十
一言断りを入れ、門の内側へと足を踏み入れた。
昂然と建つ別荘を見上げ、思わず溜め息が漏れた。その佇まいに一種の畏怖さえ感じるのは、自分が怖気付いているとでもいうのか。
いいや、迫り上がる高揚は、対象を臨むべき場所として定めた。対峙する存在を侮り、足元を掬われることを思えば、恐れは必要な感情だ。
後ろから声が掛かった。
「先に外から見るか? 庭もあるんだが」
確認を焦る必要はない。自ら飛び込んで失態を犯すよりは、彼女の采配に従おう。
「梓真さんに付いていくよ」
「そうか。では一先ずその荷物を置いた方が良いだろう。中に入ろう」
彼女は喋りながらこちらを一瞥して追い抜き、玄関の解錠をした。
そして自分は彼女の言葉で、手土産の存在を思い出した。握っていたのは洋菓子の入った小さな紙袋だ。彼女は甘い物が苦手ではないと判明しているので、問題ないだろう。苦手でない限りは、選択の幅を狭められることはないので楽でありがたい。
「ああ、これ。手土産です。どうぞ」
差し出せば、振り返った彼女はきょとんとしていた。表情を変えぬまま、半ば自動的に反応したような口調で言った。
「え?……あ、ああ。わざわざ、悪いな。ありがとう」
礼を口にしながらも、彼女は一度あらぬ方向に目をやって眉を歪め、その後瞬時に真顔へ戻して受け取った。
……一体何を考えていたのだろう。何となく、自分には都合の悪そうな内容である気がした。
だからだろうか、悪意ではないのだと、まるで言い訳のように説明をしていた。
「梓真さんの好みが分からなかったから、洋菓子のアソート。あと梓真さんだけって聞いたから一番小さいタイプのにした」
僕が近付くのは、彼女にとっては悪意かもしれない。そして僕にとっても彼女や、羽山の存在もまた、悪意だ。それなのに、自分が近付く理由が悪意なのだと思われるのは、状況として不利になるからという以前に、心情として、なぜか想定したくなかった。
彼女は同じように怪訝な、変なものを見る顔をした。
「お菓子……」
「あ、洋菓子苦手だった?」
「いいや、大好きだ。ありがとう」
そう言って彼女が柔らかに微笑んだ。
その顔に一瞬、何も考えられなくなった。最後まで見逃すまいと、ただじっと見ていることしかできなかった。
束の間、一層の静けさが場を支配していた。
「……なんだその顔は」
打って変わって、不審なものを見る目で彼女はこちらに問うた。
――自分の愚かさを憎んだ。
慌てて、繕うようにそれらしい理由を告げた。
「い、いや。険しい顔してたし、ダメだったのかな、と思ってたら、その、予想外の言葉だったから」
口にしながら、それが真実だったのかもしれないと思った。予想はできなかった、だから動揺した、それだけのことだろう。
「私だって謝礼ぐらい言うさ」
「いや……うん。そうか。うん」
彼女の行動は予想も、そして理解もできない。いつも真顔だとか、怪訝な顔をしているからといって、ちょっと微笑んで礼を告げられた程度で、こんなに、動揺してるだなんて馬鹿みたいだ。本当に。
僕が術中に嵌めるのではなく嵌められるのであれば、そんな愚かな話はない。
彼女はドアを開け、もう一度こちらを見た。
「とりあえず、中へ。どうぞ」
「ああ、うん。お邪魔します」
広い玄関を抜けると、リビングに通された。
大きなガラス張りの戸が開放感を出す、シンプルだが上質な空間だ。
歩いて内装を把握した。リビングは一際広く、そのままの感想を告げた。ここは実家よりも広い。この場所に、彼女は一人で住んでいるのか。……自分ならば耐えられないかもしれない。ある種尊敬の念を抱いた。
どこも、見ただけでは不審な点はなく、本当にただの洒落たリビングだった。普通に考えて、他人が見えるような場所に重要な情報を置いているはずはない。しかし情報が秘されていそうな場所は、機会が訪れたときに確認できるよう、当たりを付けておかなければ。
「そこにコートハンガーがあるので使ってくれ」
遠方から彼女の指示を受けた。反対する理由もないので「了解」と告げ、素直に従った。
荷を預けると、ふらりとガラス戸の方へ向かった。なぜだろう、庭を見ていると胸騒ぎに似た、妙な感覚が呼び寄せられた。
何か……何かが似ているのか、違う。どこか、いやこの感覚は一体何だ。胸の奥底で何かが渦巻き始めたような、酷く心を乱される何かが……違う、違う。その栓を抜いてはならないのだと――。
彼女が、こちらへとやってくる足音で、意識が現状に向いた。調子を戻すために、返ってくる答えの分かり切った質問をした。
「向こうが庭なんだね?」
「そうだ」
「この庭の手入れも梓真さんが?」
「いやいや、さすがにそれは。雑草を抜いたりはするが、芸術に素人が手を出してはいかんだろう」
「ふうん、なるほど」
芸術、か。そういう表現をするタイプだとは思わなかった。
「デッキに出るならそこの外履きを利用してくれ。なお、その外履きはデッキ限定だ。厳守してくれ」
そう言って彼女は、ガラス戸の向こう側に置いてあったスリッパを指差した。示した物を確認した後、彼女の方を向いた。
「厳守」ということは何か明確な規則が存在しているのか。彼女と羽山の関係は一体何だ?
「破ったらどうなるの?」
「私がこの家を追い出される」
「えっ」
やはり規約を結んだ関係性なのか。ならば赤の他人、羽山にとって彼女を囲う利益は。
「――というのは言い過ぎかもしれんが、似たようなものだ。羽山さんの指示は絶対だ。管理人として規則違反は見過ごせない」
「厳格だね」
……管理人。この別荘の管理を彼女に託していると? ただの高校生だろう? たった一人で? 彼女に特別な技術があるのか?
彼女は否定するように首を振った。
「遵守しているだけだ。理不尽な条文があるわけでもなし、気を付けるべきところだけ気を付ければ良いだけのこと」
「はは、なるほどね。梓真さんの考え方がよく分かったよ」
彼女は、規則や効率は優先するようだ。ならば優先度の低いものは感情、か? だが不快は優先しているようにも思える。やはり感情の細分化を進めていかなければ。
できるだけ様々な感情を導き出せることが望ましいが、果たして、できるのだろうか。彼女はもはやどの感情が出現するのか、そしてどの感情なのか、見極めるのも骨が折れる。
困難であればこそ、立ち向かうに相応しい。笑って、次の目的地を尋ねる。
「外は後で見させてもらっても良いかな?」
「分かった。では次はキッチンだ。この奥にある」
彼女に従い、キッチンへと向かった。途中、机の上に見えたのは漫画のようだった。直前まで読んでいたのだろうか。
彼女が漫画を読むというのは意外だったが、表紙に大きく鍋料理の絵が描かれていたので料理漫画なのだろう。以前質問に回答は貰えなかったが、レシピに加え、漫画ででも読んでいるとなれば、相当な料理好きなのだろうか。共通の趣味として話題にできれば良いのだけれど。
向かったキッチンはリビングと地続きで、こちらも機能から考えれば十二分な余裕のある空間だった。
見当たる家電はどれも新調されたように綺麗な状態で、よく見れば使用されているのは分かるが、ほとんど使われていないようにも思えるほどだった。そしてシンプルで洒落たデザインかつ、落ち着いた色合いのもので統一されていた。だからこそ、その調和を乱すような、マグネットで冷蔵庫へ雑に貼られたメモに目を引かれた。
まるで暗号かと思うほど読み取りに労を要する。内容自体は日常の覚え書きのようだが、以前見た彼女の字との違いに驚きを禁じ得ない。あの字は、彼女の中ではとても丁寧に書かれたものだったのだと知った。その事実に僅かでも浮かぶこのむず痒い感情は……愉快、なのだろうか。
ふと彼女を見れば、腕を組んでこちらをじっと見ていたので、思わず「良い冷蔵庫だね」と言った。冷蔵庫が冷蔵庫の質として良いのは間違いないし、ユニークな情報を得られたという意味でも良い冷蔵庫だった。と、なぜそんな言い訳をわざわざ考えているのか。
彼女は何も言わず、ただこちらを見ているだけなので少々居心地が悪い。誤魔化すように見学を続ければ、コンロで話の手掛かりを見つけた。
料理をする身としてはコンロの汚れというものは気になるのだが、その汚れが全く見当たらない。今はIHだからまだ手入れはしやすいが実家はガスだった。やはり彼女には特殊な技術か何かがあるのだろうか。
「へえ、綺麗だね。新品同様だ。使われた形跡が一切見えない。どうやって掃除してるの?」
言って彼女を振り返ると、その形相に内心怯んで後退した。眼差しの鋭さは先程の比ではない。明らかにその目には怒りが込められていた。
そ、そんなに怒らせるようなことを言っただろうか。彼女は分からない。思わず自らの心情が漏れた。
「……そんなに睨まないでくれるかな」
彼女は変わらぬ表情のまま、苦々しさを含ませて言った。
「ご慧眼のとおり一切使用しておりませんので。汚れていなくて当然でございますとも」
一瞬、理解に時間を要した。
……なるほど。誤解があったようだ。自分は彼女が料理をするものと思い込んでいたが、どうやら事実は違うらしい。
とにかく原因が誤解だっただけなのなら、問題はない。安心して、笑いが滲んだ。
「ああ、はは。そういうことか。ごめんごめん、皮肉のつもりはなかったんだけど。てっきり梓真さんは普段から料理してるのかと思ってたから」
僕が弁解をすれば、ようやく彼女の表情からは険が取れたが、今度は怪訝な顔をした。
「どこからそんな飛躍した思い込みが」
……飛躍していただろうか?
こちらは先程見掛けた料理漫画を指し示した。
「だっていつも料理の本を読んでるし、そこにも料理の漫画があるし。料理好きなのかなって」
彼女はこちらが指し示した先を見ると、一変して目と顎を開いた。面白い顔だな。
「ゲッ」
「ゲッって」
そして少し視線を彷徨わせると、慌てたように彼女はこちらを非難した。
「な、何で私が読んでる本を知ってるんだ、大体なんだ貴様、ことあるごとに料理料理と、料理に一体何の因縁がある」
「貴様……」
僕が呟けば、彼女は「あっ」という顔をした。声がなかったのが不思議なくらい、「あ」という文字の似合う表情だった。
もしかして彼女は、先程も名字ではなく貴様と呼ぼうとしていたのだろうか……。まさか彼女の心中では貴様と呼ばれているのか……?
彼女は右手を上げて、顔を逸らした。
「――失敬。悪意はない」
ころころと表情や態度を変える彼女が面白かった。先程まで一貫して無表情だったのが嘘のようだ。
動揺をしているのか、これが彼女の素なのか。どちらにせよ、難攻不落の要塞というわけでもなさそうだ。突破口の手掛かりを見つけた。
もう少し様子を見てみようか。
「日常で貴様って言う人初めて聞いたよ」
「……すまん。私が悪かった」
彼女は謝ったものの、すぐに言い訳を付け足した。
「だが、あれだ、貴様はほら、昔は尊敬の意があったと言うじゃないか?」
慌てて言い繕おうとする彼女に思わず笑った。彼女の攻略法が分かったのなら、それは喜ぶべきことであって、面白おかしくて笑う、というものではない。それなのに彼女の言い訳も、自分が言い訳をされていることも、妙に面白かった。貴重な姿だからだろうか。
「その場合のアクセントは『き』に付けた方が良いんじゃないかな? それに言葉の意味そのものより、本人がどういう意思で使ってるかの方が大事だと思うけど。それと、本に関しては梓真さんが読んでるときに中が見えたから。不快にしたなら、それはごめん。料理のことを聞くのは、共通の趣味があるのかと思って」
こちらも言い訳をすれば、彼女は不思議そうな顔をした。
「共通の趣味?」
「料理が好きなんだ」
「エ゛ッ」
僕はこれまで聞いたこともないような音を聞いた。
「どこから出たのその声」
こちらが思わず問えば、彼女は質問には答えずに、独り言のようだがはっきりと言った。
「なんだそれ。腹立つなあ……腹立つ」
「え、なんで」
彼女の言う「それ」とは、僕の言った「料理が好き」という点についてだろうか。なぜ僕が料理が好きであると、彼女に腹立たれるのだろう。
「貴様に賎民の気持ちが分かるまい。……失礼、うっかり本心が。次は和室を紹介しよう」
言い終えれば、すぐに彼女は次の目的地へ歩き出した。こちらは後を追いながら不思議に思った。
賎民? 彼女は自らが賎民であるとの意識があるのか。変な人だな、こんな所に住んでいるのに。いや、彼女は管理人、なのか。ならば以前は全く違った暮らしだったのかもしれない。しかし管理人に選ばれたのであれば……いや経緯は分からないので、今はそれよりも彼女が「本心」を言ったという点に着目するべきだ。
「はいはい。僕としては少し心を開いてくれたみたいで嬉しいけど」
「はあ。恥ずかし気もなくよくそんな台詞が出てくるものだ。鳥肌が出そうだ」
「貴様もなかなか出てこないよね」
彼女は舌打ちをしそうな表情で一瞬こちらを睨んだが、すぐに前を向いて歩き続けていた。
これはそろそろ嫌われていると思っても大丈夫だろうか。良い傾向だ。彼女の関心がこちらに向いているのであれば。




