおくと、コーヒーを飲んだ。嗅細胞が伝達した香りに落ち着きを覚えては、考えが巡っていった。
確かに彼女自身は「行きつけ」とは言っていない。――『よく行くのでな』、そう言っただけだ。事実の誤認を助長させる術は自分も使用するだけに、被る側としては少し腹立たしい。こと自分に関しては、己の愚かさを自覚するからだ。
しかしそれとは別に、彼女がそんな手段を使っていたことに驚きと、俄かには信じ難い気分が内在する。不器用だと断じたのは早計だったか? やはり彼女は敢えてあの皮を被っているのか? だとすれば意味は?
正直、世渡り上手な人格とは思えない。皮を被るなら、動きやすものにするべきだ。人当たりや愛想の良い人格、そうすれば周囲の関係など、如何様にでもなる。だが、あのような動き辛い人格をわざわざ選ぶ必要性が理解できない。
……いや、逆か? 主に単独行動をとるのならば、周囲の人間を遠ざけておいた方がはるかに行動しやすい。
となると本当に全て計算で行動しているのか……?
決断をするには、まだ材料が少ない。もっと彼女に関する情報が欲しい。ここにももう少し通った方が良いのかもしれない。新たな情報が得られる確証はないが、保険のようなものだ。
全てを飲み、席を立った。
「あら、もう帰るの?」
再び女性から声が掛かった。
こちらは笑って答えた。
「はい。ご馳走様でした。美味しかったです」
「ふふ、高校生でコーヒーの味がわかるなんて、やるわね」
「そうですかね? 要は好き嫌いですから。僕にとっては好きな味でした」
「言うじゃない少年」
クスクスと、それぞれに笑った。会計に向かい、仕上げをする。
「あ、そういえば、僕が来たことは話さないでおいてもらえますか」
「あら、どうして?」
「僕の周りでも結構聞くんですけどね、バイト先に同級生とか、同じ学校の生徒が来られるのって、すごくやりにくいんですって。真面目な人ほどそう思うらしくて」
「あらあらそうなの」
「もし僕が来てしまったせいで、その方が辞められてしまっては心苦しいですから」
こちらがしおらしく言えば、女性は快活に笑った。
「あはは! 辞めたりはしないと思うけど、確かにそうね。言わないでおくわね。でもまた来てちょうだい! 若い子と話すのは楽しいわ」
「僕で良ければ、是非。また来ます」
「今度はデザートも食べて良いんだからね?」
「覚えておきます」
料金を払うと、笑って店を出た。
連絡のあった場所に向かえば、見慣れた車が停車していた。乗り込んで礼を告げれば、車は帰宅の途を進んだ。
適度に笑って、適切な相槌、時折こちらの考えを開示すれば、人は勝手に都合の良い設計図を書き上げてくれる。点から線、線から面を作るには、こちらが三点示せば良いだけ。
人は人の中でしか生きられないのだから、人当たりの良い人格を作って、自らの生活を住みよくするのが一番自分のためになる。それをわざわざ壁を作って籠城し、一人であろうとするのは、効率が良いとは思えない。
もちろん人には得手不得手や好悪があって、理想の人格を形成できない場合も多い。しかし彼女は……彼女は何なんだ?
人格を作っているのか、いないのか?
驚くほど綺麗に笑みを作って教室を出て行ったときもあった。かと思えば不器用に笑って、笑ったと思えばすぐに真顔になる。周囲の視線は気にしているのに、教室では見かける度に一人で本を読んでいて、基本的には誰とも話している様子はない。
転校初日から言い寄られていて、だから自分も警戒されているのかと思った。猛犬のように睨まれては、あまりに真っ直ぐにこちらを見る。景色を見ている横顔は穏やかで、嫌なことには見ている方が愉快なほど、露骨に表情を変える。甘いものを食べているときは、少しだけ頬が緩んでいる。
――嫌なことなのに、彼女はきっとこちらの意見を受諾する。
彼女は何を優先しているのか?
羽山とはどんな関わりがあって、何のためにあの別荘で、たったの一人きりで住んでいる?
笑ってみせてほしいと、思うのは……好奇心、なのか。これほど彼女を考察して、結局何の情報も出なければ、自分は……。
いや、進むしか、進むことしかできない。今はとにかく情報を集めて、彼女の答えを待つしかない。
分かっている、分かっているとも。だが、あまりに時は遅い。自分の歩幅に、道が合わない。もどかしさだけが、いつもこの手を握った。
雑念を払うように、ただひたすらに人参を切っていた。
帰宅後、程なくしてキッチンに立ち、作業を続けていた。フードプロセッサーはあるが、今はただ、何かに集中していたかった。ただ切ることだけを考えていれば、それでいい。摩り下ろしでも良かったが、こちらの方が時間が減ってくれるはずだった。しかし、周囲の明るさは大して変わらないのに、気付けば粒になっていた。
玉ねぎも同じようにして、既に切り終えてしまっていたので、やむなく次の工程へと移った。
具材を投入し、炒める。炒め始めてしまえばもう、あとは状況に合わせていくしかないので、時間に抗うことはできない。呆気なく、ドライカレーができてしまった。
日の落ちた頃、皿にご飯、ルー、最後に温泉卵を乗せた。炊き立てのご飯に、スパイスの香りが食欲をそそる。玉ねぎも嫌というほど微塵切りにしたせいか、いつもより旨い。少し情けなくなる。
完食して片付ければ、ソファで横になった。
鋭く放たれた「貴様」という言葉と、温度のない「君」、気安い「如月」と、たった一度きりの杜撰な「夏樹さん」が、ずっと耳の奥で色付いていた。
こういう類いは、「考えないでおこう」とした方が余計に考えてしまうのは分かっている。ならば別のことを考えるか、いっそとことんまで考え切ってしまうか。
しかし他に思い付くこともなく、考えても考えても、尽きることなく考えてしまう。つまりはずっと同じことしか考えていなくて、そんな自分があまりに愚かしい。
だから一人は好きじゃない。考える必要のないことまで考え始めてしまう。
違うことをしよう、と机に向かってテキストを開き、ノートも開いた。いくつか問題を解いたところで、また声が響いた。目を閉じて頭を振れば、不器用な笑顔が……。
思わず額を抑えた。
今まではずっと、兄のことを考えてきた。しかし最近はずっと、彼女のことを考えていた。それが、必要なことだったから。考える必要があったから。
でも今は、考える必要のないことまで考えている。最早習慣化してしまったように、彼女について考えることだけが形骸化して残っている。だから、だろう。
分かっている、分かっているからもう、考えたくなどない。
風呂から出ても、未だに脳へこびり付く。
……それともこれは、呪詛返しにでも会ったのか?
何度も、意識的に名前を呼んだ。だから、潜在的に自分が「呼び名」に関して意識的になっていた。まだ、その余韻が響いている、だけ。
彼女に対して、恋愛感情などない。決して恋だとかというものではない。だが、自分は「恋」を装わなければならない。相手を「恋」に近付けなければならない。
ならば自分は、むしろ考えておいた方が良いのか? 好きであるように振る舞うには、その方が現実味を帯びるだろうか。人は、好きな人間に対してどのように振る舞う?
笑い掛ける、近付く、話す、触れる、あとは何をすれば良い。どうしたら彼女に好かれるのだろう。
彼女の好みは誰で、どんな姿なのか。少なくとも、自分は好まれてはいないのだろう。どんな人格であれば好ましく思われるのか。
明日は少しだけ、アプローチの仕方を変えてみようか。




