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十一


 次の目的地である和室に入れば、和室特有の香りを感じた。多分あまり使用されていないのだろう。新しいまま残っているような気がした。

 こちらもまた余裕があり、広い空間の中を一通り歩いた。この部屋に何かを隠している、という雰囲気はなさそうだ。あったとして、探す場所は限られているだろうし、これ以上目星を付ける所はない。

 普段嗅ぐ機会のない香りに、どこか落ち着いている自分を感じる。不思議なものだ、畳など触れる機会が少なかったのに、落ち着きや懐かしさを覚えるとは。遺伝子に何か組み込まれてでもいるのだろうか。


「うん、木と畳の香りだ。日本人を堪能できるね」


 口にしながら、部屋の構造を確認していれば、笑い声が聞こえた。


「ははっ、なんだそれ」


 声を振り返れば、彼女が屈託なく笑っていた。彼女が……僕の言葉で?


「あ、笑った」


 得たことのない動揺を紛らわすように僕が呟けば、彼女は一瞬にしてまた真顔になった。……言わなければ、良かった。

 温度のなくなった声で彼女が応えた。


「生きていれば笑うことぐらいある」

「なんですぐに真顔に戻したのかな」

「生きていれば笑いたくなくなることぐらいある」


 言わなければ良かったと思うこと自体が、自分にとっては想定外だ。ままならないのは彼女以前に、彼女と向き合う自分だと笑う。

 笑っていれば良いのに――そんなことを言う権利も資格もないし、必要もなかった。


「ふうん。人間笑ってる方が何かと便利だよ」


 こちらを見つめる彼女の視線は、まるで同情のような沈黙をもたらした。

 彼女に見つめられるのは、無垢な赤子の前に居るように落ち着かない。真っ直ぐな瞳は、こちらの全てを見透かされるようで、今まで築き上げたものの全てが端から崩されていくような気がした。


「……そうか。次に行こう」


 無表情なままの彼女が歩き出すと、安堵を覚えた。あのまま見つめられていれば、何かの歯車が崩れたかもしれない。彼女の後に従いながら、調査以前にここは敵地なのだと、自戒を改めた。




 彼女が客室と呼んだ部屋は、なぜか会議室のようだった。飾り気もなく机と椅子が並ぶだけで何もない。構造としては壁に収納があるようだ。これらの机などを収納するためにも思えるが、一度確認はしたい場所だった。

 間を置かず次の場所へ案内されれば、困惑が浮かんだ。多目的室とは告げられたものの体育館のようであり、先程の客室といい「別荘」としての機能に必要な場所なのか、疑問を持たざるを得ない。


「ここは一体……?」


 思わず問えば、彼女は淡々と説明をした。


「体育館と似たようなものだな。あの壁は特殊フィルムを貼っているので、映写機を使えばスクリーンとして使用できる。奥の扉は倉庫なのでボールだとかマットだとか諸々置いてある」


 つまりは自宅で映画館を再現したいだとか、そういうことなのだろうか。しかし「体育館と似たようなもの」とは。さすがにここは調べる必要がなさそうではあるが……羽山秀繕は彼女以上に分からなさそうなのは分かった。


「なるほど。梓真さんは使ってるの、ここ?」

「たまに、かな。唐突に運動したくなったときは便利だ」

「へえ。唐突ってことは、ストレス解消とか?」

「ああ、誰かさんのおかげで最近溜まりやすいのでな」


 そう言って彼女がこちらをギロリと睨んだ。

 ――ストレスが僕によって溜まっている? それは好都合で、喜ばしい事実なのだが、同時になぜか動揺している。自分がそうあれと望んだのだから、動揺などする必要はなく、当然のことであるのに。

 そもそも彼女はストレスなどという人間らしいものを備えているのか……とも思ってしまうが、同じ人間なのだから、当たり前だろう。何を馬鹿なことを考えているのか。

 誤魔化すように笑って告げた。


「ふうん。梓真さんも大変だね」


 彼女はこちらを一瞥するだけで、次の行動に移った。


「ご理解いただけて何より。では次に行こう」

「はいはい」


 何度こうして後を付いて行っただろうか。




 一階では最後にあたる大風呂へと案内された。浴室に足を踏み入れれば、思わず溜め息に声が混じった。


「すごいなあ、ここは」


 暗い浴室にガラス窓で切り出された景色は、風景画のように優美で、色味がないのに鮮やかだった。ガラス窓の向こうに広がる庭には、葉を落とした木が並んでいる。一見すれば寂寞せきばくをまとっているだけなのに、美しさが胸の内に沁みた。

 そしてどこかで懐かしいと思う自分がいる。類似する景色を見たことはあったかもしれないが、自分が記憶として留めている範囲には見覚えがなく、この場所のこの景色は正真正銘に初めて見た景色だ。これも日本人としての美意識を勝手に「懐かしい」とでも変換しているのか……?

 いや、違う。先程和室で感じた懐かしさと、今感じた懐かしさは似ているようで違うものだ。この、感覚は……――だめだ、今そちらに意識を向けてはならない。今……今は彼女と、この別荘に。

 各部屋を見て感じるのは、羽山秀繕が持つ美意識をこの別荘に落とし込んでいるということ。しかし住んでいるのは彼ではなく管理人の彼女だ。彼女が管理人ということは、彼自身はここには長期間訪れない前提だということか。

 考え始めようとしたところで、ふと彼女の反応が気になった。また睨まれでもしていないか。不安を含む予測とともに彼女の方を見れば、彼女はただ景色を見ていた。

 その姿に言いようのない不安を覚えた。また戻って来ないんじゃないのか。


 ――……また?


 違う、今は、集中しろ。とにかく彼女に声を掛けるべきだ。


「梓真さん」


 彼女に声を掛けてみたが、反応がない。何だか今日は、自分もどうかしているが、彼女もどうかしている。揃いも揃って互いに関心がない。

 いや、自分は関心がないのではなく、今日は集中力が散漫だ。そして彼女もいつもとは少し違う。学校外、だからだろうか。これが彼女の言う「友達」としての接し方なんだろうか。

 もう一度呼び掛けてみた。


「梓真さん、梓真さん。どうかした?」


 ようやく彼女の視線だけが動き、こちらと目が合った。彼女は数度瞬いて、淡々と言葉を紡いだ。


「――あ、ああ。良い眺めだろう? ここは」


 彼女からの同意を求めるような問い掛けは始めてで、そんなことに、なぜだか嬉しくなった。同意を求めるとは即ち共感を求めているということで、それは無関心の相手に求めるものではないだろう。だからきっと、嬉しいのだ。

 そして悔しいことに、ここからの眺めが美しいのは事実で、そこは同意せざるを得ない。だから自分は笑っているのだ。


「そうだね。ここから見える四季は、俗世から離れて、違う時間が流れているような錯覚をする」


 ただの同意で良かったのに、余計に喋ってしまった。慌てて訂正をした。


「って、ちょっと変なこと言ったかな、忘れて」

「いいや。ものの見方は人によって違う、その人だけの見方があると思う。だから君のその感想も素晴らしいものだと、私は思う」


 いつもの彼女からすると、あまりに優しい口調に、戸惑いを覚える。何だ、何なんだこの人は。

 彼女の中では今自分は「友達」なのか? そのように接すると決めたから、彼女は僕を肯定したのか? もうこちらを警戒はしていないのか?

 何なんだ彼女の切り替え方は本当に。訳が分からない。


「……梓真さんこそ、よく恥ずかし気もなく言えるよね、そんな台詞」

「褒めるのと自惚れるのは違うだろう」


 僕が自惚れていると? 彼女にはそう見えているのか。挑発が滲むような言葉に、易々と乗せられて少し気分を害した。彼女の言葉になぜか言い返したくなった。


「自惚れ屋を褒めるのは恥ずかしくないんだ?」

「お望みなら褒めてやろうか?」


 文言にこちらを否定するような意味はないのに、口調によりさらなる挑発を感じた。


「……遠慮しとくよ」

「そうか。では、次は二階だ」


 踵を返して歩き始めた彼女の表情は分からない。でもきっと変わることはないんだろう。

 自分の役割はここを調べること。そして彼女はここを案内しているだけで他意はない。そんなことは分かり切っている。それでも過分を望みそうになる。

 きっとおかしいのは僕の方だ。

 全て分かっている、分かり切ったことなのに、自分の感情だけがままならない。こんな自分は有り得ない。今までの自分ではなくなってしまった。いつから……いつから。

 本当はもう、兄が変わったあの日から、自分も消えてしまったんだろうか。



 二階の大半は同じような部屋だった。家具の配置など違う点もあるが、内装はどこも似たようなもので、ホテルのようだった。使用されている形跡も見当たらないし、めぼしいものもなさそうであるので、取り立てて調べる必要もないだろう。デザインとしては興味深かったが。

 気になるのは施錠された彼女の部屋と羽山秀繕の部屋だ。それらは存在だけで、明らかに何かがあるとでも言っているようなものだ。何かを隠しているとすれば真っ先に候補として挙がる場所だろう。

 今日の時点では鍵の保管場所などが分かれば、大いに収穫があったと言える。

 残る二階での未見学場所は、風呂場とバルコニーだった。そして最後にバルコニーの方へと通された。

 説明を聞き室外へと出れば、風が吹き抜けた。清涼で、冬場だが少し湿気を帯びていた。抵抗したところで、無力にも髪や服は乱れていった。


「ははは、良い風だ」


 風の威勢に声を出して笑えば、彼女は少しだけ物珍しそうにした。彼女の側へ立つ毎に、自分が愚かになっていく気がする。そうだ、風に吹かれただけで笑うなんて馬鹿みたいだ。分かってはいるのだけれど。

 自分は敵地に踏み込んでいるはずなのに、その意識を保っていられない。景色を感じ、彼女を考え、目の前に置かれた出来事へ気を取られてしまう。

 彼女は欄干に寄り、自然を眺めていた。風で髪が揺れていた。

 自らの無能さを思い知る。どんな状況でも自分を保ったまま対応できると思っていた。違った。自らが干渉した箱庭の中で、予測できる事態にのみ、自分の生き方を適用できた。ただの、井の中の蛙だっただけだ。

 それも、分かってはいた。それでも、自分なら可能だと思っていた。そしてようやく現実を認識できただけ。

 分かっている。彼女の隣に立ったところで、彼女は景色を見ているだけだった。自然のように済んだ横顔だ。何度こうして隣で見ていたことだろう。内心で笑って、自分も同じように遠くの山や、そして空を見た。

 何度こうして……こうして……?


「――すまない、冷えただろう。中に戻ろう」


 聞こえた声で我に返った。彼女は室内へ戻って行く。自分も戻ろう、そう思うのに足が動く気がしなかった。

 少し振り返れば、彼女は不思議そうな顔をしていた。分かっている。分かっているのに。


「もう少しだけ、見ていてもいいかな」

「ああ、私はリビングで待っているよ」


 少し驚いたようにも見えた彼女だが、そのままリビングへと向かって行った。

 こちらはまた、景色に顔を戻した。分かっている……分かっていたのに、何がこれほど悲しかったのか。誰か、誰かが死んだ。だから悲しかった。

 こんな風に美しい景色が好きだった人だ。人を見るのは疲れるから、ありのまま、そのままが見える景色が美しくて好きなのだと、そう言っていた。

 ――誰の、何の話だ?

 自分に何の相談もしなかったのは、見えてしまうから? 美しくない、醜いものの全てが見えてしまうから?

 結局その程度の存在だった?

 分かっている、分かっているのに。「不安にさせたくなかった」と言うんだろうと、分かっているのに。どうして心配さえもさせてくれなかったのか。どうしてあなたはいつも一人で行ってしまうのか。


 頭が、掻き乱れる。何の、話だ。誰の話だ。この感情は何だ。

 まさかこの別荘、変な呪いや暗示が掛けられているなんてことはない、よな。呪いだとかを自分が信じているわけではないが、信じている人の中では実在するものだ。兄に掛けた罠を、自分に掛けられていないとも限らない。ここは敵地なのだ。何があってもおかしくない。

 ……同時に、ひどく辟易している自分がいる。全てを疑うことに疲れている。

 彼女の行動が全て計算だとすれば、時折見せる率直な表情も、馬鹿らしい自分を笑う顔も、全て何かの目的のためとなる。

 そこまで疑うことに意味があるのだろうか。

 自分が、何のために足掻いているのか、分からなくなりそうになる。

 もしも彼女が、何の関わりもない人であれば。自分に見せている全てが、ただそのままの彼女だったのであれば。また、また遠くなる。だがこのまま彼女に近付いても、本当に大丈夫なのだろうか。

 何も知らないのであれば、自分は彼女を傷付けることになる。もうすでに、傷付けてはいるのかもしれないけれど。

 それでも自分は、彼女が知っているのか知らないのかを知るために、彼女に近付かなければならない。

 分かっている。分かっていることなのだから。



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