十二
一人で残されたこの機会は、絶好のものだ。調べるなら今しかない、と思うが随分と無駄なことに時間を使ってしまった。あまりに時間が経てば、さすがに不審がられてしまうだろう。
今日は、構造を把握できただけで良しとしよう。時間はまだまだ沢山あるのだから。焦って仕損じることはない。
ゆっくりと進めるべきだと理解してはいても、どうしても気がはやってしまうのがいけないところだ。自分を戒めて、リビングへと向かった。
リビングのドアを開ければ、丁度出て行こうとしている彼女がいた。――危なかった。もう少し遅ければ不審がられたに違いない。もしくは調べている最中に鉢合わすか、だろう。
彼女はその足のまま、こちらに近付いて言った。
「如月、おもたせで悪いが出しておいた。それと別で頂いたケーキがあるのでよければ食べてくれ。あ、如月こそ甘いものは大丈夫だったか?」
「ああ、ありがとう。いただくよ」
反射的に答えながらも、頬に笑いが滲むのを自覚せずにはいられなかった。名前を呼ばれただけのことが、ようやく彼女に個として認められたような気がした。それともこれは「友達」だから?
いずれにせよ、やったことが成功として返ってきているのだから、喜んで良い。そして相手にも事実を認識してもらうことで、より一層こちらへの意識は深まるだろう。
「梓真さんに初めて普通に名前を呼んで貰った気がする」
僕が言えば、彼女は変な顔をして「そうか?」とだけ言った。菓子の用意がされたテーブル席へ座っても、彼女は不思議そうに考えていたので答えを言った。
「だってほら、君、とか貴様、とかそんなのばっかりだったし、『如月様』はノーカンでしょ」
整えられた茶会の席には、薄紫のケーキと紅茶が並んでいた。ブルーベリーのレアチーズケーキだろう。わざわざ用意してくれたのだろうか。
彼女は神妙な顔をして、記憶を辿っているようだった。
「言われて……みれば? そうだったかもしれんな。気を付けるよ」
彼女からの申し出だ、この機会をあやかろう。
「折角だし名字じゃなくて名前で呼んでよ」
「なぜそうなる」
明らかに不平の滲む顔だ。強請ったところで彼女は言わなさそうだ。であるならば、彼女が突っぱねた時点で別の要求を主張する。繰り返し否定する心理的負担により、いずれはこちらの要求を飲みたくなるもの。
「じゃあ一回で良いから」
「夏樹さん」
予想とは反対に、彼女は間髪入れず、投げ槍に言った。
あっさりと要求を飲んだことに驚いたが、何より「さん」付けであることにも驚いた。呼び捨てか君付けか、どちらかだと思えたのだが。
――「夏樹さん」。彼女が夏樹さん、と言った。
いや、言えと言ったのは自分であるからして、彼女はその要求を飲んだだけだ。他意はないのだから。分かっている。
それでもより個として尊重されたような気がして、それが彼女の口から放たれたことが、とても特別なことであるように思えてならなかった。
「紅茶は苦手だったか? コーヒーを入れようと思っていたのだが、そもそもコーヒーがなかったのを失念していたんだ。すまない。今は水と紅茶しかないので苦手なら水を入れてくるが」
彼女はケーキにフォークを刺しながら、こちらの様子を伺った。気遣われていることがむず痒い。
「いや、ごめ、違うんだ。大丈夫。飲むよ。いただきます」
ああ、馬鹿だ、馬鹿なんだ。今日ほど自分が嫌になったことはない。しっかりしろ。
出された茶菓子に手を出した。
そう、普段の自分を思い出して、対応の変動に惑わされず、常に余裕を保つべきだと、自分で結論を出したはずだ。早速どころか、今日はずっとできずにいる。そろそろできてもらわないと困るな、自分は。
これから重要な交渉に入るのだから。
目の前に置かれたケーキを食べながら、そこから話を始めた。
「このケーキ美味しいね。どこの?」
「ああ、それはロボウというカフェのものだ」
「へえ。お持ち帰りができるんだ?」
「いや、持ち帰りはできるが、それはマスターが親切でくれたんだ。よく行くのでな」
「へえ、梓真さんには行きつけのカフェがあったんだね。ちょっと意外だな」
彼女に行きつけのカフェがあるなど初耳だ。小林から情報がなかったことを踏まえると、捜査を終えた後から通うようになったものか。ならば学校が始まってから、ぐらいだろうか。
通学路かその近辺か……。場所に関しては今考えるよりは後で調べた方が早い。有効な情報を得られただけでも今日訪れた意味はあった。
ケーキそのものの味も美味しいし、店名を手に入れられたのだから、まずはコーヒーを嗜みに訪ねてみるか。
早々にケーキを完食した彼女は、こちらの持参した焼き菓子を食べ始めた。
「如月、これは美味しい。ありがとう」
美味しくなくては困る。見合うだけの金額と労力を払ったのだから。そんなことを思いながら笑った。
「それは良かった」
さて、後は相手の望みを得られれば良い。持っている手掛かりは少ないが、ないわけじゃない。あともう一つほど。
「そういえば梓真さんはこういうお菓子は作ったりしないの?」
「菓子か? 菓子は……作れはするが……年に数回するかしないか、だな」
「ふうん、なるほどね」
菓子は作れるが、口調から察するに趣味ではない。対して料理はしない。しかし料理のレシピに漫画、興味の対象としては菓子よりも比重が大きい。
作れるがあまり興味のない菓子、作らないが興味のある料理。なるほど、ようやく理解ができそうだ。
菓子そのものは、食べることに関しては好意的に見える。しかし作ることにはあまり興味は湧いていない。これは別段不思議なことではない。
そして料理は生活環境から見て、関心が生まれるのは頷ける。食事というものは人間であれば毎日必要とするもの。そして彼女は一人暮らしで、出来上がった物を買うにせよ、自らが関わらなければならない。必然、食に関する関心は生まれるだろう。
現時点で唯一見つけた、彼女が持つ能動的な願望だ。後はどちらに転ぶにせよ、賽を振らねば話は進まない。
「ところで梓真さん」
後戻りはできない。どう思われようと、それは必ず関心になる。嫌悪でも好意でも、どちらでも良いのだ。無関心でさえなければ。
「何か?」
彼女は変わらぬ温度で問う。自分ではどうしようもなくなったとき、神に縋りたくなるというのがよく理解できた。こちらも、変わることのないように笑った。
「僕と付き合わない?」
彼女は目を見開くと、そのまま数秒固まった。やがて不審なものを見る目付きになり、咀嚼後にゴクリと菓子をのみ込んだ。
「それはどういう意図だ? 交際として? それとも貴様の行動に付き添うという意味としてか?」
やはり彼女の中では貴様が標準となっているのだろうか。先程は本当に幻だったのだな。
「もちろん交際として。恋愛としてね」
「何が目的だ」
一瞬にして、冷えた空気が漂った。
彼女が一般的な反応をするとは思えなかったが、再び警戒を持ってくるとは思わなかった。今更警戒をするのならば、先程までの対応は何だったのだ。このままでは結局、彼女の恋愛対象がどうなのかも判断できない。
「なにそれ? 梓真さん。僕が梓真さんのことが好きとは考えられないわけ?」
「……好きと言われた記憶はないが。で、仮に好意を持っていたとして、貴様にとっての利益はなんだ。付き合ったとして私が得られる利益は」
利益を先に求めるのか。やはり彼女にとっては感情の優先度が低いのだろうか。
「そう来るか……。じゃ、それに納得できたら付き合ってくれるの?」
「納得できたら検討はしよう。その後、互いに条件が呑めれば可能性はあるだろう」
「可能性はある」、か。対象でなければさすがにそろそろ明示しているだろう。ならば対象としては問題ないのか。
「断定はしてくれないんだね。ずるいなぁ」
「貴様に言われたくはない。それで利点は」
彼女は苛立ちを見せるように、机を指で叩いていた。
苛立っているということは、こういった会話は彼女にとって心理的負担が大きいのだろうか。ならば自分にとっては有利だ。
とはいえ、そもそも彼女に恋愛感情があるのか? こうも恋愛感情としての反応が見えないとなると、そこからまず疑うべきかもしれない。
さて、真の利点は話すわけにはいかないし、何を話そうか。付き合う人間とは、何を求めるものだったか。
「僕は単純に梓真さんと付き合いたいと思ったからだし付き合えたら僕は嬉しいね」
こちらが言えば、彼女は目を細めて口の両端を引きつらせた。
「なにその顔。梓真さんにとっての利点は……そうだなあ……他の人にこうやって告白されることはなくなるんじゃない? 今の反応を見る限り、梓真さんは告白されるの嫌そうだし」
彼女の表情はどんどん悪化していった。よほど嫌なのだろうか。
そしてまた彼女は真顔へと表情をリセットすると、次に眉間だけを寄せて淡々と話した。
「私の利点が薄い。第一貴様と付き合うことになったとして、それを周りに吹聴することはしないしさせない。その条件が呑めない場合は付き合わない」
それはつまり見合うだけの利益さえあれば、付き合うという苦渋も飲み込むということか? そんな表情をするほど嫌なことなのに、利益があれば受けてしまうのか?
彼女は何かが矛盾している。彼女が唯一優先している感情は不快なのに、それさえも顧みないというのか。それは自らを蔑ろにしているに等しい。
彼女はすでに断った気でいるのだろうか。菓子に手を伸ばしたが、取らずに戻したのを見るに、食べるか否かを思案しているようだ。彼女は何かがおかしい。自分は笑うしかなかった。
「じゃあ梓真さんの望みを一つ叶えてあげよう」
彼女は片眉だけ上げると、返事をせずにキッチンへと向かった。彼女はここに住んでいるのだから逃げようはないし、逃げようとしている雰囲気でもなかった。
……ん? 待て、逃げようがないということは、彼女にとっては追い詰められていて、向かった場所がキッチンであるということは包丁を――と思ったところで、彼女がコップに水を入れて戻ってきた。良かった、物理的な戦闘には及ばなかった。
彼女は着席すると要望を述べた。
「私の望みは、貴様と今後一切関わり合いを持たないことだ」
「それはダメだよ。他には?」
彼女は眉を寄せたまま黙った。
一切関わりを持ちたくないということは、やはりこちらは嫌われているからだろうか。嫌われているという可能性は考慮しているものの、彼女と会話していると、嫌われているのかさえもよく分からなくなる。彼女は、何かがおかしい。
嫌われているのかと思えば、笑ってみせたり、あまりに無警戒だったりする。感情の一貫性がないのは、彼女が感情を優先的に取り扱っていないからなのだろうか。
こちらを真っ直ぐに見る瞳には、僅かに困惑が潜んでいた。諦めたように、彼女はぽつりと呟いた。
「……ないな」
僕は思わず笑った。彼女はどうやら無欲らしい。基本的には無欲である方が扱い辛いのだが、今は逆にこちらが提示する利益に染めやすい。
「梓真さんはさ、実際に料理はしていないけど、しようとは思ってるんだよね?」
「どうしてそう思う」
「料理をしようと思ってなかったら、レシピ本なんてわざわざ買わないよね。読書のためだけにレシピ本買う人はいないでしょ。ゼロとは言わないけど」
これは推理が当たっていてもいなくても、どちらでも良い。つまりは自分の土地へ引きずり込めれば良いのだ。
「では私がゼロでない内の一人だとしたら?」
「その可能性も捨て切れないけど、でも梓真さんはさっき『菓子は作れる』と言った。『菓子は作る』じゃなくて」
間を置くように、こちらも残った紅茶を全て飲んだ。
「可能の言葉を使ったのには『料理はできない』という引け目があるんじゃないのかな? そして引け目を感じるのは、『できるようになりたい』という気持ちが少しでもあるからだと思うんだけど」
彼女は押し黙った。否定はしないところを見ると、当たっていたのかもしれない。
数秒の沈黙を作った後、やがて重く口を開いた。
「……それで?」
当たっていたのであれば、技術を伝えるのが良いだろう。回数制のデリバリーなどでも良かったかもしれないが。
「だから僕が料理を教えてあげよう! 良い条件じゃない?」
彼女は再び目と、そして小さく口も開いた。その顔に思わず笑ってしまう。
やがて彼女は深く眉間に皺を作ると、その顔のまま水を飲んで、黙々と菓子を食べた。脳の働きには糖が必要だが、それほど摂取するべきものだろうか。それとも彼女は口にしないだけで、自分よりも沢山のことを思考しているのかもしれない。
つまり黙々と咀嚼しているのはどうやら、彼女なりに考え込んでいるようだった。




