九
いよいよ明日か。
遠足前の小学生じゃないのだから、さっさと寝るべき、だが。寝付けないのはやはり、知らずの内に浮かれているとでも? それとも緊張なのか。……自分が?
諦めてベッドから起き上がった。日付けが変わっているのを確認して思わず溜め息が出た。
六年という歳月の中で見込めなかった発展が、ようやく訪れようとしている。高揚するなと言う方が無茶だというものだろう。と、言い訳を付けたところで眠れないのは事実で、為す術がないのもまた事実である。
部屋の明かりをつけた。起床後にするつもりだったが、今のうちに服でも選んでおこうか。天気予報や最高予想気温などを参考にし、クローゼットを確認した。数着取り出して、ベッドの上に並べた。
じっと服を見つめて、ふと思う。私服の第一印象は重要なものであるはず。女性ならば尚更だ。今更思い当たり、自らを恥じた。新調しておけば良かった。いや、却って気合いが入って失態を演じるよりは、着慣れた服の方が余裕を生むか。
その想定からいえば、制服を着るのが一番となるが……条件だけを断じるのであれば、アリかもしれない。しかし私服がないと思われるのはプライドに関わる。
ああ、眠れないとはいえ、何でこんなことに悩んでいるんだ。馬鹿じゃないのか。
多分彼女はそう、他人の衣装に頓着などないだろう。少ない交流の中で、そういう人柄だと感じる。つまり悩むだけ無駄だ。
一見印象が派手ではなく、安心感を与える無難なものを選び、壁に掛けておいた。他のものは収納し、クローゼットを閉じた。
眠気を呼び寄せるためにとにかく体温を上げようと、シンクの前で白湯を飲んだ。飲み干してマグカップを片付けたところで、自分の行動に違和感を覚える。服装ごときで悩んでいた自分が有り得ない。条件に合わせて絞り込んでいけば、わざわざ「悩む」ほどの無駄な時間を消費する必要はなかったはずだった。
眠れない、割に活動時間は普段より超過しているので判断力が鈍っているのだろう。自己管理能力の甘さを改めて自覚し、今後に活かすとしよう。
やるべきことはやっているつもりだし、基本的には問題なく熟せているはずなのだが、自分も人間である以上、全く失念しないというわけではない。その失念の回数をどれだけ減らせるかが重要で、それには多角的な視野と再確認、規則的な習慣などが必要だろう。
つまりあとは眠るだけなのだが。
溜め息をついて、明かりを消すともう一度布団に潜り込んだ。
今回はただの下見なのだから。必要なのは構造や設備の把握で、その他の懸念は全て無駄なこと。彼女にどう思われようと、「思われた」のであればどんな感想であれ、それは関心であるのだから喜ぶべきことだ。無関心でさえなければ良い。
しかしそもそも既に無関心の領域は脱しているはずだとも思う。謂わば彼女の家にお邪魔するのと相違ないのだから、家を訪れるという時点で、その他大勢よりは確実に関心を持たせることができているはずだ。ゆっくりで良い、焦ることはない。
付き合うことにさえ漕ぎ着ければ、当面の障害は消える。肩書きさえ手に入れば、足繁く通ったところで不思議はなくなるのだ。……足繁く通うには、交通手段が難点であるが。いや、今回はバスとするにしても、次回からは敷地外まで車で行けば良いか。
あの場所は、羽山の別荘であると同時に、七瀬梓真の居住地だ。またも因果の逆転を図るわけだが、特定の人物を自宅というプライベートな空間に何度も招き入れているということに疑問を持った瞬間に、その疑問が起爆剤となるはずだ。
なぜ何度も家に上げているのか。始めはそういう条件だからと分かっていても、次第にそれだけ親しいからだと思うようになるはずだ。そうだ、ついでに名前ももっと意識的に呼ぶようにしなければ。
第一、一人暮らしだと主張しておきながら招き入れるのだから、通常よりも心理的負担は大きいはず。そもそも彼女はそこのところの自覚はあるのだろうか。
日中だとはいえ、僕を招くことに何の気掛かりもないのだろうか。まさかとは思うが、そういう意識が全くないだとか、そんなはずはない、……よな?
いや待て、羽山と繋がりがあるのだから、もしかして恋愛対象は男ではないのか。可能性だけならば、十分に有り得る。例えば羽山の方が、自身の恋愛対象でなく、かつ相手にも惚れられては困るだとか、そういう考えがあったのであれば、そういう人材を選択することも有り得るだろう。依然、何の関係なのかは分からないが。
もしもそうであれば厄介だな。ああ、また道が遠のく。
とにかく告白さえ済ませてしまえば、彼女がどうなのかは分かるだろう。対象でなければ友人として、より交流を深めれば良いわけで。
振り返れば、彼女はどことなく男らしい部分も見受けられるような気がしてきた。何よりあの字面は男子のようだ。それに松川の言葉を鵜呑みにするわけじゃないが、この顔に大した反応がないのもそういう意味だろうか。
しかし黒澤は星空の窓辺で詩集を読むメルヘンイメージだとか言っていたし、自分が思うより大した顔じゃないのかもしれない。……そもそもメルヘン顔って何だ。童話に出てくるのか、この顔が。
だいたい星空の下なら、なんで詩であって天文学書じゃないんだ。星座早見表だとか望遠鏡とか、色々あるだろう。わざわざ詩である必要はあるのか。
――馬鹿だな。寝れないからといってこんなことに頭を使うのは馬鹿げている。深夜は余計なことばかり思い浮かぶからいけない。大人しく、眠気が来れば良いものを。
その後もごちゃごちゃと無駄なことを思い浮かべては掻き消して、繰り返すうちにいつの間にか眠っていた。
昼過ぎ、予定どおりの時刻、指定どおりのバス停に降りた。
バス停には彼女が腕を組んで立っていた。思わず笑みが浮かんだ。これから、ようやく本格的に前へと進んでいけるのだという思いで溢れていた。
去っていくバスを感じながら、陽光に照らされた彼女の私服姿が目に飛び込んできた。彼女はグレージュのゆったりとしたオフタートルニットに、ほとんど黒に近い濃紺のスキニー、黒のスニーカーを身に付けていた。
私服の彼女は、制服を着ているときのような人を寄せ付けない空気が一切なく、むしろ何かを許容されたような錯覚がした。そう、錯覚、これは思い込みだ。
私服姿を見たことがないわけじゃない。写真や遠巻きになら見たことがある。それなのに直接、近距離で目にするのは、なんとなく彼女への印象が変わるし、なぜか見ていてはいけないような、知ってしまってはいけないものを見てしまったような気がした。そして何かがもう既に後戻りできない場所まで来てしまったような、そんな――
「こんにちは」
彼女から挨拶を受けた。挨拶は、人とのコミュニケーションにおいて基本中の基本である行為だ。
しかし彼女から挨拶されるときなどが来るとは。しかも「こんにちは」という聞いたことのない台詞、いや、学校生活で昼の挨拶などしないのだから、それは当たり前であり、そんなことを考えている場合ではない。自分がすべきことは挨拶を返すことである。
「はは、こんにちは。梓真さん、ごめんね待たせて」
軸のブレた精神を笑って戻そうとして、虚しくも乾いた笑いが突いて出た。
「いえ。では付いて来てください」
彼女の声は先程よりも低かった。
「あれ、なんか怒ってる?」
僕は思わず尋ねた。一拍のち彼女が答えた。
「いいえ。平常どおりです」
「そっか、なら良かった」
僕が安堵を示せば、彼女は歩き始めた。彼女の誘導に続いて黙々と歩く道は、すぐに上り坂になった。
前を見続けているのが申し訳なくて左右を見るが、木が並ぶばかりで変化は特にない。残る視界は上下だが、頭上も地面も、より変化などない。
諦めて進行方向を見るが、やはりなんとなく目の遣り場に困る。そう、背中だ、背中を見ていれば良い。
歩行に合わせて、彼女の長髪が揺れる。彼女の服装は、待たせていた間は少し寒かったんじゃないかと思う。だからといって交通手段を制限されてしまったのだから、バスしか選択できなかったのでどうしようもなかったのだけれども。
しかししばらくして疲れてくると、自然と視線が下がった。
冬の今でもスカートを捲し上げて素肌を晒している女子を見ていても、何とも思わなかったし、これからも思わないだろう。だから両脚のタイトなシルエットが視界に入るのは、目の前にあるからという理由以外にない。
敢えて挙げるとするのならば、ニットが柔らかな線を描くからこそ、脹脛などのはっきりと描かれた曲線が対比して、目が引かれるのだろう。強調される部分に視線が行くのは自然なことであって、僕に倒錯嗜好が内在しているわけじゃない、絶対に。
すると突然、彼女が小さく頭を左右に振った。その様子を見たのをきっかけに、それまでの考えが払いのけられ、自らの内に不審が躍り出た。
「……梓真さん? 何か変なこと考えてない?」
言ったそばから、考えていたのはどちらだと――いや、それでは自分が変なことを考えていたと自認することになる。違うとも、自然の摂理だ。
彼女は歩きながらこちらを振り返ると、笑顔を作った。教室で話し掛けたときに見た笑顔と同じだった。
「いいえ」
「やっぱり何か怒ってるとかではないんだよね?」
「はい、勿論。如月様は本日お客様ですから」
言い終えると、彼女は顔を正面に戻した。
如月様……。初めて彼女から名を呼ばれたのに、形式的なというよりも、むしろふざけているとでもいうような言い方で呼ばれたことに少し落胆している自分がいた。彼女はどこまでも僕個人に関心を向けることなどないのだろうか。
彼女にとっては羽山の別荘も「羽山の別荘」というだけで、自宅という意識は微塵もないのだろうか。「自宅に僕を招いている」のではなく「羽山の別荘に同級生を案内している」だけなのだろうか。
これまでの応答から考えても、もしかすると彼女は警戒心が強いという以前に、心の扉が厚く重く、更に無数にあるのではないか。だからこそどの扉が解錠されたのか、逆にどの扉が閉められたのか、判断している間にもまた別の扉が動いていて、それ故に理解が追いつかないのではないか。
地図もヒントもないのであれば、一つずつ確認していくしか方法はない。途方もない作業になりそうだ。
「……それはどうも。それより梓真さん。この前梓真さんが言ったこと、覚えてる?」
「どの時点の話ですか」
「ん~ファミレスと、廊下かな」
彼女は黙ったままだった。
たぶんこちらの主張は理解しているだろう。一度断っていた話だ、彼女にとっては都合が悪い。しかし「覚えていない」とか「口約束だ」などと言わないのは、自分が承諾したことも覚えていて、そしてそれを自ら覆すことができない性質なのか。だから今はこちらの出方を伺うことしかできない。
交渉事は弱いのか? 意外と押しに弱いとか。
「梓真さんが言ったんだよね。学校以外なら僕と友達だって」
彼女はまだ黙っている。僕は更に続けた。
「今日は友達として接してくれるって。敬語はなしっていう僕の提案に納得したのも梓真さんだ。違う?」
耐えられないとでも言うように、彼女は首を左右に振った。
「――わかった。わかったから。休日までその無駄な圧力をかけてくるのはやめてくれ。それで、何が望みなんだ」
無駄な圧力……。
「だから普通に会話をしてくれること」
「きさ……君の話を聞いてやることはできるが、私から話せることは何もない。案内は別として」
言いかけてやめた言葉は何だったのだろう。こちらの名字を呼ぶのを躊躇ったのだろうか。
「内容なんてなくても良いんだよ。ただの会話のキャッチボールさ。まずは世間話とか雑談とか。友達ってそういうのじゃないの?」
「……はあ。君の言い分は分かる。だが実行できるかは別だ。私は世間話というのはあまり得意ではないし、本当に君に話せることなど何もない」
「じゃあほら、自己紹介。好きなこと、嫌いなこととか――」
喋っている途中で、ふと視線を奪われ、言葉が途切れた。立地としてはひっそりと佇んでいるとでもいうべき場所に、全貌は見えていないのにも関わらず、堂々と、凛として存在しているのだろうとわかる建物があった。
「あ、ここがそう?」
目の前にある黒い門の奥には開けた土地があり、洗練された庭が広がっている。近付いていけばよりはっきりと見えてくる、庭の奥に鎮座するあの黒い建物が、羽山の別荘だろう。おおよその外観は知っているはずなのに、やはり実際に肉眼で見るのは受ける印象が違う。
門の向こう側に広がる空間は、訪れた者を歓迎する傍ら、こちらを見定めているようでもあった。
彼女は門扉を開けるとこちらを振り返り、流れるように手で奥を示した。
「そうだ。では、ようこそ。羽山さんの別荘へ」
肯定した彼女は、なぜか不敵な笑みを浮かべていた。




